HAL日記


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2004年6月30日(水) 連想ゲーム
 夕方買ってきたビールを飲もうと冷蔵庫を開けたらシンナーのような異臭がする。タイ国だったかインドネシアだったか忘れたけど、田んぼや池なんかに住んでいる昆虫の「タガメ」から採れる香辛料というのがあるのだそうで、ほんの僅かしか採れないからとても高価なのだそうだ。食したことのある人によると、正にシンナーの臭いがしたという。シンナーの臭いが良いものか悪いものかは嗜好に拠るだろうが、僕も一度でいいから嗅いでみたい。

 そんな妄想に耽っている場合ではどうやらないようだ。ビールを無造作に放り込んだものだから接着剤のチューブを潰して中の溶剤が漏れているのが原因だとすぐに分かった。これ自身は触媒みたいなもんだからどうということも無いのだが、僕の冷蔵庫の中には他人が見たら首を傾げる物が沢山入っている。

 10年前に製造されたオーストラリア産のジャム、一口かじって喉をやられ、そのまま風邪をひいて以来蓋を5年間開けたことの無いパンドラの箱のようなペペロニ(唐辛子の酢漬け)。と、食品ならまだしも、接着剤、写真のフィルム、大きな声では言えない薬品、様々な医薬品等等、冷蔵庫が壊れたら有毒ガスでも発生するんじゃないかと思うくらいだ。

 あんまり危険なのでちょっと整理してみたが、何に使ったのか分からない飲み薬が出てきた。漢方薬の「女神散」(にょしんさん)月経不順とかに効くらしいが、これは絶対に僕には必要の無い薬のはず。「当帰四逆加呉茱萸生姜湯」(とうきしぎゃくかごしゅゆしょうきょうとう)読むのが困難な散薬。冷え性に効くらしいが飲んだ記憶は無い。「ベンラック」腸の働きを助け、便の臭いが消えるらしい。「リンデロンA」眼、耳鼻科用。「リンデロンV」目薬の容器に入っているのに目に使うなと書いてある。

 使い道の分からない薬ほど怖いものは無いが、こんなのが接着剤なんかと一緒に置いてあるからなお始末が悪い。それにしても薬の名前というのはどうして似通ったものが多いいのだろう。ヒットした薬にあやかりたい気持ちは分かるが節操がない気がする。

 「ガスコン」腸管ガス排除剤。なんか分かりやすいが、「ネムール」、「ネルボン」どちらも睡眠薬。「ヨーデル」下剤。と、本当にいい加減なネーミングが横行している。おっとぅ、そうだ、「タガメ」から「タガメット」(ガスター10みたいな薬)の連想して、こんな「コタツ猫」みたいに冷蔵庫を開けっ放しで集中してしまったのか。本当に薬は恐ろしい。

 

2004年6月29日(火) 月明かり
 タンブルウィードが回転しながら砂埃と共に風に飛ばされゆく荒涼とした砂漠の小さな町に、二人のならず者が到着した。馬を降りると人相の悪い二人組みは腰に38口径のリボルバーを携え、ゆっくりとバーの扉に向かって拍車を鳴らしながら歩いてゆく。

 扉を蹴破るように音高く開けると、暗い店内からは外光の明るい日差しが二人のならず者をシルエットで浮かび上がらせる。ポーカーをやっている連中も異様な雰囲気を察知して手を止めて成り行きを見守る。

 二人はカウンターに肱を突き、「何にしましょう?」と、緊張気味に注文を聞くバーテンダーに、「決まってるだろぅ、ウヰスキー、ダブルでだ」とドスの効いた声で答える。出されたストレートウヰスキーをグイと呷った一人が、そのまま激しく吐き出し、タンブラーを床に叩きつけて怒鳴りつける。「もっとマシな酒は無ぇのかー!この店で一番上等のを出しやがれ!」。

 西部劇に出てくるシーンの、あのならず者が吐き出して怒るウヰスキーと言うのは多分、地元の農家のオヤジさんが密造しているコーン100%の物だろうと思っている。上等の物というのはきっとスコッチのことで、イギリスからの輸入だから言うまでも無く高級品だ。

 そのコーン100%のウヰスキーを買って飲んでみたが、一本千円程度の安物の割には美味しいと思った。この位の味なら吐き出すことも無かろうにと思うが、実はもう一つジャムのビンみたいなガラス容器に入って売られていた、色のついてないコーンウヰスキーも買ったが、それはとんでもなく不味い物だったから、ならず者が飲んだのはこちらの方に違いない。

 マニアというのはどんな世界にもいるもので、ならず者が吐き出すほど不味い、熟成されていない密造コーンウヰスキーを蒐集する人がいるのだそうだ。こうしたアメリカの片田舎で、今でも密造している偏屈親父の酒は「ムーンライト」と呼ばれ珍重されていて、日本で手に入れることは不可能に近い。ジャム瓶の方のラベルを見ると「moon」という文字がありはするが、きっとそういった人気を当て込んでそれっぽく作られたものと思われる。

 それにしても美味しい方の表ラベルには100%コーンウィスキーとあるのに、日本で張られた裏ラベルには原材料モルト・グレーンとあり、しかもバーボンウィスキーであると主張している。こんな妙なのが流通していて構わんのかねぇ、ま、サントリー角瓶より安いからどうでもいいけど。

 

2004年6月28日(月) 脇目も振らず
 このところ基礎代謝が上がったのか、少し食べ過ぎたくらいでは太る気配が無いとばかりに、安心して暴飲暴食、飽食三昧、只酒冥利を続けたものだから、ふと気がつくと腹が出ている。

 調子に乗って無理なトレーニングを敢行し、足を傷めてからは、治るまでスポーツクラブを休んでいたのだが、久しぶりにマシンジムに行くと、トレーニングメニューが変わっていた。せっかく慣れて、目標が定まったというのに肩すかしを食らったようでやり切れん。内容が良く分からないのでインストラクターに付いて頂いて、一通り体験したら結構面白く、若いインストラクターなんかより成績の良いテーマが有ったりして気分が回復した。同じのばかりやっても飽きてしまうから変化をつけたのかと思っていたけど、今までとは全然違う部分の筋肉に負担をかけているようだ。

 トレーニングメニューは変わったけど、ジムで出会うメンバーは大体同じだということが分かってきた。毎日同じ顔ぶれと接してはいてもエクササイズの間に言葉を交わすこともないし、平均年齢も相当高いのでなかなか友達は出来そうも無い。ワールプールなんかに入ると会話も成立しそうだが、おばちゃんたちの餌食になりかねないので、まあ暫らくは今のままでいいか。

 

2004年6月27日(日) ヤマハよ栄光あれ
 世界ロードレースグランプリというのは、バイクのF1レースみたいなもので、2スト125c.c、2スト250c.c、2スト500c.cもしくは4スト990c.cの3クラスに分かれて戦うのだが、いずれのクラスでもHONDAが強い。最上位のMOTO-GPクラスではここ10年年間で僕が知っているHONDA以外のチャンピオンでは、SUZUKIを駆ったケニーロバーツが印象的だったが、YAMAHAがチャンピオンを輩出したのは記憶に無い。もう随分前のことのように思う。

 しかし今年はかなり様子が違っていて、HONDAで3年連続チャンピオンに輝いた、バレンティーノ・ロッシを獲得したYAMAHAがここまで4勝。HONDAが2勝。どうやらパワーではHONDAに分がありそうだが、圧倒的なテクニックを持つライダーが係わるとティームに活力が出て、マシンもインスパイアされるものらしい。子供の頃からYAMAHAに縁があった僕としては嬉しい限りだ。

 ピアノ、最初のフルート、ステレオのアンプもYAMAHAと、散々同社製品を使って来ながら、一度も満足したことが無い僕だが、遂にチャイコフスキーコンクールのピアノ部門優勝ピアノもYAMAHAが獲得したし、バイクでも世界チャンピオンを獲得しようとしている。一時期大規模なリストラをして心配された同社だが、ここに来てとうとう頂点を極めるか。ファンの一人としては喜ばしいが、ピアノもバイクも後10年後には中国製が台頭しているだろうと思うと心配だ。でもその頃には僕のピアノは、スタインウェイ。バイクは、ハーレーダビッドソンになっているだろう。もちろん夢だけどね。

 

2004年6月26日(土) 子は「かすがい」ってか
 「ごめんなさい、ごめんなさいぃー!」。
「ごめんなさいで済まんのじゃー。このボケがー!」。
バキッ、ドン
「ギャー、(。>0<。) ギャー」。

 時折聞こえてくる、阿鼻叫喚の地獄絵図が展開されている様な騒ぎの当事者が遂に特定出来た。ドスの効いた、暴走族の小競り合いみたいな声の主は、意外にもお母さんの声で、泣いているのは3歳位の女の子なのだった。たまに見かける、この子連れの若夫婦はとても仲睦まじく、物静かなご主人と明るい感じの奥さん、聞き分けの良さそうな幼子と三人で散歩している姿からはとても想像出来ない。

 ドメスティックバイオレンスなど今に始まったことではないと思う。子供の頃近所に住んでいた家族は、お父さんが躾を理由に長男に執拗な体罰を加えていたのを思い出す。子供が中学に上がる前に引っ越していったからその後、どんな風に成長したか分からないのだが、噂によると夫婦が別れてから、まもなく父親が亡くなったと聞く。子供は何か福祉関係の仕事に就いたと聞くから優しい子に育ったのだろう。

 傍若無人で我侭放題だった父が亡くなった今でも、自分が家庭を持つと父と同じ轍を踏みそうな気が仕方ない。父を反面教師として、それを乗り越えられるなら幸いだが、その自信が今の僕には無い。

 

2004年6月25日(金) 痛みの思い出
 雨が降ると15年前に手術して3ヶ月入院した右膝の古傷が痛む。雨が降ると湿度が上がって気温が下がるから膝関節が硬くなって辛い。そんな理由を言って飲み屋から知人の車でうちまで送ってもらったが、知人に言わせると、「お前は阿保か、気温が下がって痛いなら冬場はずーっと痛いし、湿度が上がって関節が硬くなるならプールで泳ぐ度に痛い筈やろ」と笑われた。

 なるほど言われて見ればその通りのような気がする。では一体どうして雨降りの時は古傷が痛むのかと聞いたところ、「低気圧が近づくと雨が降る前の日から気圧が下がって、体の中の体液に外向きの圧力がかかるから悪い部分が痛むのだ」と言う。成る程!そういう仕組みだったのかと、痛いのも忘れて膝を打つ。しかし彼は更に僕に追い討ちをかけるように続ける。「お前の傷は15年も前のもんやろぅ。今更痛む言ぅても通らんぞ。どうせスポーツクラブで調子こいて無理したんやろ」。

 図星だった。見透かされていたなら仕方ない。正直に告白すると、ベンチ・レッグプレスのウェイトを100kgに上げて30回やり、その後バイクを30分して、ランニングの途中で膝を痛めたのだ。格好が悪いので季節のせいにしたが、ばれたか。しかし気圧が少し下がったからと言ってそれ程かなぁ?と往生際も悪いこと。「気圧というのはとても大きな力で、潮位さえも上げる程なのだ」と聞かされてようやく納得。

 膝に障害を抱えて成長した父は晩年、かかりつけの整形外科の先生から、「あんたの右膝はぐちゃぐちゃになっとる」と言われ、松葉杖に頼るようになった。やがて最後の1年間は寝たっきりになり、遺骨を拾うとき悪い方の骨は焼け切って跡形も無く、赤黒い灰だけが残っていたのを思い出す。終生膝をかばい続けなければならなかった父から、季節の変わり目などに膝が痛むと言うような愚痴を聞いた記憶が無いが、痛いのが当たり前だったから言わなかったものと思う。父と歩いて外出した記憶は一つしかないが、僕の右膝の痛みはあの時の、びっこをひいて歩いていた父の後姿を思い出させる。

 

2004年6月24日(木) 英語への恐怖と憧れ
 トム・クルーズやトム・ハンクス、と言われても、どちらがどちらか、名前を聞いただけでは顔のイメージが沸いて来ない。国連のアナン事務総長は、以前モーガン・フりーマンという名前で映画に出ていたと、つい先日まで思い込んでいた。ターミナル・ベロシティーというのは駅前商店街の話だと思っていた。ダイ・ハードというタイトルを「死んで硬くなれ」と訳して平気な顔をしていた。

 僕の映画オンチ振りと来たら、映画通の怒りを通り越して、口もきいてくれなくなるほど救い様が無いものだが、英語オンチも相当なもので、日記にやたらとカタカナ言葉を使いたがるのは、英語に対してコンプレックスを持っているからだと、近頃になって気が付いた。

 映画を、特にハリウッド映画を、吹き替えや字幕なしで楽しんでみたいものだと常日頃から希求しているので、駅前留学を謳い文句にしているNOVAに通う積もりにしているのだけど、あんまり酷い英語オンチなので少し予習をして行かなければと思い、基礎英語程度の学習をしてみたら、なんだか辞書で調べても良く分からない言葉が出てくる。仕方ないから最新の英和辞典を買った。

そんな中、フランスのバカロレア(大学入試)の英語のテストが難しすぎるのではないかというニュースを聞いて、当の入試問題を買ったばかりの辞書で調べてみたが、最新の辞書にも載っていなかった。

 先ごろ何かの国際会議で、英語を使ったフランス人議長だったかに抗議してフランス代表達が席を立ったのがニュースになっていたが、母国語の英語化に過敏に反応するのは、プライドの高い彼らには当然のことなのかも知れない。いやそれとも我々日本人が思っている以上にフランスでは深刻な事態になっているのだろうか。英語に対する憧れではなく、自国の言葉が外国語化していく恐怖感を、日本人なら当分の間持たないでも済むことだろう。

 

2004年6月23日(水) 大安寺さんで笹酒祭り
 時折ポツリと、腕に冷たい気配を感じはするけど奈良市内に雨が降るような兆しでは無い。一台目のバスを見送って、2台目の大安寺門前行きの小型臨時便に乗った。JR奈良駅を過ぎて少しすると細い道に入っていく。仕事で何度も通ったことのある道だが、こんなところにお寺があったなんて今日まで知らなかった。

 山門には本日の主要行事である「竹供養の儀」のために虚無僧衆が待機しておられ、それを取り囲むようにアマチュアカメラマンの集団が待ち構えていて、始まりを待ちきれないかのようにシャッターを切っている。高級カメラばかりがずらりと並ぶ中に、貧相なカメラを首に掛けた僕も混ぜて貰ってシャッターを押す。やがて澄んだ尺八の音が響き始め、竹供養の儀は始まった。


竹供養の儀
ミス竹娘かな?を従えて、厳かに竹供養の儀は始まる。

閑散としているように見えるが、進行方向には群集が幾重にもバリケードを築いている。

 尺八の演奏を聴きたくて時間を調整して来た僕も大満足だったが、一同は本堂で加持祈祷の後に植樹祭をするのだそうで、それまで動きが無い。境内を散策してからまだ到着しないTELと奈美さんを待とうと思ったのだが、笹娘の誘惑(笹酒に誘惑されたのであって、決して娘さんに誘惑されたわけでは無いが)は耐え難く、敢え無くフライングスタートをやらかしてしまうのだった。

 
笹娘は皆可愛い
最初に頂いた酒は樽の香りがしてとても美味しいものだったが、その後は別の味がした。
 
それもその筈、宝山寺と同じでこのお酒もブレンド酒なのだ。後ろに見える樽はどうやら冷やしておくためのものらしい。いやいや実に美味しいお酒でした。

笹娘はボランティアなんだそうだ。

 やがて、人生が残り少ないと危機感を感じてこのところやりたい放題のTELと、奈美さんが現れ、三人で本来神聖であるべき「笹酒祭り」の冒涜を始める。

 
  荒城の月を演奏する宗玄先生



虚無僧に扮するHAL
編み笠と尺八を宗玄先生に貸していただいて、虚無僧に扮してみたが、尺八はチョット音が出ただけ。フルートと大して変わらんと思い込んでいた僕は少なからずショックを受けた。

宗玄先生有難うございました。初めての経験でしたからとても新鮮で感動しました。高価な尺八を惜しげもなく手渡していただいた事にも、リクエストに答えて演奏して下さっ「荒城の月」にも感涙に堪えませんでした。

お近くに行くことがありましたら声を掛けさせていただきます。

宗玄先生曰く、「編み笠を被ると緊張するということは無くなります。含羞を捨てられて、度胸が付きます」。

 笹娘のお酌で奈良県名産の柿の葉寿司を頂きながら、不謹慎な僕たち酔い痴れて、遂にはお坊さんにまで魔の手を伸ばすのだが、結構楽しい方で一緒に写真とらせていただいた。本当に罰当たり者で済みませんでした。この場で非礼をお詫びを申し上げます。って遅すぎる!

奈美さん、お坊さん、TELさん 大安寺さんのホームページに登場するお坊さんは、なかなかハンサム。気さくで愉快な方でした。写真を撮らせていただいて有難うございました。来年もよろしくお願いします。

 すっかり笹酒祭りを堪能した後は、古都奈良の古の風情を伝えると云う、その名も「奈良町」と散策することにしたのだが、TELの記憶が今ひとつはっきりしないらしく、道行く清楚な御婦人に尋ねたところ、「ボランティアガイドしてますので近くまでご案内しましょう」と、酒臭い連中の手を引いてくださいました。おかげさまで落ち着いた佇まいの町並みを楽しみながら、ある焼き鳥屋さんにたどり着きました。平田さん有難うございました。ボランティアガイドと言うものの存在は知っておりましたが、あんなに親切にしていただけるとは思いも拠りませんでした。勝手ながら「なら・観光ボランティアガイドの会」さんへリンクさせていただきました。

 とまあ、古都奈良に来てもやっぱり皆様のお接待を沢山頂きました。大安寺さんは年に一度バスにてお四国を廻られるのだとか。3年で結願というスケジュールなのだそうです。勝手ながら大安寺さんにもリンクさせていただきました。これもお大師様の御縁。遍路の御縁かと思います。合掌

 

2004年6月22日(火) したたか酔った
 元やくざのKさんと飲んでいると彼の携帯が鳴った。中学生で、現在入院中の娘さんからのようだ。娘さんの誕生日が近づいたらしく、プレゼントを何しようかで二人とも迷っている会話みたいに聞こえる。

 電話が終わるとKさんの顔はさっきまでの楽しげな表情を失って、「医者からは、現代の医学では救えません。諦めて下さいって、言われとるんよ」と明かした。

 僕が知っているような事だから、勿論娘さん自身が、大人になるまで生きることができないということは知っているに違いないが、それでも無理をして人気歌手のコンサートに出かけて倒れたのだそうだ。

 「心肺同時移植」。もとより困難な上に、他にも複雑な事情が重なっているという。何か出来ることが有ればと申し出たのだが、手の施しようが無いらしい。

 金銭やボランティアで解決出来る見込みがあるならまだしも、死に至る時間を味わうしかない人生というものがどんなものか僕には分からない。

 例え老いてなお諦観の域に達しなくても、死に対して抗うことが出来る者は幸いだ。約束された時間というものが明らかでないのだから。


2004年6月21日(月) 日本人ヽ(^o^)丿
 今日のスポーツは殊のほか楽しめた。なんといってもF1で14年ぶりに3位表彰台に上がった佐藤琢磨の快挙には感動した。F1のチームの多くが英国に集中していて、BARホンダもそうなのだけど実質は日本車みたいなもんだから、日本人ドライバーと日本車が初めて表彰台に立ったようなもの。これには諸手を上げて喜んだ。

 ゴルフでは全米オープンで丸山茂樹が、2日間首位を走りながらも最後は4位でフィニッシュ。本人は優勝するつもりだったろうから残念だろうが、メジャートーナメントで4位なら実に立派な成績と言える。

 大リーグではドジャースの野茂とヤンキースの松井が戦ったし、世界のプロスポーツ界でこれほど日本人選手が活躍する日も未だかつて無かったのでは無いだろうか。特に米英欧州の壁が大きく立ちはだかる、モータースポーツとゴルフだから喜びもひとしおだ。出生率の低下で日本の先行きに不安を抱える昨今だからこそ選手達のの質の向上が頼もしい。出生率も上がるねきっと。

 

2004年6月20日(日) 識って騙される
 車を買った営業マンから電話がかかってきて、「前の車の自賠責保険が戻ってくるので振込先を教えてください」とのことだった。知り合いの保険屋さんと飲み屋で車両保険の打ち合わせが終わったから、これで新車に関する諸手続きは全て終了したことになる。

 事故ってから二月余り、ひょっとしたら衝動買いだったかも知れない車の契約書を眺めていると、前の車を買ったときの浮ついた気分を思い出すが、今度はあの時ほどの感動みたいなものは無い。大人になったと言えば聞こえが良いが、つまりは加齢によって感動する力が失せたという事かも知れない。その代り腹立たしいことを一つ思い出してしまった。時効になってしまったから今更思い出したところで腹が立つ分損をするだけなのだが、思い出してしまったものは仕方が無い。

 営業マンをしていた10年ほど前のある日のこと。午前中から大きな契約が取れて一日中気分が良く、会社に帰る前の夕方、車を停めて休憩していると誰かがガラス窓をコンコンと叩く。40歳くらいのきちんとスーツを着てネクタイをした紳士だ。道を尋ねるのかと窓を開けたら、「財布を落としてしまって、名古屋に帰ることが出来ません。帰りの電車代を貸してくれませんか?4950円要るんです」と哀願する。

 正確な金額は覚えていないが、名古屋までの電車賃に相当する額だったと思う。勿論寸借詐欺を疑ったが、その日は大変気分が良かったので、住所と名前を書いてもらった。「名古屋市天白区・・・。田中広志」そう名乗って、「帰ったら直ぐに送金させてもらいますから名刺を下さい」と言うので4500円渡すと、「後450円足りません」と言う。恵まれない人にチャリティーをするような気分で4500円出したのだけど、「本当に財布を落としたのかな」と思ってしまい、更に450円手渡すと、「有難うございます。必ず直ぐにお返しします」と丁寧に礼を言ってから悠然と歩いて消えていった。

 会社に帰って同僚に話すと。「あほやなぁ、お前は!田中広志みたいなン何処にでもあるような名前やないか。金ぇ返ってくるわけないやろぅ」と断言され、果たしてその通り金は返ってこなかった。同僚に言わせると、僕は相当お目出度い田舎者ということになるらしい。彼の言葉に異を唱える力もないが、あれから先、「田中広志」という名前を耳にしたことがないので案外少ない名前なのだろうか。

 あの時の紳士が詐欺師だったとは思いたくないが、格言にあるように、「人は見かけによらぬ」ということが遅まきながら僕にも分かったわけだ。実を明かすと今でもあの金が返って来る奇跡を信じたい気はあったりする。田舎者スピリットはいつまでたっても僕の中から抜けることがなさそうだ。

 

2004年6月19日(土) 台風を待っているんですから
 大型で非常に強い台風6号の接近で既に犠牲者が出たと聞く。沖縄でウィンドサーフィンをしていて亡くなった方には気の毒だが、基本的には雪山で遭難するのと同じだから、自己責任というということになるのだろうが、事情は少し違っているように思う。

 年がら年中貿易風が吹いているハワイ諸島やカリブ海、あるいは地中海に吹いている「ミストラル」などのウィンドサーフィンにうってつけの、一定方向で安定した風に恵まれない日本にあっては、冬を除いてウィンドサーフィンを楽しもうと思えば今の季節から先は台風に頼るしかない。

 僕も30歳を過ぎた頃にウィンドサーフィンを始めて、台風の日に海に出て死にそうになったことがあるが、それはスキルが伴っていなかったからで、プロレベルなら台風の日こそ見せ場なのだ。どんなに練達な登山家でも厳冬の山で吹かれたら命が危ういというのとは意味合いが違うように思う。

 ウィンドサーファーというのは老若男女問わず能天気な方が多くて、友達になろうと思えば、「今日は何平米張るの(セール、つまり帆のこと)」と聞けば、その日から友達になれる気安さがある。そういった連中だから、台風の日ともなると皆キャッキャはしゃぎながら危険な海に漕ぎ出すわけだ。スキューバダイビングの死亡率が高いのとは違って滅多に死なないウィンドサーフィンだけど、事故率がとても高いのはこうしたウィンドサーファー気質と関係があるのかもしれない。ウィンドサーフィン経験者として亡くなった方の冥福を祈りたい。

 

2004年6月18日(金) 明後日っていうこと?
 人間活動が生み出す炭酸ガスの影響によって温暖化が進み、地球に氷河期が訪れるという設定の、ザ・デイ・アフタートゥモローという映画は大変に迫力のある映像で圧倒されたが、冒頭の部分でアメリカの副大統領が、「京都議定書を批准したら金がかかる」と述べて、「何もし無ければもっと大きな代償を支払わされるのです」とやり込められるシーンはショックだった。つまりこの映画はアメリカが地球温暖化防止京都議定書に批准しなかったから成立したとも言える映画だからだ。

 自国の利益のみに奔る共和党政治にはウンザリするが、アメリカ人の尊敬出来る所は、こんな風に自浄努力にも長けていて、映画まで作って啓蒙するというところなのだ。日本の政治が官僚に牛耳られ、金権と腐敗でほとんど機能していなかったような金丸氏や竹下氏の時代のことを思えば、今の小泉さんの方がはるか良いと僕は思っているのだが、改革のスピードを外圧に頼っているとしたら現実社会の営みに追いつくのが精一杯だろう。

 夏には日本の参議院選挙、秋にはアメリカ大統領選挙を控えているが、どうも僕の期待するような結果にはならないかも知れない。ブッシュ現大統領とケリー候補の支持率は拮抗していると聞くし、小泉現首相の支持率も高いときている。世界的世論は対テロで結束しているかに見えるが、実はもっと恐ろしい問題を人類は抱えているのだと我々が気がつくのはいつの日なのだろう。

 

2004年6月17日(木) 茶碗に一杯が日本を救う
 スポーツクラブのトレーニングメニューにも慣れてきて、少しづつ負荷を上げながらやっている。今日もバイクに跨って一生懸命25分間くらい漕いだら120ワットの負荷で、ご飯にして茶碗一杯のカロリーを消費した。ビールなら大ジョッキ一杯程度だろうか。この調子で行くとあっという間に痩せられそうに思うがどんなもんか。例えばゴルフで1日走り回っても家に帰ってきたらむしろ体重は増えていることを思えば、食事の節制をしなかったら何ほどの効果も期待できそうにないということか。

 僕が最も苦手なトレーニングといえば腹筋運動で、寝転がって高い位置に足を掛けそこまで起き上がるというやつだ。初めてやったときには8回やったら腹筋が痙攣を起こして暫らく動けなかったのに、今日は休みながらだけど目標の20回をクリア出来た。少し満足したところで隣を見るとトレッドミルで横に来る70歳くらいの紳士がやはり同じ運動をやっているではないか。しかも僕が水平でやっているのに頭を30度位下げた状態にセットして、おまけに左右の捻りまで加えている。背格好は僕と変わらないのに全くタフな御仁だ。

 それにしてもあの爺さん本当に僕に嫌がらせしているんだろうか。まさかそんなことも無いだろう。たまたま同じ時間帯で同じメニューをこなしているだけで、僕の思い過ごしだと考えているが、本当に気になってきた。それはさておき、飲み屋で出会う、こちらも70歳くらいの紳士に会った。他の知人に聞くと、常にランニング距離の上位に名を連ねているのだそうだ。お互い10年前からの知り合いだが、飲んでいる姿しか知らなかったので挨拶も嬉し恥ずかしでそそくさと終わってしまった。

 まるで老人クラブかと見まがう様なスポーツクラブだが、平日の昼間だからそれも納得できる。働き盛りのくせにそんなところに入り浸っている僕の方がおかしいに決まっているのだが、近頃の年寄りの元気振りには舌を巻かざるを得ない。議員年金を廃止するのは当然として、定年制とか、国民年金も廃止したら、老人とか熟年とか呼ばれながらも力を余している方たちの活躍する機会が増えるのではないかと思ったりする。出生率の低下を知らされるにつけ、そんな無責任なことを考えてしまう今日この頃だ。

 

2004年6月16日(水) ピアノ弾きたいけど団地なので
 初めて師事した僕のピアノの先生というのはバイオリニストが本業だったが、ピアノも上手だった。奥さんが声楽家だったからオペラの楽譜とかがたくさんあったので結構重宝させて頂いた。モーツァルトのアリアなんかの楽譜もコピーさせてもらって、ご主人の伴奏でフルートやバイオリンで演奏して録音なんかして悦にいっていたものだ。

 僕はカラオケがとても苦手で、歌そのものが下手だからと言う理由もあるが、かつて勤めた会社の慰安会で無理やり歌わされ、その上マイクの調子が悪く不評を買ったトラウマが関係しているのかもしれない。そんな苦手意識を払拭したくて声楽も少し教わったのだけど、コールユーブンゲンの途中のままでやめてしまったから今でもカラオケは苦手だ。

 自分のオームページをメンテナンスしていて、気分転換にMIDIのページに置いてあるピアノ曲を聴いていたら、「俺ってこんな曲を弾いていたんだ。凄い!」と今更ながらに驚いてピアノの蓋を開けてみた。最後に調律してから随分になるから、もうすっかり音が狂ってしまっているけど、優秀な調律師(コンサートチューナーと呼ぶ)が手掛けた仕事は狂っていても響き自体はそんなに悪くは無い。あぁ!でもピアノ自体が鳴らなくなってしまっている。もう一度調律したいけど、「あんたまだ結婚もせずにここに住んでるの」なんて言われたら恥ずかしいからサイレントピアノにしたままで練習してみた。早く引越ししたいよ。

 

2004年6月15日(火) すれ違いばかり
 夜毎響いていたフルートの音色が一月ほど前から聞こえなくなったと思っていたら、演奏していた女の子が引っ越して行ったらしい。彼女が5、6年前に引っ越してきたときに初めて僕が耳にした曲は、バッハの管弦楽組曲第二番で、演奏の腕前は僕と同程度だったが、最近では僕を遥かに凌ぐ技術を獲得しており、演奏する曲も僕の知らないマニアックな曲ばかりだったように思う。休日でも、普段の日の夕方でも遊びに行かないのだろのだろうかと思うくらい練習の虫だったから上手くなるのも頷ける。エレベーターなんかで一緒になったことが有ったかも知れないが、どんな人だったのか分からない。だけど取り合えずサヨウナラ。

 近所に住んでいても会えない人というのは縁が無いのであって、遠くに住んでいても会える人というのは意図しなくても会えてしまうことがあるから、彼女の場合は正に一期一会ならぬすれ違いだったに違いない。この先もずっと会うことが無いような気がする。などと感傷的になってバイオリンを取り出して弾いてみた。

 バイオリンというのは弦をピンと張って調弦したまま仕舞い込むのだけど、3ヶ月も張ったままにして置くと、演奏しなくても弦が劣化して、弾けることは弾けても音が悪くなってしまう。伸びの無い硬質な音色なのは楽器自体も目覚めていないから仕方ないけど、驚いたのは僕の体がちゃんと動いたということ。一月もバイオリンを肩にかけないと左手が攣ってしまうのが今まで普通だったから、一年も弾いてないとまず弾くことは出来ないと思っていたのでとても不思議だ。これはきっとスポーツクラブでストレッチ体操をやっている効果が現れたという事だろうか。それとも断食の効用か。などと我田引水してみたりする。

 

2004年6月14日(月) あの夏の最後の日
 大陸からの高気圧の勢いに一旦は退却を余儀なくされている梅雨前線も今週末あたりには勢力を回復するとは聞くが、外で活動していると、アスファルトに反射する太陽は暑さこそ優しいものの、目に入った紫外線で肌に日焼けさせるには十分な明るさで、夏の到来をいやがうえにも予感させられる。

 空気が乾燥しているとはいえ車の中でカーステレオの取り付け作業をしたり、エンジンルームを開けて点検したりなんかするとさすがに汗が噴き出る。滴り落ちた汗はエンジンの熱で瞬時にして塩に変わり、黒い排気管のカバーに出来た白い染みをウエスで拭いながら、僕は5年前の盛夏の或る日の事を思い出していた。

 80歳を超えていたあの当時の父は足腰も弱くなっていたが、特に視力の衰えが激しく、お盆休みに帰省した僕に家の用事というより自分の用事を言い付けた。元々女房子供なんぞ下僕のように思っていた節があり、人に何かをやってもらったという感謝の念など微塵も持ち合わせていなかった人だったから、あの時も仕事の出来栄えに口汚く文句をつけた。

 筋が通っているならまだしも独善的で理不尽な御託を並べるものだから、後にも先にも無い激しい口げんか父とやらかして、到着したばかりだと言うのにそのまま大阪に引き返えそうと荷物を車に積み込んでエンジンをかけると母が駆けて来た。ドアを開けたままの運転席の横に母はしゃがみ込んだまま、「あんな父親で申し訳ない」と涙ながらに僕に許しを請う。

 父の増長を許したのは面倒なことになるのが嫌で、何でもほいほいと父の言うことを聞いてきた母にも問題があるかも知れなかったが、持って生まれた父の性分は他の誰であっても直し様が無かったに違いない。許しを請わなければならないのは父の性格に似ている僕の方なのだ。

 車が故障したのは、怒りが治まらないまま山陽自動車道に乗り、赤穂のあたりを大阪方面へ走っているときのことだった。長い下りの直線、帰省ラッシュとは逆向きだから空いている。アクセルを底まで踏みつけた。170km/h、180km/h、190km/hどんどんスピードが上がり、リミッターが働こうかという所にまでメーターが来たところで突然ボンネットから大量の白煙を噴出し、ハンドルが急激に重たくなった。やってしまった。分かっていたのについ無理をさせてしまった。田舎に着いたときに既にパワステのオイルポンプから異音が出ていたのを放置していたのだ。

 ゆっくりとアクセルを戻し路肩に寄せてエンジンを止めボンネットを開けた。思ったとおりオイルポンプの軸受けのベアリングが破損してエンジンルーム一面にオイルをばら撒き、エキゾーストパイプの熱で半ば燃やされて煙を出していたのだ。JAFを呼んだら意外に早く来てくれ、若いサービスマンが、「ベルトを切りましょう。ハンドルが重いだけですから我慢してください」と言うので、「ベルトはまだ使えるから緩めて外せませんか」と聞いたらその通りにしてくれた。ところがこれがいけなかった。とんでもなく困難な作業の上に炎天下。エンジンルームは高熱で油だらけ。特殊工具と複雑な手順が必要だった。

 狭いエンジンルームの奥に手を伸ばしてボルトを緩めようとするが上手くいかない。汗が噴出してエンジンに落ち、白い結晶を作っている、と思ったがそうではなかった。彼の額から噴出していたのは透明な汗ではなく、吹き出た瞬間に塩になっている、「白い汗」だった。僕はこの時まで人間が白い汗をかくとは思っても見なかった。

 「もういいです、ベルトを切ってください」と言ったが、彼のプライドが許さないのか妥協せず、やがて二人ともくたくたになって作業は終わった。安いベルト一本のためにサービスマンに大変な苦労をさせてしまった。ハンドルはどうしようもなく重かったけど、彼のおかげで父との確執を引きずることなく帰り着くことが出来てむしろ幸いだった。

 「親と喧嘩するのは30才までしておけ」と友達に諌められ、2年後に父が亡くなってから、「本当にその通りだ」と酷く悔やんだものだが、抜けるような青空と白い汗は苦い思い出と共に僕の心に深く刻まれた。

 あれからもう5年が経つのか。もう少ししたら梅雨空の隙間から紺碧の空に入道雲が育つのを見るようになるのだろうが、あの日の出来事を思い出さないで僕が夏を迎えることは無い。

 

2004年6月13日(日) いきなり飲んでしまった
 南高梅(なんこううめ)というのは、和歌山県の南部高校で開発されたからその名が冠されたという説を僕は信じているのだけど、古城(ごじろ)という梅の名前の由来は知らない。

 梅干に適しているのが、果肉が大きく柔らかい南高梅で、梅酒(和歌山の人はバイシュと呼ぶ)に適しているのが果肉が小ぶりで硬めの古城らしいが、最近ではどちらも需要が多く、梅の木が立ち枯れしたりすることもあってか、供給が追いつかなくなったという。危機感を持った地元の梅農家の方は、気候風土が良く似た中国の地に栽培の活路を見出したのだそうだ。

 たとえ国と土地が違っても、ワイン用に供給される葡萄の品種である、メルローとか、カベルネソービニヨンが必ずしもフランスのボルドーやボージョレー産でなくてもいいのと同じで、梅だって中国産の南高梅でも古城と呼んでもいいわけだから、僕が今日買った梅が、「和歌山産入り」の古城であっても決して拘りはしない。ただ日本に住んでいながら中国産の梅を使うことに、わだかまりが無いわけではないと言うだけのこと。

 古城1kg、氷砂糖1kg、チョーヤのブランデー1.8L、赤ワイン少々、ロシア産ウォッカ300ml。大体こんなところだろうけど、本当のところは砂糖を少なくしたかった。しかし余ってしまったって他に使いようが無いものだから全部入れてやった。梅と砂糖を交互に入れて、ブランデー、赤ワイン、ウォッカを入れて少しかき混ぜ、おたまじゃくしでストレートグラスに掬い取り、味見してみた。甘口の赤ワインと、やはり少々甘口のウォッカがブランデーと混ざってなんだか美味しい。ちびちび味わいながらかき混ぜているうちに、ふと我に帰るとグラスに一杯ほど飲んで酔ってしまった。

 数時間後に見たら、交互に入れた梅と砂糖はすっかり砂糖が下に下り、梅が上がってしまっていた。また少し掬って飲んでみると相当甘くなっているが、梅の香りは全くしない。気が付くとまたグラス一杯ほど飲んでしまっているではないか。えらいこっちゃ!こんなことでは梅が漬かり切ってしまう前に飲みきってしまうじゃないか。明日から漬けている事を忘れてしまおう。

 

2004年6月12日(土) 納車の日に
 老いさらばえていたとはいえ、日産シルビアはスポーツ志向のデートカーだったから、ヤンキーとか暴ちゃんあたりにずいぶんもてはやされた時代があった。エンジンパワーはともかく、リジッドなFRの足回りにはそこそこ定評があり、流麗なシルエットと共に僕も気に入っていたのだけど、今度の車はそういったカテゴリーとは凡そ乖離した実用車なので、乗り味は比ぶべくも無い。

   
     花束を持っているのがHAL

 なんだか分からんけど新車購入の客には記念写真と花束贈呈の式典が用意されていて、店長と鍵を持っている営業マンと三人で車をバックに、「ハイチーズ」。ボケているところがホームページにはうってつけかな。

 

2004年6月11日(金) 今年はやってみるか
 入梅を予言するかのように、先週あたりからスーパーの店頭には梅酒仕込みセットが並び始めた。中学生の頃から事あるごとに酒をたしなみ、高校の頃には果実酒の本を買い込んで気に入りそうな果実を漬け込んでは悦に入っていたものだ。

 最も香りが印象的でだったのはバナナ酒だったが、余りな甘ったるい香りに酒として飲みたいとは思わなかった。それとは逆に、クコ酒とかマタタビ酒といったものは薬用養命酒のライト版のような感じで、これまた好んで飲めたものではなかった。

 梅酒をブランデーで漬けると美味しく仕上がると聞いて、実践しては見たものの結局、梅パワーの前には葡萄の蒸留酒など無力に等しかった。正直なところホワイトリカーで漬けたのとなんら違いが分からなかった。

 チョーヤの梅酒ならぬ、チョーヤの梅酒用ブランデーというのが売られていたので買った来て、ブランデーとして飲んでみた。案の定、小蠅が舞い飛ぶ場末の飲み屋でたまに飲むのと同じく、ブランデーなのかウィスキーなのか判別し難いような物だった。ホワイトリカーの方が妙な味がしない分だけましに思えるが少しまろやかかも知れない。

 偉そうなことを言ってはいるが、僕が普段飲んでいるウィスキーというのはボトル一本が460円というホワイトリカーより安いものなので、適当に聞き流してほしい。梅酒を漬けるには打って付けの酒を手に入れたので、後は和歌山産の梅、古城(ゴジロ)が手に入るかどうかだが、今回は禁断の赤ワインを加えてみたいと思う。白ワインではだめなのだ。

 

2004年6月10日(木) 逆打ちになりそう
 そろそろ具体的に挨拶回りの予定を明確にしないと、お礼参りの筈がその筋の社会で使うところの意趣返しの意味になってしまっては具合が悪かろう。TELが夜毎ほっつき歩いているのでなかなか捕まらないから、期待しないでいつもの飲み屋で一杯やっていたら遅々になってから現れた。

 韓国の餃子生ごみ混入のニュースを見ていて急に餃子が食べたくなった訳ではないが、関西でマクドナルドと同じくらいチェーンを展開している餃子の王将で打ち合わせすることにした。日頃客をないがしろにしているくせに、遊ぶときだけ付き合いの良いマスターと、船長ともサンタクロースとも呼ばれるYさんとで腹いっぱい飲んで食って一人1000円は安い。

 TELが何を思い出したか、「ところであんた結婚する気は無いンかいな?」と聞くから、「ゐゑゐゑ!さっきマスターとこでユナちゃん(仮名)4才からプロポーズされたから取り合えず20年先の予約は入ってるよ」と訳の分からん回答をしておいた。本当は手っ取り早くベターハーフでも見つけて今の生活とおさらばしたいのだが、蓼食う虫はやっぱり少数派なので実現していないだけのこと。って、そんなことより何とか大筋で日程が決まった。後は関係各御仁に連絡の上、御回答を待つつもりだ。

 

2004年6月9日(水) 琵琶湖の鮎
 琵琶湖の鮎は5cmくらいで大人なのだそうだ。小さくても立派に鮎の味わいがするとあって、近年ではブラックバスと人間が競って乱獲するものだから、とうとう彼らも高級魚の仲間入りを果たしたと聞いている。

 
 写真は、琵琶湖に程近い保守的な土地柄の、厳格な家に嫁いだ姉からが送られてきた鮎の飴煮。当家のお父さんが得意とされていた味を受け継いだもので、いかなごの釘煮などと同じような作り方をするみたいだが味は全く別物だ。醤油に頼らず鮎本来の味と香りを生かしながら、同地で採れる特産の山椒の実で味をきりりと引き締めた、絶妙のバランスの上に成立している正に旬の逸品で、この季節にしか味わうことが出来ない。

 入手そのものが難しいと云う琵琶湖の鮎は、その時々で風味が違い、駆け引きをしながら山椒の実を増減するのだそうだ。まるで綱渡りのような味覚が要求されるこの郷土料理は、当然ながら滋賀県の酒がベストマッチなのに、遺憾ながら今宵の僕は灘のありふれた酒で頂くといった琵琶湖の鮎の尊厳を貶める行為に弁解の余地も無い。あぁ、でも酒が進む。

 

2004年6月8日(火) 怖いもの
 シャワーを浴びようと風呂場に入ったら黒くてデカいゴキブリを見つけた。今シーズンで始めて見る一匹だ。先日押入れを掃除してダニにやられてアースレッドを炊いたからあんな大きな奴が生存していたとは思えない。窓を開けっ放しにしていたから隣近所からやって来たに違いなのだ。

 ぐずぐずはしておれん。取り合えず手にした洗濯機のホースで殺害を試みたが逃げられたようだ。その代わりホースの先は二度と使えないほどアダプターの部分が損傷してしまった。奴らの命とこのホースの先と、どちらが尊いのか対価を計算してみたが僕にはどちらが高価なのか分からない。とにかく目前の恐怖を取り除きたい一心で後先を考えずに行動したのだ。

 僕が野宿を出来ない理由の多くはこの辺にあるように思う。酒を飲んで路上に転がって寝るなんて造作も無いように思えるが、自然の豊富な田舎の無人駅や、お寺の軒先なんかで寝るのはどんな虫や動物がいるか知れないから怖くて仕方が無い。男女問わずテントも張らずに野宿できる人が羨ましくて仕方が無いが、朝起きて家の軒先に誰かが野宿していたらやっぱり驚くだろう。立場が逆なら野宿している側はゴキブリ扱いされて叩かれても仕方ないかも知れない。僕は野宿はやっぱり出来そうも無い。人間のほうが余程怖いのだから。

 

2004年6月7日(月) 納車間近
 車が入庫して車体番号が分かったので書庫証明が欲しい、とH社の営業マンから連絡があったので、プールで泳いだ後に会った。

 土曜日に納車の予定だと言うから当初の予定より一週間早くなったわけか。早速保険屋さんにTELしたら、連絡が付かない。2時間くらい後で携帯にかかってきて、「プールで泳いでいた」という。そうするとスポーツクラブで待ち伏せしていたほうが良かったのか。

 それにしても、保険屋さん金曜日がゴルフだぁ〜。それじゃあ土日は保険なしで車に乗れということになるかも知れんな。少々具合が悪いので大人しくしておくとするか。

 モーツァルト:魔笛をMIDIに追加

 

2004年6月6日(日) 堪能しました
 宝山寺の参道を登りきって大鳥居が見えてきた頃には、蒸し暑さと昨夜の英国王室御用達の赤ワインとバッキンガム宮殿御用達の白ワインが意外にしつこく残っていて足が前に進みませんでした。そうして先日お世話になったそば屋さんの前に来て大将に挨拶したあたりから気分が優れなくなったのですが、「HALさん?」と呼び止められて、「HALですぅ。TELですぅ。初めまして」と、鈍足さんに挨拶したときにはすっかり吐き気も忘れておったようです。

 何はともあれ樽酒を、と本堂を目指したのですが本日は樽が見当たりません。すっかり肩すかしを食った僕は、写経を適当なところに放り込んでおざなりのお祈りをしておりましたが、どうやら殴り書きした写経ではご利益が無いどころか罰まであたるようで、またもや吐き気がしてまいりました。

 「ちゃんとお参りされたんですかぁ?」と、いぶかる鈍足さんを、「取り合えず蕎麦食って酒を飲みましょう」などと誤魔化して、例によって大鳥居の袂に陣取った我々は、そば屋の大将が用意していてくださった一升瓶をほとんど三人で空にしてしまったのでした。やがてそろそろ出来上がったかと思う頃に滝行場へ出かけ、管理をしているおばちゃんを飲み屋のママさんに見立てて管を巻くという放蕩ぶりには、流石に忍耐強そうな鈍足さんも呆れ返ってしまわれた様子でした。

 鈍足さん今日は本当に御免なさい。僕の日記は大げさに書いていると思っておられたことでしょうが実はその逆で、余りな罰当たり加減にむしろ抑制して書いているというのが正しいのです。もう一つ謝らなければならないのは、僕が抱いていたイメージ以上に鈍足さんの印象が紳士であったということです。これに懲りずにこれからもなにとぞ生暖かく見守ってやって下さい。

 

2004年6月5日(土) バッキンガム宮殿御用達
 昨日の腹痛と下痢は朝になるとすっかり良くなっておりましたが、トレーニングの疲れと、英国王室御用達のワインが残っておりましたので寝覚めは良くありませんでした。

 どんな酒が好みかと聞かれることがありますが、アルコール分が混入しているのなら、養命酒でも薬用陶陶酒でも取り合えず飲んでみたい性分でして、ゴルフ場で朝一番に飲む陶陶酒なんか大好きです。養命酒も嫌いではありませんが、少し甘く感じるので、やはり変なウヰスキィなんかよりずっと美味しい陶陶酒に軍配を上げたいと思っています。

 本日もトレーニングに出かけまして、昨日気になっていながら買いそびれた「バッキンガム宮殿御用達」の白ワインを買ってきましたが、明日の宝山寺奉納酒と飲み合わせにならないかと心配で、まだ封を切る気になりません。大安寺笹酒、長久寺正月酒、宝山寺聖天市奉納酒。なんともブランドに抗えないHALなのです。

明日は朝から写経をして、今日親戚で貰った杯持参で納経の上で酒を頂に行く。鈍足さんと会えるのが楽しみだ。


2004年6月4日(金) ジェットバス
 腹痛を伴う下痢に苦しんでおります。酒を飲むどころではございません。それと申しますのも、今朝はすこぶる体調が良く、午前中からスポーツクラブに出かけ、マシントレーニング、バイク、ウォーキングと、ややハードなメニューをこなし、仕上げにプールへ入って30分ほど泳いだのでございます。

 ジムで火照った体にプールの水が大変気持ちよく、ゆっくりと体をほぐす程度に泳いでおりましたが、やがて体が冷えてきましたので屋外に設置されたワールプールへ入って温まることにしたのでございますが、プールとは名ばかりで10人も入れば満席となるような露天風呂みたいなもので、ジャグジーなどと呼ぶ場合もあるようでございます。四方八方から勢い良く泡が吹き出しマッサージも出来るのでございます。

 ゴーグルとスイムキャップを取って、ワールプールのドアーをくぐりますと、プールの内も外もおばちゃん達で占拠されてしまっており、男子禁制の様相を呈しておりましたから、踵を返そうとしたのでございますが、「兄ちゃん、詰めてあげたでぇ、早ようおいで」と、声をかけて下さいました。せっかくの好意を無にすることもできませんし、「おばちゃんたちに圧倒されてこそこそと逃げ出した臆病者」といった汚名を着せられては堪りませんので、混浴の風呂に入るようで気が進みませんが、僕のために空けてくれたらしいスペースへとすり込んだのでございます。

 小さくなりながらおばちゃんたちの間で湯につかっておりますと、どうやら彼女たちにとって僕は若者に見えるらしく、口々にあられもない言葉をかけて下さいます。日頃女気の無い場末の飲み屋に女性客が現れたときの酔漢どもが織り成すのと、男女を入れ替えただけでなんら変わらない光景が展開されたのでございます。ただ違う事と言えば、彼女たちは一滴の酒も飲まずに羽目を外しているということでございましょうか。

 おばちゃんたちの余りの歓迎振りに、1分としない内に僕は居たたまれなくなってしまい、早々に退散させていただいたのでございますが、背中で下卑た哄笑を聞いてしまいましたので暫らくはワールプールへ行くのを遠慮しようと考えております。

 遅いお昼となってしまったのでございますが、本日のお昼ご飯は新規店舗が入ったラーメン劇場と決めておりましたので、未だ味わったことの無い豚骨ラーメンの店に入り、基本形を注文したのでございますが、これがなんとも油ギッシュな物で、コクを油に頼りきったようなコテコテのラーメンはとてもじゃないが頂けません。関西人のギャグがコテコテだからといって、味付けまでそうなのではありません。しかし僕の怒りが心頭に発したのはそんなことではごさいませんで、「ぬるい」ということでございます。「ぬるいラーメンが食えるか、馬鹿者!」と怒ってどんぶりをひっくり返そうと思ったのは、スープを全部飲み干した後でございました。

 痛恨の手順前後をやらかしたラーメン店を出て、英国王室御用達と書かれた赤ワイン等を買い物してからうちに帰ったのでございますが、なんだか冷や汗が出てきて、やがて10分間隔でトイレに駆け込みながら、ラーメンのスープを飲み干してしまったことを悔いた、という次第でございます。

 日記を書いているうちに薬が効いて来たのか、ややマシになってきましたのでワインを飲んでみたところ、なかなか良いのですが、やはり2003年物の方が美味しいようでございます。それにしても散々な目に遭った本日なのでございました。

スポーツクラブでもフィガロの結婚がBGMに使われておりました。

 

2004年6月3日(木) 分かる気はする
 何度も悪夢にうなされて目が覚めた。当サイトの掲示板が荒らされていると、誰かが教えてくれる夢を見て、真夜中から朝方まで何度もパソコンを立ち上げて本当に確認してしまったほどだ。

 何も拒まない、何も強制しないというのが僕の基本コンセプトなので、どんなことを書かれても削除せずに対応する覚悟でいるのだけど、未だかつて鬱陶しい書き込みをいただいた例は無く、ほとんどが好意的か、他愛も無いものばかりだ。

 ところがメールでいただくのは決して好意的なものばかりでもなく、無視してくれと言わんばかりの匿名メールをいただくこともある。内容から察すると全て知り合いだと思えるが、名乗ったからといって不都合な物ではないのに、匿名にすることで受け取った側はとても気分が悪い。

 日記に書く内容については気を付けている積もりなのだが、あるいはどこかで他人を傷つけているのかも知れない。今度の事件は自分自身のあり様を見つめ直せと警鐘を鳴らされた様に思う。


2004年6月2日(水) すぐ隣にあるかもしれない
 国会質疑にも登場するくらい世間を震撼させた、「ホームページへの書き込みを巡ってトラブルの末に小学6年生の女の子が友達を殺害」のニュースを聞いて、僕も震え上がった一人なのだが、これは決して他人事ではないように思う。

 年齢の低さにとカッターナイフで切りつけるという身近な殺害方法に驚きはするが、女の子という点についてだけいえば、さもありなんと思う。ホームページを作ることは難しい事ではないので、小学生にだって十分可能なのだが、女性の、特に若い子の運営しているサイトに書き込むときは細心の注意が必要で、僕も何度か痛い目に遭いそうになったことがある。

 女の子の作っているページというのは、大好きな花々を咲かすためにガーデニングをやっているようなもので、ポエムを散りばめて作り上げる一冊の詩集みたいなものだと思ったらいいかもしれない。綺麗な花を植えに来てくれる人は歓待するが、花を踏みにじったり、散歩の途中で花壇に犬の糞でもさせようものなら烈火のごとく怒りを買い、必ずや完膚なきまでに糾弾されるだろう。

 元々人様のホームページを見に行くほうでは無いが、あるときふと気になった女の子のページがあって、何度か書き込んで普通の会話をしたのだが、過去の掲示板を読んでいて凄惨で不毛な戦いが延々と展開されたのであろうと想像できる書き込みを見つけておののいた。敵も味方も全人格を賭けて戦っている様は、人格の蹂躙をしあう報復合戦に見えた。これでよく事件に発展しなかったものだと不思議なくらいだった。

 純粋に、熱情的に、理想と正義感をもってホームページ作りに邁進していると、人はややもすると狭量で排他的という陥穽に落ちることがあるのでないだろうか。そもそも他人は自分とは違う精神構造や価値観を持っているのが当たり前で、だからこそ面白いのだと気付くことが出来たならどんなに素晴らしいことだろう。加害者の子がこの先どんな人生を歩むのか想像だに出来ない僕は、残された被害者の心情を想うと白々しい言葉を連ねることも出来ない。ただ両者に、「癒しよあれ」と祈るのみだ。


2004年6月1日(火) ここでもお接待漬け
 TELと、TELの飲み友達のグラマーなNさん(実名を知らない)と、近鉄生駒駅で待ち合わせて、酒を飲んで出来上がってしまう前に静養院断食療養所を訪れた。お土産を買った上でお伺いしたけどおばちゃんはお留守だったので、仕方ないから副院長にお願いし、所内を見学させて頂いてから宝山寺へと、お酒を飲みに登った。

 お寺さんとお大師様を欺くための写経を忘れて来たから、開き直って正直に告白すると、TELの飲み友達のグラマーなNさん(実名を知らない)の目的は知らないが、TELとHALはお参りとは名ばかりで、実際はただ酒を目当てに来ているだけなのだ。

 「熱い砥部焼きありますか?と、お好み焼きかなんかと間違えて聞くお客さんがたまにおるけん、砥部焼きは大体厚いです、てゆうんよ」と、話してくれた石手寺の売店のおばちゃんのギャグが振るっていたので、マイ杯として砥部焼きの椀を二つ買ったのだけど、分厚いので酒を飲むのには向いていなかった。泣く泣く田舎に置いて来たからマイ杯がまだ無い。事情をご存知無い方は、その辺に転がっている湯飲みでも良さそうに思われるかも知れないが、樽の前に立ちながら100均の湯飲みでは趣に欠けようというもの。僕の下手くそゴルフの腕がばれない様にウェアと道具で武装しているのと同じで、ただ酒を飲もうという浅ましい性根を見透かされたくないので紳士に化けてみようと思うのだ。

 今度はちゃんとお参りを済ませてから、樽の前に行ったのだが、時間が遅すぎたのかもう残りが僅かになってしまっている。こりゃ慌てて頂かないと無くなってしまうなぁ、と思っているところへ見知らぬおばちゃんがやってきて500mlのPETボトルに漏斗で流し込み始めた。いくらなんでもPETボトルは無いだろうと、前回お会いした紳士の話を半信半疑で聞いていた僕達だったので、これには勇気を得た。こっそりザックに忍ばせて来ていたPETワンカップを取り出し、堂々と溢れんばかりに充填した。
 
 山門を出たところに屹立している御影石で出来た巨大鳥居の付近に来ると屋台の蕎麦屋さんに呼び込まれた。「もずくそば」と書いているがどういう意味だろう。一杯200とは安いと思うので食べることにした。隣の屋台で350ml缶500円のビールを買って赤い布が被せられた椅子に座ろうと思ったら、「そこより影になって涼しいあっちに座ったら?」と、店のご主人に促されるまま鳥居の根元に座り込んでビールを呷り、PETワンカップに満たした樽酒を頂いたのだが、美味しいけど何の変哲もない酒に変わってしまっている。どうやら樽の前を離れた瞬間に賞味期限が切れてしまうのかも知れない。

 さて肝心のもずく蕎麦だが、「つなぎ」に「もずく」でも使っているんだろうか?麺は良く分からなかったけど、おツユと葱が美味しくて最後まできれいに飲み干した。
  
 飲み干したお椀をじっと眺めているうちにお椀が杯に見えてきて、どうしてこの杯に酒が入っていないのだろうと不思議に思え、PETワンカップの酒をお椀に移し変えて飲み始めると、なんだか奈良時代の豪族の宴気分に浸れ、酒のすすむこと。

 TELの飲み友達のグラマーな、、、え〜ぃ、面倒くさい。奈美さん(仮名)は、やけに店主に気に入られ、赤い布を敷いた椅子に腰掛けて二人で酒も飲まずに盛り上がっている。僕とTELの酒が底をついたのを知った店主は、「酒を汲んできてやるから店番しといてくれ。客が来たら蕎麦作ってや」と、言い残して奈美さんと二人でどこかへ消えた。

 心配していたことが勃発したのはその直後だった。本当にお客さんがやってきてしまい、責任を感じたTELが要領も得ぬまま蕎麦を作り始めた。彼は、でまかせとか、振りをするのが結構上手な男なので、お客のおばあちゃんに、「蕎麦を多めに入れといてあげるね」などと自分の店でもないくせに勝手な大盤振る舞いをやり始める成り切り様。おばあちゃんはこの店の常連さんらしく、「ようけ入れて貰ろうても食べられへんがな」と返してくる。

 そうこうしている内に店主が帰ってきた。さっきまでお茶が入っていたPETボトルまでお酒で満たされている。本堂前の樽酒は無くなってしまっているだろうからと、内緒の所から汲んできたのだそうだが、これもまた美味しかった。

 200円の蕎麦一杯で一人3〜4合も飲んだだろうか、店主も文句を言わないどころか自ら宴を盛り上げてくださる。その上に、「第一日曜にも聖天市があって、店も沢山出るよ」と教えてくださった。すっかりお世話になりました。この場でお礼を言わせてください。有難うございました。それにしても僕たちはひょっとして、お遍路さんやって以来お接待され上手になったのだろうか。いいことなのか悪いことなのか良く分からん。

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2004年6月日()