HAL日記


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2004年5月31日(月) スリーダイヤ
 フロントが醜く損傷している車に鞭打つのは気が引けるし、何より恥ずかしいから廃車にするまで動かしたくは無いが、大雨が降っているので背に腹は変えられない。車庫証明のために団地の管理会社と警察に、整備不良もあからさまな車で赴いた。

 手続きそのものは造作も無い車庫証明だが、そこはかとなく警察庁OBと交通安全協会との関係に思いを馳せる書類を提出し終えると、「実際に車庫を確認しに行くので、一週間ほどかかります」と言われ、引換券をいただいた。田舎に住んでいた頃には、銭の要る車庫というものに意識が及ばなかったが、違法駐車が社会問題になる都会には必要なシステムなのだろう。

 「シグマ、ラムダ」というギリシャ文字名が冠されたのは僕の少年時代に登場して一世を風靡した三菱車で、「大人になたらあの車に乗りたいものだ」と、僕は密かに念じていたのだけど、自分で稼ぎ始めた頃にはもう既にそんな名前の車は販売されていなかった。ところが僕と同じ思いを持ち続けた知人がいて、シグマの中古車を買ったのだという。一度隣に乗せてもらったが、童心には眩しかったハイテク装備も実はただのインジケータであることが露見したし、乗り心地もなんだか頼りなかった。がっかりした印象を漏らすと、彼も同感であるらしかった。

 三菱車から受けるのはランサーに代表されるラリーのイメージだが、関連会社に押し売りしていたあのダサい旧デボネアも実は好きだったりするのに、どうもシグマに裏切られてからは三菱車に食指が動かない。ここらで一つメルセデスにスリーダイヤのエンブレムを付けた高級車を販売してくれたらユーザーの見方も変わるだろうに。

 

2004年5月30日(日) お四国を想う
 慣れるというのは怖いもので、虐げられる事にさえ慣れてしまったら、それはそれで居心地が良くなるのだと聞いた事がある。差別の代表のように言われるインドのカースト制度も慣れた底辺層にとって、別に悪い事だけの制度ではないのだそうだ。

 遍路道を歩いていると、お腹の出た僕みたいな似非お遍路さんにもお接待に与る機会が少なからずあって、それはお金であったり、食べ物であったりするのだけど、修行の意味で歩き始めた人は少なからず戸惑うことだろう。

 友と阿波の国に降り立ち、様々なお接待を受けながら歩いているうち、お接待が当たり前になってしまって、「いくら徳島名産だからといっても、(すだち)を貰ってもなぁ、どうしたらえんかいな」と、罰当たりな会話を交わしながら歩いていたのを思い出す。

 お接待と堕落は裏腹ではあるけど、YUTIANみたいにお接待漬けになった者が、その感動を後に続く人たちに伝えてくれたら嬉しいと考えて彼女の遍路記のお手伝いをしているのだけど、お接待に慣れ切った彼女の遍路記を読んでいると少し引っ掛かるところがある。

 例えば僕の母のようにYUTANを家に泊めた上に、「お大師様が姿を変えて泊まって下さった」。などと有り難がったりするお年寄りが、彼女みたいな罰当たりを増長させているように思えてならないのだ。

 お接待になった方々に、何とか恩返しをしたいと思う僕の方が遍路としていかがなものかと思ったりも実はしている。まだ遍路道に住む人の心情を理解出来ていないのだろうか。お接待は見返りを求めないからこそ尊いのだから。

 

2004年5月29日(土) 初心が挫ける
 今までに4台の車を乗り継いで来たが、全て白だったので、「今回は絶対(フェラーリの赤)にするんだ」と決心してディーラーに行ったのだが、もしも営業マンに、「いい歳して赤ですか」などと笑われたら、愛車に乗る度に顔まで赤くなりそうなので、こう切り出した。「仮に今度買う車を売却することになったら、色で値段に差がついたりするんですか」。

 車好きが高じ、愛車を改造してレースに出たりした挙句、自動車会社に就職したと言う彼は、僕の質問にはほとんど全て淀みなく答えてくれる。曰く、「色によってはっきり差が出ます。シルバーの価格を標準としますと、赤や特殊色は2〜3万円安。黒と白は逆に2〜3万円高になり、その差は最大で5万円にもなります。車種によって人気色が違うんですよ」。その答えを聞いた瞬間に(フェラーリの赤)への拘りがいっぺんに揺らいでしまった僕は、色の話を後回しにして値引き交渉へと話をすりかえた。

 ふた月ほど前に買ったカー雑誌の「目標値引き額」には到底達しないが、「実勢値引き額」を少しだけクリアーしたのであっさりと契約書にサインした。僕の営業マン経験からすると、しつこく値引きを要求してくる人に限って後で文句が多いように思う。散々ケチを付けられて最後には、「値切ったからこの機械は調子が悪いのかなぁ」と、嫌味まで言われたりする。そういう人間でありたくはないと思うから、僕は関西人らしい値引き交渉は苦手なのだ。

 「それでは確認させていただきます。○○はこれで、☆☆はこれで、色は、パールホワイトでよろしゅうございますね」と、営業マンが念を押す。結局白を選んでしまった事に、自分がいかに意志の薄弱な人間であるかを思い知らされ、わだかまりつつサインした。白の手前に「パール」と付けた事だけが、優柔不断な僕の心の中でのささやかなレジスタンスなのだった。

 

2004年5月28日(金) 年齢不相応だ
 三週間ぶりにスポーツクラブへ行ったら、どんなメニューをするのだったか、さっぱり思い出せない。クラブのトレーナー(と言ってもこの4月に入社した新人さん)に一からオリエンテーションして貰ってやっとのことで、名目上はゴルフのためのトレーニングであったことを思いだした。

 特にゴルフに熱中していると言うわけでもないけど、「何のためにクラブに入ってトレーニングするのか」と問われたら何か答えないわけにはいかないので、勿体つけてゴルフと言ったら、それ専門のメニューを組まれてしまったみたいだ。

 ゴルフも決して嘘では無いのだけど、よもや「美容と健康のために」と、良い歳したおっさんが言うのもなんだか格好が悪い気がする。まして、「遍路のためのトレーニングです」などと答えて変人扱いされるといけないから、当たり障りの無い、つまり一覧表の中の回答例の一つを選択したというのが真相なのだ。

 ところがこのメニューというのが相当辛いもので、例えば足を高いところに固定して、上半身をその位置へ上げる腹筋20回が出来ない。当初は遍路のために始めたトレーニングだったのだから、足腰には問題は無いのだがその他の上半身メニューがさっぱり成績が振るわない。この状態に甘んじていて、次回の体力測定のときに、筋力年齢70歳などと診断されたら二度と立ち直れそうもなので、ここら辺で気合を入れ直すとするしかない。あぁ、でも来週が忙しいんだよなぁ。毎月の1万円がもったいないよ。

 

2004年5月27日(木) 踊らされている
 H社の車を買うためにあるディーラーに、営業マンを指名して一駅電車に乗り、更に15分程歩いて出かけた。

 僕のようにピアノを衝動買いする人は少ないだろうが、車を衝動買いした人の話は聞いた事がある。彼は結局ローンが払えなくて手放してしまって、そこで初めて自分が衝動買いをしたのだと気がついたと言う。間抜けな話と言えば言えるが、衝動買いというのは金額の多少とは思ったほど相関関係が無いのかもしれない。

 たった一曲を演奏したいためにフルートを買い換えたという衝動買いの名手である僕は、車のような高価なものを買うときには自分が好きになれそうかどうかで判断して、それから裏づけを取るために本なんか読んだりはするが、都合のいい所だけしか読まないから、結果は決まっているようなもの。営業マンがレースをやったことがあるような熱い人なので遂に篭絡されそうだ。

 

2004年5月26日(水) 送られてきていた!
 懺悔の初体験は既に送られてきていたのかぁ。ひょっとして他の日記も送られてきているのがあるかも知れないな。一度奴に確認したほうが良さそうだ。

 それにしてもやっぱり思ったとおり肩すかしの初体験じゃないか。チョット期待して損をした気分だ。少々遍路道を逸れたっていいような気がするけど、まあ好きなようにお書きください。次の「野宿へのいざない」の話は興味深いけど、チョビットだけ苦言を呈したくなるところがある。でもそれは野宿したことの無い人間のやっかみに近いのでやめておく。

 僕のようなお調子者は、一度四国を廻ってしまうと、もう一人前の遍路気取りで物を言ってしまいがちなのだが、とんでもない思い上がりで、「遍路を語るなら、バスツアーもバイク遍路も、野宿も全部体験してから物を言え。その上で遍路史を研究したなら話を聞いてやる」と言われては返す言葉も無い。

 こう書くと、HALはなんて謙虚な男だろうと思われるかもしれないが、そうではない。実は先日の遍路の最後となった浄瑠璃寺で御詠歌を聴いて涙して以来、少なからず心境の変化があったのだけど、上手くいえないから大人しくしているだけなのだ。

 そのあと実家に帰って父の墓参りをしているときのことだった。ご近所の方にお会いし、「最近HALさんは信心しとるそうなね」と声を掛けられ、「いえいえぇ、全然そんなあれじゃ無いんですよ」としどろもどろの答えしか返せなかった。

 その方は、若くしてご主人を凄惨な事故で亡くされて以来仏道に精進され、今では御詠歌のお師匠様として後進の指導にあたられておられる方で、僕みたいな一回や二回のお遍路程度では到底足元にも及ばない方なのだけど、全く尊大なところが無い。実に優しいのだ。

 そのあたりの部分でYUTIANの遍路記に登場する方に少なからず物申したいのだが、野宿を経験したことも無い若輩者にその資格が無いように思えるのでなんとも口惜しい限りだ。この夏には野宿してきっと物申すぞ。

 

2004年5月25日(火) 古漬け状態
 へんろ道でのお接待というのは相手があることなのでNETで公開するのは慎重にしないといけないのは当然なのだが、実は僕も嬉しさのあまり実名を出してしまって「まずかったか」と後悔している日記があるけど、今更遅すぎるのでそのままにしていたりする。

 YUTIANから送られてきて、まだアップしていない手記を読んでいると、これがなんと罰当たりなくらいのお接待漬けになっているじゃないか。土佐の国編ではずっと車のお接待になっていて、「こいつ本当に歩き遍路かぁ?」と疑念を抱かざるを得ない体たらくだし、伊予の国と讃岐の国が遅れているのは相当なお接待漬けになっていて、どうやって粉飾しようかと悩んでいるからに違いない。

 本人の希望もあって、リアルタイム遍路記(これもかなりいかがわしい)はリンクを切っているけど、サーバー上にはそのまま放置しているので探そうと思えば簡単に見つかるだろう。あのころ彼女が何をやっていたか薄っすらと僕は知っていても、他のお遍路さんが耳にすると遍路道に奴の塚が立てられ、遍路界から葬り去られかねないのでこればっかりは口が裂けても言えない。

 懺悔の初体験編が送られてきてないが、あれは初体験を懺悔すると言う意味か?それならチョットだけ気にはなるが、ショーも無い話だったら僕はふて腐れるぞ。

 

2004年5月24日(月) 宝山寺が近い
 前回の宝山寺参りではとても罰当たりな般若湯のいただき方をしたので、今回は反省して写経でもしてから行きたいと思う。やることはなんら変わりが無いけど気持ちだけは懺悔しているのだ。

 大酒飲みだった父と僕は体質が似ているのか、酒を飲んでもあまり顔に出ない。相当酔ってはいても他人からはそうは見えないらしい。酔っても切れたり泣いたりするわけでなく、睡魔との闘いにひたすら苦闘するだけだ。熱があっても疲労困憊していてもそれほど顔に出ないので誰も心配してくれない。子供の頃からずいぶんとこれで損をしてきたように思う。

 4月に決行した断食だが、その前にTELさんを誘っても、「どうも金を払って霞を食わされるのは詐欺に遭っている気がする」と断られ、止む無く一人で断食したのだけど、なんだかとても楽しく3週間を過ごせたので、そのことを話したら彼も興味が沸いて来たらしく、宝山寺にお参りするついでに断食道場でパンフレットを貰う」と言い出し、あの日懐かしい門をくぐった。

 断食中は歩くのはおろか、起き上がることも出来ない方が結構おられるというのに、毎日1kmの坂を水を背にして往復する僕はとても元気に見えたらしく、「何処ほっつき歩いてるのよ」と、賄いのおばちゃんに散々叱られた。「疲れが顔に出ないのはこんなところに来てまで損をするのか」と父を恨むが、彼女とはすっかり仲良しになっていたのでお叱りも甘んじて受けた。

 パンフレットのことはTELに任せて、道場にとって最も忙しい11時頃に、僕だけおばちゃんに挨拶しに行った。彼女、初めとても驚いた様子だったが、ちゃんと顔を覚えていてくれて、しばらく立ち話で盛り上がった。「わざわざ酒を飲むためにこんなところまで来るならお土産を持って来い」という彼女のリクエストに答えて、次回は桜餅でも買って行くとするか。TELさん前回で味を占めたけど本当に酒を汲むためのペットボトル持って行くんだろうか。

 

2004年5月日23(日) 行とは
 夜毎、幼子の泣き声が聞こえるのは、ひょっとして近頃"はやり"の児童虐待が僕の住んでいる団地の一室で挙行されているのではあるまいかと常日頃から気が気でないのだが、確かめる術も無いから時折何処からとも無く聞こえてくる泣き声に胸が痛む。

 親殺し子殺しといった凄惨な事件がこのところ増えたように報道されるが、果たしてそうなのだろうか。以前はそんな事件が本当に少なかったのだろうか。かつて、口減らしのために遍路に出た、あるいは出されたという話も聞く。老いて労働力にならなくなった者も遍路に旅立ったと聞く。いわば姥捨て山として、へんろ道は機能していたと云う説もある.
そうやって生涯を歩き続け、やがて疲れ果てて足摺り岬から怒涛に身を投じたたお遍路さんも少なくなかったと聞く。

 お大師様の歩いた道を追体験するために後世の求道家が遍路道を開拓したというのが始まりではあっても、それだけでお接待の風習が根付いたとは僕には思えない。「いざり車や、目の見えないお遍路さんは、幼心にも哀れと思いました」という、札所に生まれた菩提寺のご住職の言葉の通り、人としての自然な感情が遍路道を形成していて、今もなおその感情が連綿と受け継がれ、遍路道を守っているように思えてならない。

 遍路道を歩いていると、「歩き遍路こそ至上」と主張する方にも何人かお会いしたし、遍路に出る前には、「バスツアー遍路や、まして代理遍路など、もっての外」と思っていた僕ではあるが、遍路道を歩き終えた今思うのは、遍路に出ることの叶わぬ体で綴った写経をバイク遍路に託し八十八箇所に納経するのも、バスツアーの自称遍路もまた、自分が遍路であると宣言した時から遍路だと言えるのではないかと思っている。
遍路道は人を寛容にするのかも知れない。

 

2004年5月22日(土) 心を伝えながら歩く
 よそ様のサイトが遍路論議で盛り上がっていて、「HALの意見を求める」と、ご指名いただいているんだけど、自分の日記もろくに更新できない有様なのでしばらく勘弁していただきたくお願いします。その代わりというわけではないが、僕は遍路研究家と対峙出来るほどの論客でもないから、自分の日記にこそこそと感想など綴ってみたりする。

 恥を明かさなければならないが、僕は遍路道に降り立った日の半年くらい前まで、順打ちと逆打ちを勘違いしていたほどの無知蒙昧な似非遍路で、札所の名前も1番霊山寺(りょうぜんじ)くらいしか知らないといった有様だった。知っていたのは自分の菩提寺のご住職が某札所の出身だということくらい。NETで溢れんばかりの遍路情報が得られるのを知ったのも出発の数週間前だったが、見ている時間もなかった。

 友と二人で心強くは有ったけど、二人とも高速バスを徳島の何処で降りるのかさえ分かっていなかったのだから呆れてものが言えない。お互いが「彼は知っているだろう」くらいに軽く考えていたのだ。そうして間違ったバス停で降りて道を散々間違えながら、お寺の正しい名も読めぬ僕たちは歩き始めた。

 初日から自業自得の波乱に見舞われたとはいえ、3日目までは行き当たりばったりながらも短距離で楽な道を歩き続けたが、やがて最難所の遍路ころがしにさしかかり、びくびくしながら山道に分け入った。その名の通り大変険しい道だったが、良く整備されていて、綺麗に刈り込まれた草の状態から、それほど前に刈り込まれたのではないことが窺い知れる。「こんな山深い所へわざわざ出かけて来て、札を掛けたり草を刈り込んだりしてくれている人がいるんだ」と、歩かせていただいている立場であることを、そこで我々は初めて認識するのだった。

 酒は食らうは、お経は大きな声で読めないは、写経もしないという遍路の皮を被った「もどき遍路」の観光客も、やがて一人になって歩いているうちにたった一枚だけど写経もし、やっとのことでお経も覚え、何とか「お遍路さん」らしくなることが出来た。そうこうしている内に実家の法事に到底間に合いそうに無くなり、不本意ながら電車に乗らざるを得なくなってしまう。 今回の遍路ではその部分を歩き直したのだが、そこで出逢ったのが遍路道を整備してくださっている方で、朝ご飯までお接待していただいた。

 遍路道にはごみも落とされているし、遍路休憩所で無礼な落書きを目にしたこともある。遍路は紳士淑女ばかりが歩いているのではなく、不貞な輩の比率は日常の世界とさして変わりないかも知れない。ところがあのお世話になった方からはそんな憤った話は一切聞かれなかった。だからそれから後の道がどれほど爽やかな気分で歩けたか、今思い出しても体が軽くなり、時が経つにつれて熱いものがこみ上げて来るようになった。

 遍路とはお大師様信仰という前提が有りはするが、その実際は遍路道沿いに在って、見返りを求めない人々の行為と精神が、脈々と受け継がれているからこそ1000年に亘って存続し続けるに違いない。朝ご飯のお接待に与った故の発言と邪推されそうだが、お大師様に手を合わせる前に、こうした無賞の姿で遍路に関わる方々に手を合わせながら、僕はこれからも遍路道を歩きたいと思う。

 

2004年5月21日(金) モーツァルトは癖になる
 新しいサイトにかかりっきりになって、ふと気が付くと0時をとっくに回っている。もうそろそろ寝ようと思った矢先に、つけっぱなしのテレビから懐かしい曲が流れてきた。モーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」をマリオネットで演じているではないか。マリオネットの動きは大したことないけど、歌がいい。日記を書くのも忘れて見入ってしまった。

 オペラと言うと難しそうに聞こえるかもしれないが、モーツァルトに限って言えば楽しい大衆演劇と言えるだろう。フィガロの結婚にしても、好いた惚れた、彼女は俺のもの、彼は私のも、恋と嫉妬が渦巻く、まるで吉本新喜劇が展開され、最後はメデタシメデタシで終わる。実に分かりやすい。全部聞いたら4時間かかる複雑なストーリーだが、そこはさすがモーツァルトの作曲。興味と緊張が終わりまで続く。全部ではなくダイジェストだったが楽しかった。

 考えてみるとモーツァルトは江戸時代の中後期に活躍した人だから、日本の歌舞伎の全盛期に相当するのだろうか。そうすると、そのオペラで話されている言葉はやはり昔のドイツ語だからドイツ語圏の人にとっても、日本人が歌舞伎を見るのと同じような戸惑いがあるに違いない。にもかかわらず、僕のような極東の国の凡人にも愛されるのはやはり音楽の力なのだろう。映画「アマデウス」の中で歌われるオペラ「魔笛」の夜の女王の歌がなんとなく迫力が無いと思ったら、あれは英語で歌っているんだなあ。昨夜以来ずっと僕の頭の中はフィガロの結婚の曲がぐるぐる回っている。


2004年5月20日(木) 告白
 まだアップしていないけど、YUTIANの日記に「女であること」というのがあって、彼女自身が幼少の頃を振り返って自分の「女らしくない」部分に言及している。まあ、いつの日にかカミングアウトするんじゃないかと思ってパソコンに例えて彼女のことを暗喩した日記を書いておいたが、やっぱりか。

 初めて彼女と会ったのは高知県中村市の四万十川を渡りきったあたり。100m程前を赤いザックを担いでいる小柄なお遍路さんを見つけた。体格や服装その他から判断すると若い女性に思えたが、立ち止まって地図を見ている彼女に声をかけ、振り向いた彼女を見て「あぁ、少年か」と思ったのだが、「声は女みたいだし、胸があるみたいだしぃ」と思いつつ、性別を聞いたりしたらどちらの答えが返ってきても気まずいのでしばらく一緒に歩いてみて会話の中で判断した。「たぶん女に間違いは無かろう」。

 「女であること」を読んでいると、どうやらあの時の僕の心理は彼女にはすっかりお見通しであったらしく、「たいていの人に言われる」と書いてあるから、ひょっとしたら、うっかり僕も口を滑らせていたかもしれんな。女性遍路、野宿遍路と何度も僕が書いているのはそういった人に対する敬意みたいなものなのだが、彼女には男と競う気も無いらしく、どうでもいいことらしい。意識しているのはこちら側だけということか。すんません、そういったのに慣れないHALです。

 

2004年5月19日(水) ちょっと集中してしまった
 今週中に車を買い換える予定のはずが、雨が降ったり、ホームページの制作に忙殺されたりで、予定の消化不良を起こしてしまった。駅前留学NOVAの営業のお嬢さんと約束した今週中の入会は来月に延びてしまいそう。

 僕の通うスポーツクラブは毎月のように、「今月入会の方に限り入会無料キャンペーン中」というPRをやっているようだが、英会話教室も良く似たもんで、NOVAのライバルE○○Nなんかも毎月、「入会金無料キャンペーン中」のティッシュを配っているように思う。それならいっそのこと「入会金無し」と謳えば良かろうものを、それではインパクトに欠けるんだろうか。いずれにしても、あの手この手のキャッチフレーズで顧客獲得に凌ぎを削りながらも、どんどん駅前に留学先が開設されるから、余程日本人は英会話勉強熱が高いのだろう。

 四年後にオリンピックが開催される中国では、国を挙げて英会話を奨励していて、驚いたことに北京辺りでは老若男女がこぞって英語を学んでいるのだそうだ。はっきりしたことは知らないが、英会話を市民に学ばせると自治体に補助金が出るようなシステムだったように思う。日本でもまあ似たようなことを、雇用保険で運営しているわけだが、子供から老人までと言うわけにはいかないのが実情だ。

 かつて竹下総理の時にばら撒いた「ふるさと創世金」なんていうのは、貧乏人が濡れ手に粟の金を手にして使い方が分からず、スナックなんかで金をばら撒いて女の子の歓心を買ったりするのに似ていたように思う。今となっては古きよき時代だったのかも知れない。もう一度バブルがやって来ないかなぁ。

 

2004年5月18日(火) 尼僧修行を応援する
 同じYちゃんでも、昨年末から今春にかけて、当ホームページに住み着いていたYUTIANはしばらく行方知らずになっていたのだけど、僕が「玉虫」さんという方のサイトに、「あんちゃん」という人を捜索しに行って、行きがけの駄賃に書き逃げしてきたら玉虫さんの追跡の手が伸び、当サイトでYUTIANネタで盛り上がった。その様子をどこで察知したのか知らないが、YUTIANは啓蟄を迎えて姿を現した。というわけでまたぞろ彼女とNET上だけでの付き合いが復活してしまった次第だ。

 今度の彼女の日記はちょっと面白い。まだ一部しか読んでいないけど、自分自身の弱点と正面から対峙しているし、少なくともそう思えるように書かれている所は興味深い。なんと言っても今、米国あたりで何かとかまびすしい同性婚だの、ジェンダーといった微妙な問題が、自身の告白的体験としてあからさまに語られている部分には引き込まれる。僕も彼女に会っているだけに、「なるほど、そうだったか」と、唸らされるのかもしれない。

 さてその彼女がどんどん日記を送ってくるので、どうしたものか思案していたのだが、いっそのこと奴に自分でホームページを管理させてやろうと思い、今まで表に出さなかった、物置にしていた家をリニューアルして住まわせることにした。「本宅に妻帯もしていないくせに外に女を囲うとは笑止千万」との謗りを免れそうに無いが、アイドル歌手の公式サイトを、あかの他人が制作しているのと同じこと。なんとしても僕は奴を尼さんに仕立て上げようと思っている。

 

2004年5月17日(月) Yちゃんのこと
 マスターの毒盛りの前に次々とアル中どもが夢破れ、力尽きて倒れてゆく掃き溜めのような飲み屋が開店しているらしい。この店は「開いていることもある」という幻の飲み屋なので、一瞬のチャンスを逃すと次はいつ開くか分からない。まるで時空の歪みに出現した異次元への隘路か、二度と訪れることが叶わぬ桃源郷みたいな所だ。

 「Yちゃんの香典返しが届いているから取りに来い」と言うマスターからの電話で場末の飲み屋へ出かけたものの、香典返しはとてもかぐわしい石鹸だったので、「こりゃたまらん」と、居合わせたお客さんに分けて持って帰っていただいた。使い物にするなら、石鹸もいいけど匂い控え目の方がいいと思う犬年生まれのHALなのです。

 この店で亡くなった、といっても店の中で倒れたわけではなく、家に帰ってから倒れ、そのまま数日後に骸となって発見された59歳のYちゃんを手にかけたのは、実質的にマスターだというのが常連客の間で定説となっている。そんなアブグレイブ刑務所みたいにおぞましい当店では、鬼籍に入った客の冒涜話を肴に一杯傾けるのが通例なのだが、近頃ではYちゃんの話題もめっきり減ってしまった。あれから47日経つのか。去るものは日々に疎しと云うが、僕は同じ日にお通夜に駆けつけたもう一人の「Yちゃん」を思い出す。

 34歳の若さで美しいままこの世を後にしたYちゃんと前の職場で出会ってからもう14年経った。彼女は、当時31歳のおじさんの域に入った僕より10歳も年下の眩しい存在で、誰にでも細やかに気を遣う彼女には、僕も密かに好意を寄せていたものだ。

 つい先日のこと、10年程前に撮影したと思われるYちゃんのデジカメ写真が偶然フロッピーディスクから見つかった。誰の送別会かは思い出せないけれど居酒屋で飲んでいる楽しげな姿がそこにある。人気の高かった彼女は、今なられっきとしたセクハラ行為として裁かれそうな質問にさえ真摯に答えるような子だったから、このときも散々な目に遭っていたように思う。そんな中で、「生まれる前に戻るだけ」と語った彼女の言葉を思い出すが、今になってやっと何のことか分かった気がする。
  
 退職してから入退院を繰り返しながら闘病していた彼女が、親しかった誰とも連絡を取ろうとせず、結局身内だけに看取られた背景には、彼女独特の死生観があったからと思われる。「死というのは哀しいものではない。ただ生まれる前と同じ所へ帰るだけ。ただそれだけのこと」。あの時の彼女はそう言いたかったのかも知れない。  合掌

 

2004年5月16日(日) 宝山寺お酒参り
 毎月1日と16日に催される宝山寺の市は恒例の行事だから、もし中止されるとしたらお隣の国なんかが日本に宣戦布告して、近畿地方全域に戒厳令が敷かれたときぐらいだろう、と高をくくってはいるんだが、宝山寺へ登るケーブルカーの、数えるまでも無い乗客数を見るにつけ、TELと彼の友達を引率して雨の中を生駒まで来た僕はだんだんと不安が募ってくる。

 ケーブルを宝山寺駅で降りると、参道を三々五々登る傘の少なさが僕の心拍数を更に押し上げる。もしも大雨のために今日の市(正確には何の日なのか知らない)が中止になっていたら、樽酒を当てにして、お足元の悪い中、はるばる堺くんだりから来たTELと彼の友達からどれほどの糾弾を浴びることだろう、きっと恐ろしい罰ゲームが僕を待っているに違いない。

 階段を登りきって駐車場に屋台を見つけたときはホッと一安心したが、その店舗数がいつもの三分の一であることを思うと、境内に上がるまではまだ予断を許さない。非難を浴びた時の言い訳と心の準備だけはしておいたのだが、境内の遠くに酒樽を見つける事が出来て、全ては杞憂に終わった。

 雨天決行して下さった宝山寺さん本当にありがとうございます。何はともあれ僕は救われました。命の恩人です。喜びの余り、本堂に御参りするのも忘れて酒樽に直行した、罰当たり千万な不心得者をどうか大目に見てやってください。

 出来ることなら10円の「お心付け」で酒を頂こうと考えている、さもしい心根の僕なのだが、「うまければ、いくらでも出す、関西人」などと御託を並べ、「お心付け」を後回しにしようとするTELはもっといかがわしい気がする。ともあれ、ようやく本日の眼目である樽酒に有り付ける事が出来るのだ。決してアル中のせいでなく、喜びに打ち震える手に杯を持ち、樽の前でグィっと呷ると、仄かな樽の香りと、嫌味の無い懐かしい味が口に広がった。

 かつて断食道場を抜け出して飲んだあの味と変わっていない、と感じたのは意外だった。というのも、あれが断食明けだったからこそ美味しいと感じたと思い込んでいたからだ。だけど不思議なのは良く味わってみると決して高価なお酒ではないのにとても美味しく感じるということなのだ。

 二杯、三杯と杯を重ね、気分を良くしたTELが萩焼のマイ杯を持参してお酒を頂いている老紳士に声をかけ、TELの友達のグラマーなNさんが、「もう一杯いかがですが」と、老紳士にお酌をして差し上げると、その方も釣られて杯を重ねる。気分が高揚して饒舌になった我々は、樽の前で突っ立ったまま禁断の酒盛りをやらかし、周りに迷惑をかける事はなはだしい。

 我々の楽しげな姿を横目に見ながら、遠慮していたおばちゃん達までが酒盛りに参加してくると、老紳士は更に気分を良くして話す。曰く、「このお酒は檀家さん方が献酒された一升瓶で満たしたものなんです。だから色々な銘柄の酒が混じっているんですよ。そして夕方には余ってしまう事があるんですが、そうなると捨てざるを得なくなるので、どんどん飲んだら良いんです。夕方にペットボトルを持って来てお持ち帰りしたらご利益がありますよ」と、教えてくれる。話の真偽は定かで無いのに、「ただ酒大歓迎」の僕たちは諸手を揚げてこの老紳士に賛同した。

 色んな銘柄の酒のブレンドだとも知らず、「変わらない味」と言い張る僕の味覚の出鱈目加減が、図らずも暴露される結果となった宝山寺参りだったけれど、あの酒は本当に美味しい。樽の香りが楽しめたのは大きな樽から立ち上る杉香を浴びながら飲んだからに違いない。こればっかりはどんな高級酒も及ばないだろう。来月はマイ杯とペットボトルを持参することにする。

  

2004年5月15日(土) やけ酒祭りって無いんだろうか
 昨夜は遍路ネタで周りのお客さんの迷惑も顧みず大いに盛り上がり、酒の酔いが回ってきた頃、「日曜日は神戸祭りがあるらしいが、あいにくの雨なので見に行く予定をキャンセルした」と言うTELに、「日曜は僕が入所していた奈良生駒の断食道場隣の宝山寺に市が立つ16日だから只酒が飲める」と話したら、往復2000円ほどの交通費を払って、一口の樽酒を飲みに行こうとなった。笑ってやってください。「ただざけ」という言葉の魅力には抗う術を持たない二人なのです。

 「只酒言うたら、他にも聞いたことがあるなぁ、確か『ただ酒祭り』とか言うて、やっぱり奈良にあったぞ」と、TEL。「まぁさかぁ〜、そんな名前の祭りやらかしたら全国のアル中が殺到してえらいことになりまへんかぁ、そらたぶん『きき酒祭り』の間違いやないですか」と僕。「いや、確かなぁ、青竹を切ってそこに酒入れて燗するねん。で、それを巫女さんみたいな装束の女の子に、これまた青竹で作った猪口に注いでもろてグビッと頂くねん」とTEL。「それ、ひょっとしたら『ささ酒祭り』言うんと違いますか、それええですねぇ、行きまひょ」となったが、今日調べてみたら、場所は確かに奈良の大安寺。が、しかし今年は1月の23日にとっくに終わってしまっていた。巫女さんではなく、振袖みたいな感じの着物でお酌をしてくださるらしい。年がら年中やって頂きたい夢のような祭りだ。来年まで覚えておいて是非行こう。

 ヤンボーマーボーの天気予報をみたら、残念ながら近畿地方の明日は朝から大雨。TELが飲み友達を連れて来ると言うのだが、彼の話によると僕の日記を読んでくださっているご夫人だそうだ。この方には実に気の毒だが、天気にもHALにも落胆することになるだろう。唯一の救いは宝山寺の樽酒のみだが、それも間違いなく催されるんだろうか、なんか心配になってきた。

 

2004年5月14日(金) OFF会
 今回の遍路では根性の無いところを世間様につまびらかにされ、あまつさえ若造のHALなんぞに足手まとい呼ばわりされたとあっては、さぞかしTELも意気消沈しているだろうから、忌まわしい過去のことは水に流してここは一つねぎらってやろうと居酒屋でTELと二人だけの慰労会をもった。

 若く愉快なマスターと、溌剌とした彼のお母さん、焼酎の品揃えと豊富なメニューで人気のお店のカウンターには、既に卓球クラブを終えたTELが陣取っていたのだが、店の様子がどこかおかしい。聞くと、マスターが長野県へ放浪の旅に出たと言う。

 そういえば先日の遍路で女性遍路さんから豆対策のジェルパッドを頂いたけど、あの方が長野県から来られたと話していたし、先ごろリンクさせていただいた、やはり女性遍路の玉虫さんも長野県と聞いている。このところ妙に長野県に縁がある気がする。

 お母さんによると、「口琴とか外国の民族楽器を沢山携えて出て行きました」とおっしゃっていたから、何かその系統の修行でもするんだろうか。それにしても今年一杯までというのはいかにも長すぎる。「嫁でも連れて帰ればいいのにね」と、忙しく立ち働いているお母さんを、、ねぎらったのか、おちょくったのかよく分からない会話で盛り上がった。何処までも付き合いの良いママさんだ。

 さて当のTELさんに今回のアクシデントをねぎらう言葉をかけて、この次の遍路予定は愛媛土居町から香川観音寺まで歩く旨を報告したところ、「おお!俺もそれ行く行くぅ」と、少しも悔恨の様子がない。それどころか、まだ一滴の酒も飲んでいないというのに、「遍路はやっぱり菩提の道場愛媛が一番やね」と、増長もはなはだしい。「あんた、まだ修業の道場高知は一歩も歩いて無いでしょうがぁ!」と、いさめるのだがB型人間聞く耳持たずの有様。やっとれんな、心配して損した。

 

2004年5月13日(木) DVDで音楽を
 ビョークというのはアイスランド生まれの女性歌手、作曲家なのだそうで、彼女の熱烈なファンである姉の家に行ったところ、「ビョークが主演したダンサー・イン・ザ・ダークという映画の中古ビデオを買ったから貸してやる」と言う。

 この歌手の名前を聞いただけで成人病を患いそうな気がして、どうにも落ち着かない僕なのに、薄幸、不条理をテーマにしたこの映画なんか観たらどんなことになるか知れない。丁重にお断りしたいのに無理やりビデオを押し付ける。「こんなもんいらん」と、突き返そうものなら僕自身が不条理な目に遭わされかねないので、大人しく持ち帰った。

 あれから一月余りになるが、例のビデオはデッキの上で埃をかぶっていた。いつかお祓いをして返そうと思うけど、「面白かったか」と聞かれ、いい加減な返答をしようものなら根掘り葉掘り尋問されるだろう。もしも観ていないのがバレたら、それこそ薄幸の憂き目に遭う気がする。

 パンドラの箱を開けるようで気が進まないけど、一応観ておくことにしたら、これが日本語吹き替え版というやつで、真剣に見ていなくても内容が頭に入ってしまう。そのうち、「なんて歌が上手い女優さんだろう」と感心し始めたが、「良く考えたら歌手が演じているんじゃないか」ということで、「なんて演技の上手な歌手なんだろう、しかも作曲も彼女らしい」と、いつの間にやらヒロインに感情移入しながら見入ってしまった。

 タイトル通り、視力を失っていく女性ダンサー(ビョーク)が冤罪で、哀れ縄の露と消えてしまう非情な物語。モザイクをかけたくなるような陰鬱、薄幸、不条理が展開されるが、「彼女が残したものは息子への愛だった」というメインテーマに、観る者は救われる。

 菩提寺のお坊さんは気に入った映画ならDVDを買って何度もみるのだとか。1枚1500円くらいからあるらしい。このビョークの中古ビデオの定価が16000円となっていることを思えば随分安い気がする。それなのに遍路を終えて実家でくつろごうとして買ったスタニスラフ・ブーニンのショパンのCDは、絵も出ないくせにどうして2800円もするんだ。納得できん。

 

2004年5月12日(水) 黒と白の風
 駅のコンコースを歩いていると、一瞬空気が切り裂かれる気配を感じて、天井を見上げると彼らが来ていた。上に燕の巣があることを示す赤いコーンがこの駅前の通路に置かれ、それを避けて急ぎ足で通勤するようになったのは、そんなに古い話では無いように思う。

 本来なら日本に渡ってくる燕は、民家の玄関先ではなく玄関の内側に巣を作っていた。田舎の家は今でもそんなつくりになっていて、この季節になると玄関戸のガラスを一つ取り外し、雛にえさを運ぶ敏捷な彼らが出入りし易い様にしたものだ。僕の実家もそうなのだが父が亡くなってからは、「蛇が入ってくる」と、嫌がる母がガラスを外さなくなってしまった。

 去年のゴールデンウィーク期間に田舎に帰り、玄関を戸を少し開けた一瞬を狙って一羽の燕が飛び込んできた。梁の所には前年まで使われていた巣が放置されているのが見える。うっかり玄関戸を閉めてしまって彼らを慌てさせてしまったので、「ガラスを外しておいてくれ」と母に言い残して大阪に帰ったが、調子よく、「分かった分かった」と答えた母は、今年もやはりガラスを外していないだろう。

 燕と人との共生関係、信頼関係がいつ頃から築かれたのか知らないが、彼らは今年も約束を守ってやって来た。日本家屋が減少し、ニュータウンが造成され、人の出すごみを餌にするカラスが増えたことで鳩も燕もだんだんと住み難くなる。実のところ人間だって環境が悪化したせいで、住み難くなったと思っているのに改めることが出来ないでいる。人が自然との約束を破り続けているなら、この先も自然がいつまで約束を守ってくれるだろう。

 

2004年5月11日(火) 声のちから
 NHK BSで放送しているドラマ「花へんろ」が佳境に入ってきた。遍路に興味が無くても、昭和史に興味が無くてもドラマとして秀逸な出来で、涙無しには見れない。ドラマは愛媛県北条市が舞台だから僕の実家からはそう遠くない所なのだが、見たことが無いドラマだ。

 今では鬼籍に入ってしまっている一流の役者ばかりの出演だから演技が上手なのは当たり前なのだが、伊予地方の方言が、ほぼ地元といって良い僕が聞いても決して寒いぼが出ない自然な響きだ。最近のドラマは方言指導がマシになったのか、それとも僕が方言を忘れてしまったからか、恥ずかしくて聞いておれないということは無くなったけど、このドラマが随分前の作品であることを考えると、その出来の良さに恐れ入る。

 「外国映画を見るなら劇場で、字幕を読みながら本物の役者のネイティブな声を聴くべきで、決して日本語吹き替えを見るべきではない」という意見は理解できるが、僕の場合洋画といえば日本語吹き替えのビデオを借りてみるのがほとんどだから、映画通のこういった主張には反論の力もない。とは言うものの、今何かと話題のアランドロンはやっぱり野沢那智さんの声で無ければ納得できないし、刑事コロンボを字幕で見たときはがっかりしたものだ。

 だからやっぱり僕は日本語吹き替えが好きだ。字幕を見逃しても分かる自然な流れがいいし、日本語の持つ力みたいなものを外国人役者を通して聴けるのは喜ばしい。ドラマ「花へんろ」も共通語という字幕ばかりでやってしまわれたらどんなに味気ないものなることだろう。

 

2004年5月10日(月) 2羽のその後
 鳩との確執はいまだ終わっていない。漂白剤が臭いということは御近所にも臭っているだろうからと、掃除をし直したら、また奴等がやってくるではないか。よっぽど僕のベランダが気に入ったのか、他にいいところがすでに占拠されてしまっているのか、あるいは誰かの嫌がらせなのか、とにかくすぐにやってくる。しかも2羽の仲が良い。全く独り者にあてつけるにも程がある。

 そもそもエアコン室外機周りにスペースがあるのが問題なのだろうと、空間を埋める作業をした。といってもPETボトルとかを転がしただけだ。もうそろそろエアコンにも活躍してもらわないといけないので、あんまり物を置きたくは無い。だからといって網なんかを張って、奴等が足を絡ませ、宙吊りで逝かれたりしたら夢見も悪かろう。

 駅前を歩いてみると鳩が気になってやたら目に付くのは当面仕方ないだろうが、良く観察していて白い鳩がたった一羽だけいたのに驚く。近頃白い鳩といったら冠婚葬祭場にしかいないと思っていた。黒っぽい連中が増えてしまったから、鳩と戯れている子供たちは白い鳩はマジックショーでしか見たことが無いんじゃなかろうか。真っ黒で烏と間違いそうな奴もいたりする。

 猛禽類に分類されるというカラスの攻撃を避けるために白い鳩がいなくなって、カラスの親近感を得るために黒い鳩が増えたという話は説得力がある。鳩の世界も住み難くなっているというわけか。糞さえしなかったらベランダの2羽を餌付けしてやってもいいんだけどなぁ。

 

2004年5月9日(日) 長過ぎぃ〜!
 「どう考えても納得がいかんなぁ、いくらTELに足を引っ張られたからといって、3時間も予定が狂うなんて余程僕は算数が出来んのかぁ?いやそんなことは無い」と、もう一度旧地図を引っ張り出して検証してみて驚いた。新地図は8kmも距離が短く表記されているじゃないか。しかも内子町を過ぎて暗くなった辺りからは10km以上もある。肱水さんが「9時に到着出来ないのでは」と心配して下さったのも頷ける。

 実は本当に驚いたのはそのことではなく、旧地図には今回の歩き予定を自分で書き込んでいて、その予定では一日目の宿が内子町内になっていたことだった。すっかり忘れて新地図で予定を立て直してしまっていたのだ。結局初日は48kmも歩いたことになり、最後の2時間は5km/h以上で歩いている計算だ。そりゃそうだろう、相当頑張ったんだから。

 納得出来たら急にTELに申し訳ない気がしてきた。車のお接待をいただいて別れたあの場所からなら、内子町までは何とか彼も歩き通せただろう。始めからそうしておけば彼にとっての最長距離である35kmとなり、自信をつけることが出来たはず。散々「足を引っ張って呉れる」と、冗談めかして責めたので気を落としているに違いない。今度会ったら謝っておくか。

 

2004年5月8日(土) 臭いんです
 遍路から帰ってきて窓を開け、空気の入れ替えをしたのだがなんとなく嫌な臭いがするような気がして仕方がない。何処から臭ってくるのかつきとめたくて、散歩中の犬みたいにあちらこちらを嗅ぎまわってみても発生源が特定できない。遍路に出る前に冷蔵庫もゴミ箱も空にしたし、鍵をかけて出たから外から何かが入り込んだということも無かろう。そういえば友達だった隣人が引っ越して行った後に窓を開けていたらゴキブリがワンサカうちに引っ越してきて往生したことがあった。

 「戌年生まれだから鼻が利くんだろう。気にし過ぎじゃないか」と、よくからかわれるが本人にとっては深刻な問題で、地下鉄なんかで強力な香水を振り撒かれると泪は出るわ、くしゃみは出るわで大変な目に遭うこともある。だからなんとしてもこの状況は改善しなくてはならない。

 そうこうしている内にベランダで翼の音が聞こえ、次いでグルッ、グルッという鳩の鳴き声が聞こえてきた。ベランダに出てみると、一つがいの鳩が手すりにとまっているのが見える。「どけどけ、お前らの遊び場じゃない」と、追い払うのだが人間を舐めているのか逃げる気配が無い。物を投げるジェスチャーをしてやっと飛び去ったがすぐに戻ってくる。ひょっとしたらと思いエアコンの室外機の裏を見ると案の定、作りかけの巣が見つかった。

 長い出張から帰ってみると押入れで猫が赤ちゃんを産んでいた知人のような目に遭いたくは無い。このまま巣が完成して雛でも孵ろうものなら居住権を楯に居座られるのは目に見えている。早速排除にかかると、一掴みほどの小枝が積まれた巣の礎の周りには糞があって、臭いの元はこれだった。僕が遍路に出ている間に奴等はここでイチャイチャやっていたに違いない。許せん。

 掃除して水を撒き、ほっと一息ついていたらまた奴等が戻ってきた。「とことん舐められとるな。よっしゃそっちがその気ならこっちにも考えがある」とばかりに洗濯用の粉末漂白剤を撒いてやった。鳩はその臭いを嫌がってか来なくなったみたいだが、部屋にもその臭いが染み付いてしまった。糞〜ぅ!頭が痛い。

 

2004年5月7日(金) 臭いの記憶
 何処へ行くにも時刻表を睨みながら綿密な計画を立てていた、慎重で、ある意味小心なところのあった父とは違って、思いついたらすぐに動きたがる、行動的で、無計画なところのある母は、手のかかる幼い僕の手を引いてしばしばどこかに出かけたが、乗り物に関する僕のトラウマを考察してみると、大抵の場合母が絡んでいるように思う。

 世の中のシステムに無頓着で、理屈を考える前に行動に出る癖が、年老いた今でも変わることの無い母には時々困惑させられることがあって、例えば病院に見舞いなどで行き、エレベーターのボタンを押すとする。母はエレベーターが上にいるときには、早く下に迎えに来いとばかり↓下向きのボタンを押して命令を下す。また自分が上にいるときには↑上向のボタンを押し、早く上がって来いといった風にエレベーターの動きに指示を出す人なのだ。

 「そのボタンは自分が行きたい向きをエレベーターに伝えるためのものだ」と、教えるのだが、「今の今まで一度たりともこのやり方であらぬ場所に連れて行かれたことが無いのだからこれで間違いは無い」と、母は自説を曲げない。 「エレベーターが1機のときならそれでもいいとして、2機のエレベーターを1つのボタンでコントロールしている時は、それぞれが円運動を描くようにプログラミングされていて、近いからといって通り過ぎたエレベーターが戻って来るような事はなく、、、」などと躍起になって説明しても聞く耳を持たない。そのうちにこちらの頭が混乱してきて、「ひょっとしたら母の言うことが正しいのだろうか」と、優柔不断な僕のほうが怪しくなってしまう。

 癇癪持ちで、こらえ性のなかった父は、気に入らないことがあると食事をしながらでも、星 飛馬のとうちゃんみたいに飯台をひっくり返しては母に当った。あの父の姿を金と権力と暴力の象徴のように憎んでいた僕だが、父が亡くなってから母の頑固さを見るにつけ、どうも実情は違っていたのではないかと考えるようになった。父は恐らく母の頑なさに抗う術を持っておらず、事ある毎に自分の食事を削ってまで、身をもって抗議していたのではなかったろうか。言ってみれば強大な軍事力を拠りどころにする独善的な正義を、民主主義の名の下に他国にごり押しするようなやり口は母の方であり、それに対して自爆テロで太刀打ちしていたのはむしろ父の側だったのではないだろうか、という風に。

 エイトマンのビニール人形を片手に、陽炎に焼かれるようなバス停で母に連れられ佇んでいたのは、僕が小学校に上がったかどうかのある日曜日のことで、新居浜市の病院に入院している親戚の子を見舞いに行くためだった。すでに暑さに参っていた僕は、恐ろしく乗り心地の悪いバスに揺られて酔ってしまい、途中の停留所で降りるや否や吐いてしまう。病院の手前で降りたものだからまた暑い中を母に手を引かれて歩いたと記憶している。
 
 僕と同い年か年下の親戚の少女「りえちゃん」は病院のベッドに臥せっていた。人見知りをする僕はちらりと彼女を見ただけで病院の廊下を走り、水洗トイレの水を流して遊んだりして看護婦さんに叱られ連れ戻された。僕が迷惑をかけてしまうので早々に病院を後にしてバス停に行くと丁度バスが到着したところで、今度は走らされ、ぎりぎりのところで間に合った。帰りのバスのことは寝込んでしまったのか何も覚えていない。

 家に帰り着いたのは夕方だったように思うが、そのまま遊びに出た僕は海の防波堤から落ちて頭に怪我をしてしまう。全く散々な目に遭わされた一日だったが、このときに乗り物にトラウマが出来たわけではなく、数年後にりえちゃんの訃報に接し、人生の半分以上を病院のベッドの上で小児喘息と戦って逝った理不尽を思うと、「あの時にもう少しおとなしくしておけばよかった」と、後悔してから変になった。今は滅多に無いが、バスに乗ろうとするとあの病院の水洗トイレの塩素臭がしてくるような気がすることがある。

  

2004年5月6日(木) 旅慣れない僕
 大阪へ帰るバスの座席が少なくなっていたのに予約をしなかったTELが、フェリーに乗らざるを得なかったのは自業自得として、その姿を目に焼き付けておきながらバスの予約を失念した僕は、うっかり国民年金を納付し忘れた政治家よろしく辞任の責めを負ってしかるべきであろう。と、言葉を飾ってみたところで気分は晴れない。情けないったらありゃしない。

 泣く泣く昼間のフェリー便を予約した。夜の便に乗るためには今治からは東予港までの無料バスが運行されているのに昼間にはそんなサービスが無い。「壬生川港で瀬戸内バスを降りて周桑バスに乗り換えてください」と乗車券売り場のおばちゃんが教えてくれた通りにしたが、壬生川港で降りても誰もそんなバス会社の名前を誰も知らないのだ。お店のおばあちゃん曰く「50年ここで店やっとるけどそんなバスは聞いたことが無い」とおっしゃる。ぐずぐずしているうちにフェリーの出港まで40分を切ってしまった。途方に呉れてタクシー会社に駆け込み、営業に出払っている車を呼び戻してもらった。

 「ああ、周桑バスね、あれは瀬戸内バスの年寄り組が運転しとるんよ」とタクシーの運転手さんはおっしゃる。バスのデザインも同じらしく、バス停も100mと離れていなかった。全く紛らわしいことこの上ない。バスの運転主さんもなんだか頼りない返事をしたが、僕の聞き方にも問題があったのだろう。バス代とタクシー代で2000円も使うという歩き遍路らしからぬエラーを仕出かした。

 フェリー代にJAFの割引が使えたのがせめてもの慰めだが、がらがらの船室を眺めると情けなくなってくるので一番風呂を頂いて溜飲を下げた。いくつになっても旅上手になれないのは子供の頃のトラウマがあるに違いないと思う。

 

2004年5月5日(水) 誓った志は
 せっかくレンタルした自転車なのだから、と午後から雨に降られる前に大島から来島海峡大橋を渡り始めてみると、歩く人やレンタル自転車の人出のなんと多いことだろう。数珠繋ぎと言うほどではないにしろ、歩行者を避けながら自転車を漕ぐという本来の性能を存分に発揮できないもどかしさにいらいらさせられるが、昨年の遍路途中にこの道を歩いたときは足に疲れがたまっていて、しかも滅多に人に会わない4km余りの橋が非常に長く感じられたものだった。
 
 55番札所南光坊(なんこうぼう)、父の最後となった病院。思い出多い地を片手で拝みながら自転車を飛ばし素通りする。実家のご近所さんが車にはねられて亡くなった事故現場前も適当に手を上げといて、ひたすら今治大丸百貨店を目指して自転車を駆るのは、赤ワインとチーズを仕入れるためなのだ。

 ゴールデンウィークだというのに大丸百貨店内は意外といえるほど閑散としていて、子供連れの姿を見つけるのが難しいくらいだ。近くに出来たSATYやバイパスに開店されつつある郊外型の店舗のせいか、それとも橋が開通し高速道が延びた事で、今治市は単なる通過地点に成り下がってしまったからだろうか。とりあえず赤ワインを2本買い、チーズ売り場を覗くと半額セールをやっている。賞味期限が近づいているので投売りをしているのだが、「カマンベールなんかはこれくらい日が経っている物が美味しいのにどうしてだろう」と、訝りながらも日頃買えないような値札の横に「半額」と貼られている品をいくつか買いこんで店を出る。

 ポツリポツリと来ていただけだった雨も、橋を渡りきって大島に降り立った頃にはバラバラという感じの本格的な五月雨変わった。背中のザックに入れているのはワインとチーズ。遍路装備と同じくらいの重りがあるほうが何か安心感があるが、太ももは結構疲れてきた。慣れない筋肉を使って、歩くのより疲れたような気がする。
 
 ワインというのは当り外れが多いから、出来るだけ新しいのを買うようにしている。コルクにカビが生えていたり、すっかり変質してしまっている物に出くわしたりするからだ。酒屋の保存方法を信用していないのだ。当たり年なんていうのは気にしていない。この日のワインは値段から考えると落胆するほかないのだが、少しアンモニア臭が出始めているカマンベールをつまむとこれがなかなか旨く、可もなく不可もないワインの味を一変させる。ふと気がつくと2本目のワインと2つ目のチーズが空になっていて、僕はソファーの上で目を覚まし、「遍路での禁酒は結局不可能なのだ」と、朝焼けに包まれながら賢くも悟るのだった。

 

2004年5月4日(火) 無事に終える
 記憶の揮発性が高い人間なので、今となっては4日に何をしていたのか思い出せないでいる。本当は菩提寺のお坊さんから「7、8、9日に島四国のとあるお堂で堂守をしてくれないか」と依頼されて、「これは実に面白そうな話だ。3日間お遍路さんを見る、あるいはお接待する側に立つのも悪くないな」と思ったのだが、よんどころ無い事情があって実現しなかった。来年チャンスがあればやってみたい気がするが、人様の不幸の上に訪れた機会なので願うわけにもいくまい。

 昨年の遍路では初日から痛い目に遭い、最後までそれが尾を引き歩き終えてもなお2ヶ月ほどは足に痛みがあった。二度とあの轍を踏む訳にはいかない。体重にして10kgの減量と装備にして5kgの減量で都合15kgの重量減(当社比)で遍路に臨んだのだから楽だった。靴にもそれなりの金額をはたき、1週間とはいえトレーニングまでやったのだから、当初の予定より10km短くなったにしても概ね成功だったと思う。TELには気の毒だったが慢心を戒める結果は身から出た錆だから仕方ない。そんな傷心も様々な方から頂いたお接待に気をよくして帰れたのだから彼にとっても今回の歩きは大成功だろう。次回の遍路道は決まったのだけど、彼に話すかどうか今はまだ迷っている。

 

2004年5月3日(月) 最後までお接待漬け
5月2日から3日の日記
「風呂に入るのに1時間も並ぶわけにはいかんなあ」と、道後温泉本館前の券売機に出来た浴衣姿の行列を恨めしそうに見ながら写真だけ撮った。ホテルのフロントで「今日は多いですよ」と聞いてはいたがこれほどとは思わなかった。やむなく本館を諦めて「椿の湯」で我慢することにして、ホテル近くまで帰ってから「この辺で妥協しましょうか」と、TELと二人して一軒の居酒屋の暖簾をくぐった。

 卓球の有名選手と同じ名前のママさんはとても初対面と思えないくらい人なつっこく屈託の無い方で、無邪気な人柄に松山弁が愛らしさを副えている。常連客が次々に我々に話しかけて、しかも皆さん嫌味が無いのはこのママさんの人柄と大いに関係があるんだろう。

 店内を見ると金銀錦の納め札が丁寧に額に入れられて飾られているからママさんは遍路に興味があるみたいだ。我々が歩き遍路だと分かると他のお客さんを放っといて話が弾む。会話の流れの中で明日のお昼前に石手寺に連れて行ってもらう約束をTELにしてくださった。

 翌朝、お接待大好きのTELがチェックアウトぎりぎりになって部屋を出てロビーに待機しているのだが、「本当に来てくれるんかなぁ、すっかり忘れられているんじゃないやろか」と心配するのも分かるが「ママさん酒を飲まない人やから大丈夫でしょう。来られるまで一緒に待ってますよ」と、興味本位で僕は成り行きを見守っている。

 やがて約束の時間の少し前にママさんは現れた。どうやらホテルの支配人とも友達らしくフランクな会話があって「じゃあ行きましょうか」と僕まで誘ってくださる。当初の予定だった明石寺、大宝寺、岩屋寺の三箇寺に写経を納めた僕はもう何もすることが無い。後は実家に帰るだけなので快くお接待に預かった。

 三人のために、残っていたローソクや線香を全て使い切り、砥部焼を求めて売店に行くと、「熱い砥部焼下さい、とお客さんが来るんで、砥部焼は大抵厚いですと答えるんです」といったおどけた会話を楽しみながら土産物屋さんを回る。この辺りは大体ママさんのテリトリーなんだろう。楽しいショッピングが出来た。愛ちゃん有難うございました。今度松山へ行ったときは顔を出します。特に月曜日が良いんでしたよね。南無大師遍照金剛。

 

2004年5月2日(日) 心に沁みる御詠歌
 笛ヶ滝さんの食堂で無料のコーヒーを飲めなかった方がおられたらごめんなさい。コーヒーメーカーのポットの使い方を誤り、自分の足と床に半分以上のホットコーヒーをぶちまけたのは僕です。昨夜の食事のときに宿を求めてこられた青年遍路よ恨むなかれ。

 6時40分に宿にザックを置かせてもらい、大宝寺を素通りして遍路道へ分け入った時点ではTELにも「帰りはバスに乗れる」という希望があった。本当は往路もバスに乗りたかった彼だが、岩屋寺に到着するのが歩いても同じくらいの時間になりそうな発車時間だったから不本意ながら険しい道を歩いている彼なのだ。当然ながらモチベーションが高まらない。

 岩屋寺のあの長く険しい階段をTELに登らせてあげたかった僕だったが、気がついたら岩屋寺の裏手から本堂に到着してしまった。八丁坂の分岐点で間違えたみたいだ。近道といえばそうなのだが帰りに歩きたいルートだった。

 岩屋寺を打ち終えたら11時を過ぎてしまい、帰りのバスの便が次は3時過ぎ。これなら9時15分のバスで岩屋寺まで来れば帰りもバスを利用できた可能性が高い。TELにとっては実に無念な選択をしたことになる。それでも望みはまだ捨てていない。「伊予鉄バスはフリーバスだから手を挙げると停まってくれます」と言うバス停前のおばちゃんの言葉を胸に、次の停留所まで歩いたがやっぱり便が無い。お腹も空いてきて半べそをかきたながら歩いているだろうTELが休みたそうにしている。木陰を見つけ、昨日食べたお菓子をまた取り出してかじっては元気を取り戻す。

 久万高原旅行村でようやくお昼にありつけ、また歩き出したところで伊予鉄バスに追い越された。「おーい停まってくれー!」と手を挙げて叫んだTELだったが追い越されてしまっては後の祭りだ。結局歩き通すことになり、民宿笛ヶ滝さんのすぐ横のJRバス待合所に着いたら2時だった。
 
 2時24分発の松山市内行きのバスに乗り込んだTELを見送って一人で歩き始める。三坂峠手前のバス停で、浄瑠璃寺付近のバス事情を教えていただいていると一人の青年遍路に追い越されたが、暫く行くと彼がタバコを吸いながら休憩している。聞くと昨夜笛ヶ滝さんに遅く到着した青年で、7時に宿を出たとらしい。重ねて言うがコーヒーの恨みは忘れてくれ。
 
 青年遍路と一緒に歩くことになったが、ちんたら歩いて彼の足を引っ張ると気の毒だし、遅くなるとバスが無いことが分かっているので浄瑠璃寺まで1回の休憩で歩き続ける。山中は下り坂だということもあり、かなりのハイペースで通過でき、浄瑠璃寺に着いたら6時過ぎだった。T.S君ありがとう。おかげで楽しく歩け、バスにも間に合いました。南無大師遍照金剛。

 八坂寺へ向う青年遍路T.S君とはここで分かれ、バスの時間を確認して本堂で手短に読経を済ませる。日が落ちて薄暗くなった境内にはもう誰もおらず、よく通る濁りの無い声で歌われる御詠歌だけが境内に響き渡っている。本堂のすぐ横は大師堂だろうか、若い僧が左手に高く持鈴を掲げ、右手で鐘を打ちながら吟じている姿にそっと手を合わせた。厳しかった今回の遍路を終えた達成感からか、それともこの僧の歌声が僕を圧倒するのか、熱いものが一筋頬を伝う。浄瑠璃寺へは、この僧の御詠歌をゆっくり聴くためにもう一度訪れたいと思っている。

  

2004年5月1日(土) お菓子に救われる
4月30日の日記
豆腐屋「来楽苦」さんの出来立て豆腐で朝御飯を、さわやか系の青年と三人で頂く。彼も我々と同じコースを歩くのだけど我々と違って無理の無い、1日30km以下を歩く計画はベテラン遍路のそれを思わせる。

 「今日はもう大丈夫や、俺が回復したらそんなもん偉い事になるでぇ」と息巻いて歩き始めたTELも、ひわた峠に差し掛かった頃にはすっかりトーンダウンしてしまっている。「ここらでお昼にしたいですねえ」と僕が提案したけど、食堂など何処にも無い。篤志家に御接待された自家製お菓子があったので、ここぞとばかり食べてみたら、なんと美味しいこと。「あの奥さん料理研究家かなんかだろう、それともパティシエかぁ?」そんな会話をしながら手作りお菓子で飢えをしのぎながら久万町にたどり着いた。

 正直に告白すると、TELの足だけではなく僕の足も昨日の無理がたたって少しも前に進まない。上りはいいとして、下りが右ひざに負担がかかり苦しい。ここはひとつ距離が稼げないのはTELに責任を擦り付けることにしよう。

 上りでTELを引き離し、下りで追いつかれる、といったことを繰り返しながら大宝寺を打ち、民宿笛ヶ滝さんに着いたのは5時前。途中で造り酒屋の「雪娘」に詣でたら残念なことに、この春で酒造りを終えたらしい。

 仕方ないから酒屋でワンカップの雪娘と、お隣さんの造り酒屋「お茂ご」を買い求め、「今回の遍路は禁酒のはずじゃなかったか」と二人して顔を見合わせたが、「雪娘はこれが最後だし、おもごはついでやから、まあOKか」と意地汚い理由付けをして、あまつさえその酒を笛ヶ滝さんの夕食時に飲むという反則をやらかしながら、人の良いご主人の興味深い遍路話を聞かせていただき、あっという間に眠りについた。

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