HAL日記


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2004年2月29日(日) 命の浪費
 長く職場を共にした女の子のお通夜に駆けつけてみると、広い式場は既に大勢の人々に埋め尽くされていた。焼香のために彼女の遺影を見上げたときに初めて、「半信半疑で来たのに、本当に彼女のお通夜なのだ」と、実感が湧いてきた。少しして読経が終わり、喪主のお父さんの挨拶は、「大勢の人に来て頂いて驚いております」とのことだったが、それが彼女の仁徳の高さの証明なのだろう。

 思いも拠らない状況での懐かしい面々との再会を喜ぶわけにもいかず、それどころか皆涙ぐんで挨拶もままならないうちに式場を後にした。旧同僚たち数人と駅前の居酒屋に入り彼女の思い出を語り合おうとなった。しばらくは楽しい出来事ばかりを選んで彼女との思い出を振り返っていたのだが、酔いが廻ってきた頃にはそれぞれの思いが込み上げて来て、「もう一度彼女に会いに行こう」となった。

 棺の中の彼女は眠っているようだった。長い闘病の末にすっかりやつれきってしまっているのではなかろうかと心配していたのだが、僕にとって最後となった送別会の印象となんら変わりなく美しいままだったのがかえって居たたまれず、送別会での花束を胸にした遺影を弟さんと見上げながら、「送別会でバイオリンを弾いたんですが、あんな曲を…」と、言いかけたが言葉にならず、「ありがとう御座います。姉はようやく病苦から開放されました」と、弟さんが答えられ、後は二人とも嗚咽をこらえられなかった。

 大の男たちが声を上げて泣きじゃくりながら別れを告げて、最後にお父さんに挨拶をした。「医師から99%駄目ですと言われて家族も愕然となりましたが、最後の40日間の闘病は娘にとって苛烈を極めました」と聞いた皆は、また頬を濡らした。
 
 帰りの電車で一人になって思う。近所の知人、彼女、奇しくもどちらも「Yちゃん」と僕は呼んでいた。佐伯祐三30歳、モーツァルト35歳、正岡子規35歳、なのに僕はどうして無為のうちにまだ生き続けているのだろう。こんな人生送っている場合じゃないだろうと焦りがるのに、未だもって飲んだくれている自分に匙を投げたくなった一日だった。

 

2004年2月28日(土) 愁嘆場
 Yさんが自宅のトイレで大量に吐血し、そのまま帰らぬ人となったのは司法解剖によって2月24日、死因は失血による心不全と推定されたらしい。僕が懸念していた死因でなくて本当に良かったと、不謹慎ながら思わずにいられない。

 我々がYさんの訃報を知って彼の家を訪ねた夜、第一発見者の軽トラックの助手席に僕が見つけたものというのは、二羽のぐったりした鶏だった。いや正確には烏骨鶏(うこっけい)というのだそうで、ぐったりしているのは眠っているからだと説明してくれたが、鳥インフルエンザが蔓延している時節柄のこと、俄にこの男の釈明を信じる気にはなれない。この鶏は亡くなったYさんの工場で育てられていたもので、世話する者がいなくなったのを哀れに思って連れてきたらしい。

 馬鹿の王道を歩む、と自他共に認めるこの男と一緒にお通夜に行くのなら御免蒙りたい。司法解剖の結果が出て、鳥インフルエンザによる感染で死亡したのでないことがはっきりするまではこいつに近づきたくないのでお通夜を見合わせた。数年前のO-157が堺市を発生源として日本中を震撼させ、堺市民がホテルのチェックインを断られたという苦い経験から過剰に反応してしまうのは仕方の無いことかもしれなかった。

 死因が鳥インフルエンザでない事がはっきりしたので、馬鹿とマスターと知人の四人でYさんの葬儀に参列した。堺市内の斎場で執り行なわれた葬儀は、僕がいつも見慣れた祭壇より簡素で、神社の屋根を模した下には、鯛、大根、木の葉っぱ等が置かれていて、数珠をジャラジャラさせながら葬儀社の進行係の話を聞いていると、「祭主様、玉串」などの単語が聞こえ、「そうか、神式?神道なんだ」と、ようやく気がついて、一同慌てて数珠を仕舞い込んだ。

 やがて聖徳太子のような祭主様が登場され、うやうやしい言葉を読み上げ、葬送の儀が始まるや否や、19歳の娘さん務める喪主がすすり泣き始め、つられるように我々も目頭をぬぐった。知人の死を悲しむよりも一人娘の心中、行く末に思いを馳せないではいられない我々だった。

 葬儀が終わり、交通事故で脳座礁のため開頭手術を受けた知人を見舞ったら、意外に回復していて、我々の名を思い出すことは出来ないけど、顔は分かるらしい。元々理解不能な人ではあったが素面であれなら、飲んで暴れていた頃よりはいいのではないかという印象すらある。

 皆と別れてから、元の同僚だった女の子のお通夜に出席するため、待ち合わせに向かった。僕にとっての愁嘆場はこの後に始まるのだが今はまだ何も書けないほど落胆している。

 

2004年2月27日(金) なんてことだ、またも訃報だ
 今からちょうど2年程前のこと、長く勤めた女の子が病気を理由に退職をすることになり、人望の篤かった彼女のためにいくつかのセクションで送別会が催された。そのうちの一つに僕も出席したのだが、とても元気な様子で本当に病気なのだろうかと皆が訝っていたのだが、実は相当良くないという噂が囁かれていたのだった。

 彼女が退職して一月ほど経った頃、メールも電話も音信普通になったと聞いて、同僚と以前に入院していた病院へ行き、消息を求めたのだが結局何も分からなかった。しかしその頃どこからか、「もうこの世の人ではない」といった心無い噂が流れたことがあって、「あんなに元気そうだったからそれは無いだろう」と、楽観派によって噂は否定された。

 このところ朝から晩までパソコンと向き合っているので、夢を見るのはプログラミングのことが多くなってしまったのだが、不思議なことに20年以上も前に僕の心の中では決着がついているはずの、わだかまりの様なものを解決している夢を見ることがある。自分の体調のことを除けば、酒で解決できないストレスも無いので昔の夢を見るのだろうと思うが、実は彼女の夢を数日前に見たばかりなのだ。

 夢の中で、僕はかつての同僚たちと共に、「余計な迷惑を掛けたくないという理由で、葬儀が終了してから彼女の訃報を知らせたのだ」と、仰る両親の言葉を聞きながら彼女の霊前で般若心経を読んでいるのだった。お母さんが、「最後となったお風呂に入れるために抱き上げると、娘の体は羽のように軽くなっていました。今でもその感触が両手に残っているのです」と仰ったのを聞いた一同が悲嘆に咽んでいる中で僕は、「あの送別会で、"精霊流し" や "いつも何度でも"なんか演奏するんじゃなかった。もっと気の利いた送る言葉は無かったのだろうか」と、悔やんでいるのだった。まだ30歳になったばかりの独身だった彼女よ安らかに眠れかしと祈らないではいられない。

 
 

2004年2月26日(木) 訃報
 客の意向など全く無視して6時に開店したかと思うと、9時前に閉店して他所へ飲みに出かけたりする気ままな独裁マスターが営む飲み屋にとって、9時過ぎという遅い時間帯に暖簾をくぐったら、常連客が将棋を指したり、口論したりと、いつも通り場末の日常が展開されていたが、口論の仲裁をしていたマスターが、「HALさん、Yさん死んだんやで」と、不意に思い出したように切り出した。

 Yさんは3、4年ほど前からの、いわば新参の常連客で、「何処から来られたのですか」と尋ねたら、「パプアニューギニアです」と答えるので、「日本語がお上手ですね」といいたくなるような風貌をした60歳ほどの社長さんだった。顔色が日本人離れしているほど真っ黒なのは屋外の仕事のせいばかりでなく肝臓に疾患を抱えているのでは、と誰もが疑うほどで、実際アルコール性肝障害で何度も入院経験があったらしいから、そういった原因が絡んだ突然死だとは容易に想像できる。

 年金基金の運用に失敗したのみならず、制度そのものが官僚を肥やすためのシステムと考えていた連中がぬくぬくと天下って法外な退職金を受け取っているというのに、年金を受給する前に世を去らなければならなかったYさんの無念な姿を発見したのは、連絡もせず、出社しないのを不審に思って訪ねたアルバイトの男だった。

 警察に通報した男は、第一発見者として、事情を聞かれたというよりは尋問されていたのではないかと思われる。なぜなら彼が開放されるためには彼自身の身元引受人が必要だったことからも仁徳の無さ、疑わしさが推して量られる。彼が飲み屋で口論している間も、「動機は十分で、状況証拠は揃ったな。今日は現金を持っとるはずや」とか、「ええ加減に吐いたらどや、楽になるぞ」といった心無い言葉が浴びせられていた。

 お通夜とか葬式の段取りはどうなっているのだろうと、マスターと第一発見者の男と数人で、日付が変わる前にYさん宅を訪ねたのだが誰もいなかった。検死解剖が終わってYさんが帰宅できるのは翌日以降になるようだった。死因が断定出来なければ「心臓麻痺」として、十把ひとからげに片付けられていた昔と違い、慎重な判断が求められる昨今だから当たり前と言えば当たり前なのだ。

 仕方が無いので解散しようとなったそのときだった。僕は第一発見者の男の車をふと覗き込み、助手席にとんでもないものを発見してして愕然となったのだ。終わりではなかった。それどころか大いなる恐怖の始まりの火蓋が切って落とされたように思えて僕は身がすくんだのだった。が、しかし警察の発表が無い今、うかつにしゃべるわけにはいかない。

 

2004年2月25日(水) お腹の友達
 「体調が優れないと言っておきながら夜毎飲みまわっているとはどういう訳だ。そんな体たらくでは遠からず死ぬぞ」と、脅しの電話を、元同僚から頂きましてありがとう御座います。その通りなんです。実は先日、パラ遍路の結願報告をあちこちに書き込んだりメールしたりしていたんですが、僅か一行を書くのに20分もかかると言う惨めな有様。しかもなお文章に呂律が廻らなくなって、ひどく詰まらないものしか書けず皆様に笑われている始末です。

 はっきり申し上げますと、昼間は飲んでいないから調子が悪いと言えなくも無いのですが、どうもそればかりではないようです。直近の研究に拠りますと、無呼吸症候群の人の睡眠時の脳内血流は血管が細くなっており、脳梗塞を発症し易くなっているのだそうです。その理由というのが鼾による低周波が影響を及ぼしているのだと聞きました。

 それで思い出すのがあの画期的な痩せる機械「アブトロニック」です。何でも、低周波治療器を腹(abdomen)に巻いて、腹筋に刺激を与えることでエネルギーを消費しようという、楽をして痩せたい人の為の卑怯かつ魅惑的な商品は大ヒットを記録して、改良型や、モドキ商品が群立しながら、今も信奉者に根強い人気を誇っているようです。

 知人の一人に、女性にもてたい一心で皆を出し抜いて誰よりも真っ先に例の商品を手にいれ、日がな一日腹部に装着していた、ネガティブなのかポジティブなのか分からない輩がおりました。僕が、「そいつは効果が有るのか?」と聞いたら、「よく分からん」と答えるので、あんな物に騙されてアホな奴、と思いつつも内心で指を銜えて、それでも皆に追随するのも男らしくいない、と不毛なプライドが頭をもたげますので結局は買いませんでした。

 嘘です、買いました。それも肩こりの治療目的という自分を偽った浅ましい理由付けをして嬉々として購入したのです。もちろん有名メーカーomron社製の低周波治療器ですから効果抜群のはずでした。が、父譲りのこらえ性のなさをひけらかすほどの僕ですから、腹に巻くのも長くは続きませんでした。早い話が三日坊主で終わッたのです。今思えば、omronさんに恨みは無いのですが、あの低周波がいけなかったのではないかと邪推しております

 あぁ!またも禁断の言い訳してしまいました。ご指摘の通り疑いようの無い単なるアル中です、ハイ。

 

2004年2月24日(火) フランス組曲
 遍路を終えて帰阪した昨年の11月は、鬱状態になって日記を書く気分ではなかったので、お茶を濁すために日記ページにMIDIデータをいっぱい貼り付けたもんだから開くのに時間がかかって不評だった。 いくら自分の好きな名曲とはいえ、興味の無い人にとってはありがた迷惑で、「義理でお前の日記を読んでやっているのだからもう少し軽くしろ」と、苦情を頂いていたのでMIDIデータを別のページに置いてみた。

 あのMIDI曲の多くは自分で演奏したことのあるもので、ピアノやバイオリンの発表会で大恥をかいた、思い出深くはあるが、もう二度とは人前で弾くまいと誓っている曲群なのだ。中でもバッハのフランス組曲2番を弾いたのは身の程知らずで、一箇所つまづいただけで最後までよろけっぱなしだった。 

 フランス組曲を初めて聴いたのは、グスタフ・レオンハルトのチェンバロでだが、印象としてはMIDIによく似た感じで、相当テンポが速く、特にいい曲とも思えなかったのだが、今は亡きカナダの変人ピアニストのグレン・グールドを聴いて目から鱗が落ちた。

 グールドさんの変人ぶりというのは実に徹底していて、ピアニストの中村紘子さんが初対面のときに握手をしようと手を出すと、「病気がうつるといけないので握手はしません」と、黴菌扱いされたとか、いつも手袋をしてコートを着ていたりしたらしい。そしてとうとうある日を境に、「コンサートは、まやかしだ」と、レコード録音のための演奏に徹してしまったという。ところがレコードを発売してみると、ギ〜ギ〜というノイズが入っているとか、人のうなり声が聞こえるといった苦情が殺到したのだった。ノイズの原因は子供の頃から愛用しているくたびれた椅子がグールドの体重に悲鳴を上げているもので、うなり声というのは彼の、本来有る筈の無い歌声だった。

 僕はそういった苦情の出たという彼のCDの何枚かの内の一枚に収録されていたフランス組曲2番を聴いて、チェンバロで聴いたのとは全く違う曲に思えるほどゆっくりしたテンポで弾かれるピアノの響きに、「祈りとはこういうイメージだ」と、すっかり魅了されてしまい、苦労して練習した末に発表会で弾いたら惨憺たる結果に。暫くは打ちひしがれて立ち直れなかった。今日、MIDIを整理しながら久しぶりに弾こうとしたが、もはや1小節たりとも弾けなくなっていた。くぅ、、少年老い易く学成り難しかぁ〜!

 

2004年2月23日(月) ウ・タントとかデタントとか
 ロシア正教の大司教が誕生日を迎えたのを祝福するためにプーチン大統領が駆けつけた、というニュースを見るにつけ、ロシア社会のドラスティックな変化に驚嘆の声を上げたくなってしまう。怪僧ラスプーチンに牛耳られていた皇帝ニコライ二世や、オウム真理教のロシアへの浸透振りを例に挙げるまでもなく、本来宗教好きなロシア人が、永く共産党支配の時代に禁じられていた宗教意識に渇望していたとはいえこの歓迎のありようはどうだろう。

 人類初の有人宇宙飛行を成功させたガガーリン氏が、「地球は青かった」と語ったのは有名だが、アメリカ人に衝撃を与えたのは、「私は宇宙で廻りを見回した、が、神はいなかった、何処にもいなかった」という言葉だった。これでプライドを甚く傷つけられたアメリカ人が忘我の境地で総力を上げて宙開発競争に乗り出したのは周知の事実で、いわば宇宙開発は代理宗教戦争だったのだろう。

 思い起こせば僕が物心ついたときのソビエト連邦はブレジネフ書記長を戴いていて、米ソ冷戦の構図を引きずったままデタントの時代を迎えていた。その頃に、ある学者がテレビのコラムで、「ソ連の指導者、つるもじゃ理論」を、展開していた。つまり、レーニンに始まるソ連の指導者の系譜は、つるつる頭の指導者の次の指導者はもじゃもじゃ頭、その次はつるつる頭というパターンの繰り返しで、男らしい指導者が選ばれるという。もじゃもじゃ頭が男らしさを表すなら、つるつる頭もまた男らしいという訳だ。まだ若いプーチン大統領だけ中途半端だが、そのうちこの公式に当てはまるのも時間の問題だろう。

 僅か数年前には極東の軍事基地で電力が不足しているとか、原潜の解体資金が無いとか、宇宙基地存続が危ぶまれたりしたロシアだったのに、今じゃ新型ステルス戦闘機を開発したとか弾道ミサイル発射実験したというニュースを聞く限り、ロシア経済は絶好調のようだ。それは良う御座いましたね、そんなに儲かっているんなら、そろそろ北方領土を返してくれたらどやねん、と思っているのは僕だけだろうか。


2004年2月22日(日) 運が向いてこない
 二回目の春一番が襲って来た。雨を伴っている分前回より強烈かもしれない。何年前だったか東大寺のお水取りも終わって、気が緩んだ頃にやって来た春一番は大雪を連れてきて、奈良県と三重県を結ぶ西名阪道が通行止めになった。僕はその翌日にゴルフに出かけて悲惨な目に遭ったが、そんなことが2年続いた。

 僕はどうも運に見放された人間では無いかとつくづく思うようになったのは、実を言うと最近のことではない。子供の頃からくじ運に見放され、大人になってからも博才の無いことに気付くまでに相当散財したし、職に就くと決まって斜陽産業だったり、歴史と伝統ばかりこだわって時代に後れていく老舗だったりと、ついてないこと夥しい。当然ながら女性運にも恵まれないのだが、それは自分の容姿、性格にも大いに問題がありそうなので言及するに忍びない。

 生前の父に博才が有ったかどうかは知らないが、花札やチンチロリンとかには執心していたらしいし、宝くじもせっせと買っていたようだったが終ぞ当たったためしが無かった。父が亡くなって、残されていた宝くじを発見して期限ぎりぎりで調べてもらったら、百円が数枚当たっていただけだった。何処まで逝っても父はついていなかったようだ。だから僕に運の無いのは父の血が流れているからに違いないと思う。
 
 宝くじで200円以上の当りに恵まれなかった父をせせら笑っていた母から電話があって、「商工会の抽選会で特等賞と2等が当たった」とのことだった。田舎の抽選会のことだから大した金額ではないが、その昔、中学生だった兄が当たったのは一万円で、当時としては大金だった。しかし、ついてないことでは僕に勝るとも劣らない兄なので、喜んでいたのもつかの間。その夜、林檎の皮を剥いていて手に大怪我を負ってしまった。痛い思いをしたばかりでなく、賞金は全て治療費に消えてしまったのだった。どうも我が家の男は貧乏神には憑かれているようだ。


2004年2月21日(土) 北朝鮮の本場の冷麺は美味いらしい
 「ザリガニは美味かったぁ?」と、調子こいて、鳥羽から帰阪した友に伊勢海老料理を食べたかと訊ねたら、「そりゃー美味かったよ」という答えが返って来て、「糞ーッうらやましい」と思ったが伊勢うどんは食べてないらしかった。

 僕にとって三重県の食べ物といえば、松坂牛でもなければ、伊勢海老でもなく、「伊勢うどん」なのだが、これには賛否両論、毀誉褒貶があるようだ。反「伊勢うどん」勢力の多くの方が、名古屋の「味噌煮込みうどん」に対していだいているのと同じく、「讃岐うどん」と比較した皮相的で頭ごなしな嫌悪のイメージしか持ち合わせていないことは明らかだ。

 讃岐うどん擁護派の多くが、「味噌煮込みうどんみたいな、腰でなく芯のあるものを食う奴の気が知れん。伊勢うどんに至っては腰の全く無いふやけた麺は人間の食うもんではない」などと宣言する有様。こうなっては食わず嫌いどころかもはや嫌韓反日の様相を呈している。

 そういえば先ごろ韓国で日本の音楽や映画が全面的に解禁になったと聞く。儒教思想が色濃く残る韓国のお年寄りに、日本の映画がどう映るのだろう。恐らく不道徳の謗りは免れないだろうが、韓国政府が日本文化の全面的解禁に踏み切った理由は、韓国文化が日本文化に侵食されることは無いという自信があるからだろう。昨今の韓国テレビドラマの日本での隆盛がそれを証明している。それと同じで「伊勢うどん」も「味噌煮込みうどん」も真正面から真摯に味わってみたら美味いんですよ。


2004年2月20日(金) 武蔵は格闘家からタレントか
 平日の夜9時という時間を僕は長い間、映画かニュースの時間帯だとばかり思っていたのに最近は少し様子が違ってきているようです。ニュースは各局とも10時にシフトしているようですし、ほとんど観ないのですが、ドラマも遅い時間帯にずれ込んでいる様に思えます。子供の頃の「ゲバゲバ90分」というバラエティ番組を、毎回最後まで観る事が出来なかったという早寝を得意としていた僕ですから、当然のことながら紅白歌合戦を最後まで観終えた記憶がありません。大人になってからは酒を飲んだくれていますので、只の一度も除夜の鐘を聞いたことが無いという罰当たり者なのです。

 TVステーションという雑誌を買ってチェックしてみましたら、一週間のうち、夜9時に料理番組の無い日のほうが少ないように思えます。そんなわけで飲み屋で同じ話を何度もリプレイする酔っ払いどもをやり過ごす時には、料理番組を観ている振りをします。当日も周りが騒がしくなってきたので料理番組にチャンネルを合わせますと、タレントや、美人で有名な作家などに混じって、どう見ても、百歩譲ってもハンサムというには程遠い、だからといって面白いことも言わない野獣のような男性が出演していました。

 もう十年近く前になるでしょうか。いつもの飲み屋で大柄でハンサムな、やたらとスポーツ情報に詳しい50余りの紳士が、「いやー!うちの息子がK-1のアンディ・フグと戦ったことだけでも褒めてやりたい」と言っていたのを思い出しました。その方とは今でもたまに会うのですが、そのときに初めて息子さんの名が「武蔵」という格闘家なのだと知りました。

 料理番組に出演しているのはその「武蔵」ではありませんか。確か弟さんも格闘家でお兄さんよりもまだ背が高く、ハンサムでしたが、骨格が細く、K-1に出たという話も聞きませんが、お父さんはあちらこちらの飲み屋を廻っては兄弟でファイティングポーズをとっているポスターを貼っておられたようです。

 ボブサップ軍団と曙軍団の対決の構図がすっかり定着してしまった感のあるK-1に武蔵の名を最近見かけないので、ひょっとしたらタレントに転進したんでしょうか。お父さんに武蔵の近況を訊ねたら「いやー、聞かんといて」とおっしゃっていたのであるいはと思ったのですが、もしそうなら「K-1発展に貢献、ご苦労様でしたと言ってあげたいと思います。

 

2004年2月19日(木) 冷える星座
 暖かい一日だったが、飲み屋が暖簾を下ろす時間には少し冷えてきた。関西人には、暖かいからと言っても東大寺、二月堂のお水取りが終わるまでは安心出来ない思いがある。 車の往来も途切れ、シンと冷える夜空は少し地上の明かりも落ちて冬の星座が良く見えるようになっていた。
 
 住宅街の泉北ニュータウンではあるけれど、ここ数年のうちに開発が進んで、郊外型の商店が増えて夜を徹して営業されているものだから、僕が移り住んできた頃のように澄み切った夜空に煌々とした星座を認めることは今は出来なくなった。どの道オリオン座しか知らない僕なのだがやはり寂しくはある。

 実の母親とも諍いが絶えなかった父は、僕が生まれた頃には既に実家を飛び出し、近所に家を借りて別居していたようだ。父は年中船に乗っていたから、僕は父親がいることを、5、6歳の頃まで知らずに育った。

 当時の小さな町の経済の中心は海運業、みかん栽培、そして塩田を利用した製塩業だったから、母も今で言うパートのように塩田の仕事に従事していたらしい。どんな字を書いたのか知らないがゴーセンと呼んでいた塩田は、製塩の過程の副産物として大量に湯が出るので、風呂を一般に開放していたらしい。男女混浴のその風呂は、僕が父の存在を知る前に閉鎖されてしまい暫くは近所にもらい湯をしていたことは覚えている。

 星明かりで歩けるような冷たいある夜のこと。今思えばほんの300m程しか離れていない距離の、もらい湯から帰る道を随分遠いように感じながら、湯冷めをしないように、ねんねこにくるまれて母の背から冬の星座を見上げていた僕は不意に寂寥感に襲われた。母の温もりをもっと感じたくなって、首に回した手に力を込めたら、「ああ苦しい、母ちゃんが死んでもええんか」と、言われて慌てて手を緩めた。何気ない母の言葉だったが、僕には重い響きを持って聞こえ、母が死んでいいはずも無いのにどうしてそんなことを聞くのだろうと不思議に思いながら、試されたように感じて僕は母の背を濡らした。漠然と死というものを初めて実感したのはあの瞬間だったように思う。

 

2004年2月18日水) 秘宝館
 場末のサロンで将棋に負けた大虎がまたもや暴れ始めたので、とばっちりを食う前に近所の寿司屋へ友と二人で逃げ込んだ。酒を飲まない、生真面目な大将の握る寿司が酒に合うかどうかは別にして、僕は寿司で酒を飲むのはあんまり好きでもないのだが、彼が奢ってくれるらしいから快諾した。
 
 「明日は鳥羽に一泊やで覚えとるか」と言われて、初めて思い出した。一週間ほど前にそんな話が持ち上がっていたように思うが、彼も僕には期待はしていなかったらしく「五人くらいのグループで行って来るよ」と言い、「断食は一人で行って調査をしてくれ。それから考える」とのことだった。

 鳥羽で思い出すのはバブルの頃に建立されたらしい「秘宝館」のことだが、入った人の話によると「実に下らん」ということだったから、バブルがはじけた後も暫く営業が続けられていたことが、むしろ奇跡的なことだったと思う。数年前までは、のどかな田園風景に「秘宝館」の巨大で下品な看板を至る所で見かけたものだったが、今はどうなっただろう。地元の方は苦々しい思いであの看板を眺めていたことだろうから、きっと閉館するや否や撤去されたに違いない。

 鳥羽に行って伊勢海老を食べて来るらしいが、あれって美味いんだろうか。あんまり美味いとも思えんが豪華でありがたい気はする。で、思い出したが、ザリガニを日本で食えるところがあるかどうかは知らないが、ある奥さんが美味いと言うので、何処で食べたのかと訊いたら、ある日友達が家に訪ねてきたのに何も食べるものがなく、友達と頭をひねって出た答えが、「息子が捕まえてきたアメリカザリガニを天麩羅にしよう」だったという。

 天麩羅は殊のほか上手に出来上がって、大変美味しかったらしいのだが、やがて息子が学校から帰って来ると、「ザリガニがどっかへ行ったみたい、お母さん知らない」と、訊くので、「さあ逃げ出したんと違う?」と、うそぶいたらしいが、ゴミ箱に捨ててあった殻を発見されて、「お母さん、僕のザリガニを食べたろう」と詰め寄られ、泣かれてしまったと言う。

 なんとも卒倒しそうな話だが、この手のトラウマを持っている人は多いらしく、可愛がって飼っていた鶏を親父に、目の前で潰されて以来鳥が食えないという知り合いがいたりする。豚を子供たちの前で屠殺して、人は動物の命を奪わなければ生きていけないのだと言って、ソーセージの作り方を教えるドイツの農家の人が聞いたら笑われるかも知れないが、魚をさばくことも出来なくなった現代の日本人には少々厳しい話だ。しかし反面、ゲームの影響かどうか分からないが、人を平気で殺せる連中が増えているらしい。そういう方は是非どこかの国の外人部隊にでも入隊してイラクに行ってテロと戦った下さい。お願いします。

 

2004年2月17日(火) 女の子に売りつけられる
 3000円という、今の僕には大金を握り締め、いつもの溜まり場に出かけるために駅前を歩いていると、今日も平美樹さん支援グループの方がたが熱心に募金を呼びかけている。日曜日には何かの選挙だと思って募金をしなかったので心憂く覚えていたところだったから丁度良かった。握り締めた3000円から1000円だけを募金箱に投じた。

 20才台の初めの頃のこと、友人と梅田の盛り場で飲んで、もう一軒行こうかと歩いているところへ不意に女の子が近づいてきて、僕のネクタイに、手の平に納まるほどの小さなコアラの人形を、クリップで挟むかのようにくっ付けた。逆ナンされるのかと期待した僕はニコニコしながら驚いたふりをして見せたが、「○○国の飢餓に苦しむ子供たちへ食料を送りたいので人形を買って下さい」という募金活動だったので少々がっかりした。でもその女の子がとても愛らしかったので、二体で5000円のコアラとアライグマの人形を慈善行為として買った。

 僕がついて来ないので引き返してきた友人に、募金のために人形を買った旨を告げると、「お前アホか、あれは統一教会の連中やないか、何が募金じゃあ」と、女の子に詰め寄って金を返せと、激しくまくし立て始めた。吝嗇、強欲、我侭をもって自認する友人は、この手の慈善行為や寄付のお願いといったものに、過敏に反応してしまう癖がある。好奇の眼差しを受け始めたので、「もぅええ、もぅええから次行こう」と、怒りが冷めやらない友人の手を無理やり引っ張ってその場を去った。

 酒から醒めだしてからよくよく考えてみたら、友人の言う通りだったかも知れなかった。帰りの電車の中で僕はチクチク後悔し始めていた。そのまま親戚のうちに行き、子供たちに僕が買わされた人形を、生きているハムスターを装ってくっ付けてやった。一刻も早く騙された苦渋をそそぎたかったのだ。が、子供たちにはこれが意外にも受けて、僕の傷心は思いがけず癒された。

 その数年後、すっかり過去の忌まわしい、募金もどきに騙された記憶が僻地に追いやられてしまった頃、やはり梅田の盛り場を歩いていると、手にチョコレートを持った女の子が近づいて話しかけてくる。僕の脳裏にあの記憶が蘇って来て、チョコレートを法外な金額で買わされるか、と身構えたのだが、スキルアップとか、生活の充実とか、海外旅行といった語彙からすると、どうやら英語会話教材を売りつけたいらしいと分かった。適当にあしらって、「それはそうと、そのチョコレートは何?」と、聞くと、「さっき声を掛けたおじさんが、君は可愛いねと言って、パチンコの景品をくれました」とのことだった。

 英語会話の教材というのは、1、2万円の額ではない。安くても10万円からなのだ。僕を一回りトロ〜くしたような兄はこの英会話教材を使って勉強していたが、スキルがアップしたとは聞かないから、やはり騙されていたのだろう。長年かかって30万円のローンはちゃんと完済したようだ。

 3000円のうち、残った2000円を握り締めて場末のサロンに行こうとしたが、2000円では満足に飲めそうも無いので、スーパーに入って惣菜を買い、家で独りで飲むことにした。僕が思うに、日本人の国民性は、アメリカあたりの富豪が巨額な寄付をするのに反し、貧乏人のほうが募金だのなんだのと気に掛ける傾向があるように思う。それとも貧乏人が散財するシステムが確立しているのだろうか。だとしたらこれは政府官僚の謀略だ。きっとそうだ


2004年2月16日(月) 男子十二欲棒
 延べ500時間にも及ぶ惰眠を貪り続け、店内にサルマタケが生え始めた頃にようやく、「マスターが目を覚ました」と、馴染みの飲み所の常連客から連絡を頂き、馳せ参じてみると満員御礼の垂れ幕が下がっている盛況ぶり。定員10名のところに僕が座る椅子は無く、客の隙間に体を斜めに、すり込む様に立ってビールを飲みながら数えてみると僕を含めて12人いる。

 少し遅い時間ということもあり、懐かしい顔ぶれの、もう既に上気して一様に濁った眼の間を縫うように移動しながら飲んでいたその時のことだった。今、正に最後の教えとなるそのとき、イエスの口から「汝ら皆、我に躓かん」と、いう恐ろしい呪いのような言葉が吐かれようとも知らない、晩餐を前にした十二使徒の如くさんざめいているような酔客の只中に、突如、新聞代集金の艶めいたおばちゃんが入ってきたものだから一同は気色ばんだ。

 「まーええがな、一杯呑んで行きやぁー、遠慮せんときぃーな」と、口々に脂ぎって下品な言葉を吐きながら、無理やりおばちゃんの手に握らせたグラスにビールが注がれている。恐れおののいたおばちゃんがマスターに、早く支払うようにと促しつつ魔の手を逃れようと必死になっているのを見て、「僕はいったい何の罰ゲームでこんな下卑た輩を相手に飲んでいるのだろう」と、情けない思いに囚われる。しかしだからと言って、積極的にこの大虎どもを退治しようとはしない、大虎の亜種である自分を発見して、言い様の無い自己嫌悪に陥る僕がいた。

 「毎度でぇーっす」。救いの手は唐突に差し伸べられた。いつもの行商のパン屋のお兄ちゃんがコンテナを両手に抱えてパンを売りにやってきたのだ。この兄ちゃん、なかなかの商売人で受け答えが楽しい。おばちゃんから一瞬注意が逸れたチャンスを彼女は逃さなかった。領収書をマスターに渡すと、パン屋の兄ちゃんが開けっ放した引き戸からするりと逃げ出すことに成功したのだった。

 ストレイシープ、ストレイシープ、古羊よ、迷える古羊よ。汝が猛る男子十二欲棒どもから逃れられたるは主の思し召しぞ、主は自らを救う者を救いたもう。  アーメン!

 

2004年2月15日(日) 同性婚だぁ?
 米国、サンフランシスコ市長が同性婚を認める条例にサインした。というニュースを聞いて、ああ、あの市ならそんなことも大有りだろうと思った方も多いと思う。

 十数年前にかの地を旅したときに、なんという名の街だったか忘れたが、ゲイの街として知られたストリートを歩いたときはおっかなびっくりだったが、実際は特に変わったような所も無くて、友達と二人で少々拍子抜けしたものだった。それでも年に一度ゲイプライドパレードが催されているのを見ると、やはり同性愛者の多さは抜きん出ていると気付かされる。

 そもそもサンフランシスコという土地は、ゴールデン・ゲイト・ブリッジという、朱に塗られた橋の名があらわしているように、当地がゴールドラッシュに沸く頃、英国あたりからから一発当てようと目論む山師達が大挙して移住し、築き上げた街だった。その山師達を追いかけるようにしてやって来たのは、金の採掘で一儲けした山師達目当ての娼婦達だったという。だから生粋のサンフランシスコっ子というのは、こういった山師と娼婦の末裔なのだと彼ら自身が認めている。そういった歴史があるのだから性について大らかな気質を持っているのも頷ける。

 いいか悪いかは別として、米国という国は禁酒法を成立させたり、ダーウィンの進化論を教育の場から締め出す法案を成立させるような宗教的に保守的なお国柄でありながら、経済的、社会的には常に進取の気性に富んでいる国民性でもある。その端的な例が、同性婚であったり、遺伝子組み換え食料の生産であったり、移植医療であったりする。世界に先駆けて突っ走って呉れるのもいいが、他所の国に攻め込むのだけは止めてほしいものだ。

   

2004年2月14日(土) バレンタインデー
 チョコレートに縁の無い僕は、この日の日記を書きたくないので、雑記帳のほうに書いた。とはいえ、遅れて書いているので、きょうは16日。

 15日の昼過ぎに泉が丘の駅前を歩いていると、幟を立てて、通路の両側に人が立ってチラシを手渡している。何かの選挙でも近いのだろうかと思いつつ、通り過ぎようとしたところで、「読んで下さい」と、チラシを手渡された。

 飲み屋のマスターが臨時に店を開けるというので呼ばれて行き、コートを脱ぐために携帯を取り出そうとして、チラシをポケットにねじ込んでいたのを思い出した。

 急性骨髄性白血病の治療する過程で使用する、抗がん剤の副作用で心筋症に罹患。助かる道は心臓移植のみ。と診断された、平美樹さんを支援する案内だった。目標金額、9000万円。現時点で2000万円余りが集まっているらしい。

 一昨年だったか、やはり堺市に住む幼い男の子がアメリカで心臓移植をするために義援金を募ったときは僕も協力に応じ、手術が成功して帰国したときは、少しばかりの自己満足的、達成感のようなものがあった。

 イラクでは昨日も今日もまた自爆テロで数十人が死亡。アメリカ軍の誤射で多数の民間人死傷。

 一方で神を賛美しながらズボンのベルトに仕込まれた爆弾のスイッチを押す狂気があり、罪のない幼子が自爆テロに巻き込まれる理不尽があり、治安維持とい名の下でのアメリカ軍による民間人殺害がまかり通る現実があるかと思えば、一方で、酔ってホームから転落した人を助けるために命を捧げる人があり、今回のように一人の手術のために大金が集まる善意がある。どちらも地球上の、人類という同じ種の所業なのだ。

 何かと宣う御仁もおられるが、平さん自身のホームページと彼女を救う会にリンクした。彼女と彼女を支援するすべての方に幸いあれ。

 

2004年2月13日(金) 四文字熟女
 還付申告に行きましたら親切に応対していただいたのですが、大事な書類を忘れて、来週に仕切り直すという愚行をやらかしてしまい、すっかり凹んでしまいました。こうなったら何らかの代償を求めないで帰途につく訳にはまいりません。そこで、一昨年開店した、泉が丘駅近くにある「ラーメン劇場に行ってみることにしました。

 一昨年にここがオープンしたときはそりゃぁ大変な騒ぎでした。どの店も長蛇の列が出来ていると聞いて、「ラーメン一杯ごときで行列をやってられるか」という、こらえ性の無い僕ですから、ほとぼりが冷めたと思われる半年後、平日のお昼を過ぎた時間に行って見ましたところ、未だかつて見たことも無い光景が展開されておりました。仕方ないので最も行列が短い店に入りました。そこで頂いたのは、こってりとしたスープ、大きいチャーシューが自慢の醤油ラーメンでした。決して不味くはありませんでしたが、行列の短さが物語る程度の味でした。

 今日行って見ましたところ、行列どころか、どの店も一様に閑古鳥が鳴いている有様。すっかり飽きられてしまったのでしょうか。一回りして、牛骨スープと書いてある店に入りました。そうです、狂牛病の最も危険な部位である脊髄を煮出してスープにしているのです。このタイプで最も有名な関西の店は神座(かむくら)でしょう。あのラーメンもとても美味しくて、値段もリーズナブルなので、おろしニンニクを入れて頂くのが好きです。

 僕の主食だった牛丼が消えてしまった今となっては寂しい限りですので、牛骨ラーメンに活路を見出すことしか頭が廻りませんでした。当のラーメンは思っていたほど牛骨味ではなく、とても美味しいもので、しかも600円ならまた食べてもいいと思いました。

 どうもやはり頭の中に何かが蠢いているようでいけません。牛骨と何か関係があるのでしょうか。本日も迷惑メールを装った匿名の激励メールを頂きました。曰く、「熟女降臨、容姿端麗、不倫願望、完全勃起……」と、いった熟語の羅列です。只でさえ不整脈に苦しんでいるところにもってきてこれですから堪りません。ペースメーカー埋め込みの手術を一旦は覚悟したしだいです。お礼を差し上げたいのですが、返信不能のショートメールで携帯に頂いております。この次から主語、述語、動詞、助動詞、形容詞、形容動詞を入れていただければ嬉しいです。

 

2004年2月12日(木) エントロピーは増大する
 テトロドトキシン、エンテロトキシン、ジギトキシン、アフラトキシン……
思いつく限りの生物由来の毒名がDNAの二重螺旋のように複雑に絡み合いながら、僕の頭の中を回遊して脳味噌をつまみ食いしている。心停止の危機を脱したとは言え、今もって体調は優れない。

 「俺ねえ、絶対どっかで一服盛られとる思うわ、フグの毒は煮ても焼いても消えんからなあ」と、言うのは馴染みの飲み屋のマスターが店を休んだときの言い訳だ。被害妄想癖があり、フグ調理の免許を持っている彼が日曜日の競馬で勝ったりすると、たいていフグで祝杯を挙げているらしいから、彼の生き様を垣間見てやっかむ連中に、何処かで一服盛られていたとしても決して不思議ではないから、「そうか、だから先々週の月曜日からずっと休みなのか」。などと調子を合わせてはいるが、阿保らしいので実のところ僕も真剣には聞いていなかった。

 「カベルネ・ソーヴィニョンを飲んでタンニン中毒になって無限地獄に逝ってください」と、署名入りの激励メールを頂きました。分かりました、実践致しますのでカベルネ送ってください。でもその前に無限地獄って無間地獄のことですよね。

 どうも先日の日記を読んだ模倣犯のようですが、意味不明な面白さがあってお気に、です。もうポリフェノール中毒でも、タンニン中毒でも、クロレラ中毒でも、はたまた香醋中毒でも何でも来いです。

 「マスターのこと笑ってすんません。今は僕がこのザマです。2人で一緒に断食に行きましょう。そうすばマスターの鬱病も肝硬変も妄想癖も引き篭もりも治るでしょう。おなじ店閉めるんなら断食でもしたほうがマシぢゃ無いですか」と、そそのかしたのだが、「いやいや、明日から店開けるから、開ける積もりやねん、たぶん開けると思う」と、言って2日が経過している。箸にも棒にもかかりそうにないので独りで行くしかない。

 熱力学的意味のエントロピーではなく、社会学的な意味のエントロピー。つまり物質は不滅であるが、乱雑さは常に増大しているという意味に於いて、人は成人に達してからというもの常にエントロピーが増大し続けているのは疑うべくも無い。僕の肉体はアルコールに蝕まれ、精神はやがてトキシンに食い尽くされることだろう。それはあたかも熟した林檎が、自ら発するエチレンガスに拠って自らを崩壊させるプロセスに酷似している。もう二度と元に戻ることは出来ないのだ。

 

2004年2月11日(水)  体調不良
 「不整脈があるねん、トン、トン、トンと打って、トンやねん」と、TELさんが不調を訴えたのに、「トントントーンですか、♪トントントーン、与作ぅ〜はぁ〜木を切るぅ〜」と、混ぜ返したら、冗談やないー!と激昂されてしまったが、不整脈は僕のほうが恐らく深刻かもしれない。

 TELさんの場合は手首の脈がおかしいと感じるそうなのだが、僕の場合は心臓の鼓動そのものが激しく感じられるのだ。酷い時は心臓の鼓動で肺が圧迫されて咳き込んだりする。今まで、朝方は少しマシだったのだが、もう今となっては一日中ドキドキしている。最も激しいのは夕方で、治まるのは酒を飲み始めたときなのだから、この症状がアルコールと因果関係があるのはほぼ間違いないと思っている。

 もはや一刻の猶予も無いのは確かだが、病院で受診しようものなら、即座にアル中病棟に放り込まれるだろう。事態が深刻であることは承知しているのだが、気持ちのどこかに「朝から飲むんじゃないから」と、いった根拠の無い理由付けをして、本物のアル中とは一線を画したい自分がいることも認めざるを得ない。

 明日は、還付申告その他の手続きやらなんやらがあるが、そのまま断食静養院に入所手続きをする。勿論TELさんも巻き込んで彼にもお試しコースを体験してもらう積もりだ。「断食に金を使うなんて間違っている」と、いうのが彼の主張だが、アルコールを断って、もう少し痩せないと金を使うチャンスが無くなるよ。

 

2004年2月10日(火) it's  GOFFIGHTS
 十年前に良く通ったウィンドサーフィンの店の名前がit'sだったが、最近の僕には、もっぱら焼酎の店it'sのほうになった。マスターはteruさん。焼酎の勉強に余念がなく、近々、沖縄か石垣島あたりの蔵元に出かけて、幻の焼酎を入手する算段をしているのだとか。そのit'sからTELさんがメールをしてきた。HARUさんとTELとteruさんが待ってるからすぐに来られたし。と、意味不明なり。

 店に着いたらTELさんがteruさんと一緒に待っていてくれたのだが、HARUさんというのは一体誰のことかと思っていると、名刺をくれた。SNACK&LOUNGE 「暖」とある。暖と書いて、「はる」と読ませる店の女の子らしい。なるほどそう言うからくりか。例によって焼酎の試飲をさせていただいたり、お客さんの酒を頂いたりしているところへ、ギターを抱えた青年が入ってきた。

 流しの歌手とは珍しい、と思っていたら違った。「ロックグループGOFFIGHTSのボーカルをやっています」という彼には、先日ちらと会っている。常連客さんの友達らしい。即興で一曲、自作のを一曲。元ストリートです、と言う彼の、よく通る迫力のある歌声はなかなか素敵だった。貸しホールハッピーエンドで歌ってみたらどうか、とTELさんがそそのかしておったが実現したら是非聴きにいく。

 美味い酒と、歌にすっかりほろ酔いになって、そろそろ帰ろうかと思っているところへLOUNGEの勤めを終えた若く美しい女の子が3人やってきて、ボーカリストを取り囲んだ。僕とTELさんは顔を見合わせて、「羨ましー、ボーカルやっときゃ良かったー」。僕の甥にもロックグループのベーシストがいるが、モテルという話はさっぱり聞かないから、やはり彼がかっこいいんだろうな。

 

2004年2月9日(月) ナブリモノ
 美少女戦士水夫月が、1990の初めの時にテレビ・アニメーションになったということであるように、それは、10年特にしばらくの間今後関係しているその正面に見えます。
恐らく、彼はそれが持つどの翻訳によって水夫月Sのピアノ・スコアを記憶しませんでしたが、私がピアノを学習し始めた時、それが流行していたので、彼は何でも弾くように来たかった。また、それは購入しました。

ピアノで「月光伝統」を弾いたメモリは今1を持ちませんが、それはフルートの準備をし、会社の女性事務員の送別会の娯楽として行ないました。
過去のアニメーションであるので、それが彼女のための確実にノスタルジアの音楽だったということは、考察でしたが、以外は、強度がないと伝えられる、ない、多く。
それはその時に変更の早さに驚きましたが、私はしばらくの間失望しました。

テレビおよび先日水夫月のコスチューム・プレーを上に行うことを見ているべきかどうか思うとともに、それはこのアニメーションの現場の写真バージョンでした。
呼吸は不意に長かったが、それはそれはプログラムであると思ったことで屈辱を感じました、直ちに終了しました。
けど――ちょうどしばらく――それは待つことができます――どれ――渡されませんでしたが、それは美少女です―どの中で、ぁ?
イメージはアニメーションを壊しました--それは返ることができます(古いの(時間)は簡単です--戻ります。)。

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HALやつ、遂にアル中ハイマーと、症状が進行したしための、気の毒に。と、ご心配なら、今のうちは無用をお勧めします。infoseek翻訳サービスは、提供します。またあるいは、翻訳ソフト使用の結果であることを、明確にしました。以下に原文。

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 美少女戦士セーラームーンがテレビアニメになったのは1990年の初めの頃のようで、今から凡そ10年と少し前のことになるようだ。どういう訳でセーラームーンSのピアノ楽譜を持っているのか覚えていないが、恐らく僕がピアノを習い始めた頃に流行っていたので、何でも弾いてみたくなって購入したのだろう。

 ピアノで「ムーンライト伝説」を弾いたような記憶が今一無いのだが、フルート用に編曲して、会社の女子事務員さんの送別会の余興で演奏したことがある。彼女たちにとって、懐かしい曲に違いないという配慮だったのだが、以外にも過去のアニメなので、余り思い入れは無いと言われ、時の変化の早さに驚くと同時に、僕は少し落胆した。

 先日、テレビを見ていて、セーラームーンのコスプレをやっているのかなあと思っていたら、当のアニメの実写版だった。すぐに終了する番組だと思っていたのに、意外にも息が長いのには恐れ入った。けど、ちょっと待て、どのへんが美少女なんだぁ?イメージが壊れたー!アニメに戻せー!古きよき時代よ、帰って来いー!
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 ちょっと日記を、もてあそんでみました。infoseekで英語に翻訳してから、別の翻訳ソフトで更に日本語に戻してみた結果です。上手く翻訳できないのは、僕の文章にも問題があるようですが、どうもこの方が面白くない?

 

2004年2月8日(日) 医聖
 痛い、痛い、歯が痛い。いや厳密には歯ではなく、右下の親知らずの歯茎が痛い。左の親知らずは、かつて歯茎を腫らせて堪らず駆け込んだ歯科医院で、「あんた親知らずがあるじゃないか。しかも寝転がって生えとるからこういうことになる」と、腫れが引いてすぐに下を抜かれ、一年後に上も抜かれてしまっているから腫れる事はなくなったが、右は上下揃っているので、たまにこういった悲劇に見舞われる。

 別の歯科医病院にいったら、「どうして抜いたんですか」と聞かれたので、「親知らずを持っているのが、とても罪深いことのように前の医院で言われたもので」と答えたら、「それはあんた騙されとるんです。うちは出来るだけ温存する方針でやっとります」とのことだった。それから一年間を掛けて歯石を取り、ブラッシングをやったので、ここ何年も歯茎が腫れた事なんか無い。

 最近の僕の日記は書くネタに詰まって、いいたい放題、書きたい放題。ネタを選んでいる余裕などまるっきりないから、嘘、大げさ、紛らわしいといったJAROに通報されそうなイカガワシイものになっているので、どなたか善良な読者から、「取りあえず安らかに逝ってください」と、いった旨の、匿名の激励メールを頂くようになった。

はい、がんばって逝ってみます。

 グフゥ、、、。やっぱり痛いぃ。これはひょっとしたら、誰か僕に恨みをいだく者に一服盛られたか。それとも只の飲みすぎか。華岡青洲先生!曼陀羅華の天ぷらで酒飲んだら痛みは和らぎませんか。

  

2004年2月7日(土) 断食の前に手がけることがある
 焼酎の店のマスターは旅が好きらしいと聞いたので、八丈島とか石垣島あたりで、幻の焼酎を仕入れて来てほしくなったので、「二人でそそのかしに行かないか」と、待ち合わせたのだが、開店の前だったので、仕方なく将棋が出来る居酒屋に入ったら、満室状態だった。

 こちらのマスターは将棋よりも囲碁、囲碁よりもゴルフが好きらしく、60数回もコンペが続けられているのだそうだ。ちょっと話を向けたら随分沢山の話が返ってきた。隣のお客さんはコンペの事務局長だとかで、お二人からコンペのオファーを頂いた。ほぼ月一で催しているコンペは月曜日に行われるので、費用も安くて済むらしい。のだが、今それど頃じゃ僕は無いはず。いずれ参加させていただくということで、オアイソさせていただいた。他所のマスターをそそのかしに来たのに、危うくミイラ取りがミイラになってしまうという愚行をやらかすところだった。

 目的の店は開店寸前だったが、椅子はまだテーブル上に裏返しにされていた。ドアをこじ開けて無理やり椅子を下ろしてもらい、例の調子で、注文するのは一杯か二杯。後は試飲のために注いでくれる焼酎でほろ酔いになったところで、マスターの写真を取らせていただいた。遍路社会のページにゴルフの写真とともに掲載中。マスターは我々がそそのかさなくても旅に出そうな勢いだったから目的は半ば達成したも同然。そして、実はもう一人、そそのかそうとしている人物がいるのだが、今は言えない。

 

2004年2月6日(金) 騙されたな、どうやら
 つまらん!お前の話は実につまらん!と、大滝秀治さんの憤怒の言葉が僕の頭の中で沸騰しているのは、イラク派兵に関連した質問をしている国会中継の小泉政権の答弁を見たからだ。

 大量破壊兵器が未だに発見できないので、遂に、元々無かった可能性が高いという発言を、ブッシュ政権は必死で否定しているが、どうも相当に旗色が悪そうだ。
 アメリカ政府がイラク戦争の大儀で揺らいでいるというのに、小泉総理の答弁はちっとも変わっとらん。曰く、「大量破壊兵器が無いことをイラク自らが証明しなかったから戦争が始まったのだ」と。しかし開戦前に、フセインはブッシュに対して公開討論会をやろうと提案して、ブッシュはそれを無視したんじゃなかったか? 野党側も質問のしかたをもう少し工夫できんもんかねぇ。地元有権者に自己PRするのための質問じゃ、何時までやっても新しい回答は出てこんだろう。

 それはそれとして、実に面白くないのは、テロリストの攻撃を受けて亡くなったと思っていた日本人外交官は、どうやらアメリカ軍の誤射であった可能性が出てきたということだ。被弾した車をアメリカ軍が日本に送らないのは、証拠の銃弾を抜き取って、代わりにロシア製の銃弾を詰め込んでいるからかもしれないということだ。アメリカ軍の誤射ではないかという疑いを、小泉政権側が全く持たなかったというなら相当間抜けな話で、あり得ないことだろう。

 情報を隠すことは、今の政権では絶対に無いと言い張る防衛庁長官の話も、FAX疑惑を隠したことで、説得力ゼロというありさま。もうこんな政権いらんな。改革もやらんでいいから早く交代してくれんかなぁ。 

 

2004年2月5日(木) 健康商法
やずや、やずや。。やずや、やずや。。やずや、やずや。。やずや、やずや。。。

 僕の頭の中で、あの大滝秀治さんのCMの声がこだましながら堂々巡りしているのには理由がある。遍路道中のお接待で頂いた「やずやの香醋(香る古い酢てか?)カプセル」を飲んでいるからだ。

 あのCMの、中国の縫製工場で大勢の労働者の一人として働く少女の健気な生き様に思いを馳せるとき、日本の、飽食に病んだおっさんが健康を祈願しつつ、油ギッシュな豚の角煮で焼酎を飲みながら、やずやの香醋をいただくと必ずや絶大な効果が期待できるというもの。「何に?」と聞かれたら、「…分からない」のだけど、美容と健康にお役に立つ、様な気がする。

 あのCMから察するに、香醋の工場は恐らく中国の山紫水明の下にあり、黒い甕がずらりと並べられていて、そこで醸されるのだろう、と、そこはかとなく、ぼんやりと、なんとなく思い込んでいたのだが、この度、「やずやの雪待ちにんにく卵黄」が発売されるに至って、雪国の純真無垢な少女の前で、根雪に芽吹くにんにくのCMを見ていると、なんとなく、新潟か、青森あたりに工場があるのだろうと思ってしまったが、本社は福岡市にあるということが、香醋の袋から判明した。

 僕はこの手の、ビタミン剤とか、健康食品とかが大好きだ。実際に自分で買うことはあまり無いが(酒の肴にならないから)、味わってみたい。キューサイの「まず〜い青汁」も飲んでみたい。勤めていた頃に、ある病院の薬局長から半ば押し売りされたのは「うこん」のお茶だったが、病弱な親戚に送ったので結局飲むことは出来なかった。それはそうと、カレーに入っているのが「うこん」と呼ばれずに、ターメリックと呼ばれ、お茶にすると、ターメリックとは呼ばれずに、「うこん」と呼ばれるのは、なんとなく理解できる。

 稼ぎを酒と博打にせっせと注ぎ込んでいた父に代わり、家計の助けのために身を粉にして働いていた母の健康を、本気で心配できるような年齢に僕がなった頃、今で言う催眠商法の先駆けのような連中が、小さな村の集会所へ健康食品を売りにやってきた。

 母が買わされたのは、今ならスポーツ選手やボディビルダーが飲む「大豆プロテイン」みたいなものだったかと思う。騙された悔恨からか、それとも本当に不味かったのか、顔をしかめながら飲んでいた母の姿を思い出す。

 正月に母と話したら、今でも時々だが、羽毛布団を売りに怪しげな連中が来るのだそうで、年寄り連中を集めては法外な値段の布団を買わせるという。しかし、やがて年寄りも学習したらしく、話の初め頃にばら撒かれる粗品が目当てで、集会所には行くのだそうだが、やがて本題の羽毛布団にさしかかった所で、皆一斉に引き上げてしまうという。

 近頃のしたたかな年寄り相手の商売はやり難い。だから、「オレオレ詐欺をやっているのは、催眠商法の布団では食えなくなって転職した連中だ」と、いうのが母の持論らしい。

 いつだったか、NHKの健康番組で、水健康法の権威として医学博士のK先生が出演されていた。医学博士といえば世間の人は、医者の資格があると思うかもしれないが、そうではない。薬剤師だって医学博士の肩書のある方は大勢いらっしゃる。薬学博士を取る方が、はるかに困難であると聞いている。

 齢80を超えるくだんのK先生は、その昔、「K式体操(副題、身長を伸ばす体操)」という御本で一世を風靡された方なのだ。僕はその本を手に、まるで福音書を読むような感涙に咽び、日々忠実にK式体操を実践したのだったが、さっぱり身長が伸びないどころか、ぎっくり腰を患ってしまうという、呪わしい顛末。

 ゴルァー! (ノToT)ノ ┫:・'.::・┻┻:・'.::・ NHK!詐欺師の片棒を担ぐなー!健康商法いい加減にしろー!オレの青春を返せー!

 

2004年2月4日(水) あの日が近い
 おばあちゃんの醸造する焼酎なら、出来上がった時には既に古酒になっていてさぞ美味かろう。というのはもちろん冗談、出来損なった親父ギャグの謗りを免れない。はい、すんません。一回逝ってきます。

 そんなこんなで、近所のスーパーで、「大分麦焼酎、安心院蔵25度」なる焼酎を買い物籠に放り込んで、数時間後に味わえるであろう未知のアルコールとの遭遇に胸を高鳴らせ、舌なめずりをしかねないほどに、緩みきった顔でレジに持って行ったら、「焼酎をお買い上げとは珍しいですね。最近、赤ワインはお止めになったんですか?」と、おばちゃんに咎められた。

 僕の常飲する酒の種類を、このおばちゃんどうして知っているんだぁ?あまつさえ、「ビールはいつものスーパードライじゃ無いんですね」と、来た。もっといけないのは、つり銭をくれるとき両手で僕の手を包み込むようにして渡してくれたことだ。

 これは最早、スーパーという閉鎖された特殊な環境下でのストーカー行為ではなかろうか。それとも、僕の貧しい食生活に対する嫌がらせか、あるいはエンゲル係数100パーセントの僕を貶めるためか。赤面しながらこそこそと袋に詰め込んで、あたふたと店を飛び出した。

 数時間後、キンキンに冷やしてストレートで飲ったが、その味は「いいちこ」と大差が無いもので、僕の落胆振りは推し量れようというもの。まだまだ焼酎はど素人。そうです、おまけに自意識過剰、激しい思い込みはバレンタインデーが近いせいでしょうか。悲しい試練の日に苦悶するのが嫌なので、断食道場へ行ぅ。

   

2004年2月3日(火) 旨いんだろうか、おばあちゃんの焼酎
 行きつけの、マスターがくわえタバコで調理するという、信じがたい"場末の飲み屋"が閉まっているのは、店を終えた後に、お客に連れられスナックに歌いに行ったまでは良いが、そこで客同士が揉め、立ち回りをしでかし、堪らず悪酔いしたからだろう。行く直前までは僕も居合わせたのだが、そのときに、既に不穏な空気が漂っていたので、「これはえらい事になるぞ」と、そそくさと逃げ出しておいて良かった。案の定だ。昨夜の"悪魔"の怪我が雄弁に物語っていた。

 飲みながら将棋を指せる所を探し求めて、友と待ち合わせた居酒屋には、確かに将棋盤が置いたあったが、初めての店で将棋を指したりすると、苦情が出るといけないので暫く様子を見ていた。やがてほろ酔い加減のマスターが我々のテーブルに来て、「なんで将棋指さんの」というので「それならやろう」となった。2局指し終えるまでずっとそばで観戦していたマスターが、「囲碁やりましょう、私弱いですけど囲碁のほうが好きなんです」と、おしゃっるのだが、僕も友も囲碁はたいしたこと無い。ボブ・サップの前にリングに沈んだ"曙"状態にされるのは敵わんので、「この次ということで」と、ほうほうの体で逃げ出し、昨夜の芋焼酎の店に入った。

 「八丈島の麦焼酎が入りましたぁー、珍しいです。昨夜盛り上がった、おばあちゃんが一人で醸造しているのでは無いですが」と、言われ、25度のロックでいただいたら、「今までこんな馥郁とした麦焼酎があるとは思わなかった」と、思わず失禁しそうになるくらい旨かった。あれは何のテレビ番組だったのだろうか、確か八丈島あたりだったと思うんだが、おばあちゃん一人の醸造所へ、旅人がふらっと訪れて飲ませていただいてるのを観た記憶がある。あんな焼酎は手に入らんだろうなぁ〜。

 

2004年2月2日(月) 悲喜こもごもの写真
 四国旅マガジンGajaの可愛いらしい記者に会ったのは根来寺だった。
「2月頃に掲載する予定ですので、本誌を送らせていただきます」とのことだった。すっかり忘れていたところへ、一緒に取材されたTEL氏からメールが来た。あちらこちらの飲み屋や、知り合いに自分が雑誌のモデルになったと吹聴して廻っているというのだ。

 ところで大阪府知事に再選された太田房江女史を、握手して貰ったからといって「房江ちゃん」呼ばわりするんじゃない!ウラヤマシー。それにしてもあんたがそんな嬉しがりとは知らんかったよ。

 さて掲載されたという写真を、送られてきた本を開いてみたが、逆光で、低いアングルから撮られたプリクラみたいな雰囲気に紹介されている僕は、実に不細工。即刻、販売中止の仮訴訟をおこそうかと思ったくらいだ。

 この悲しい現実を目前に突きつけられてはもう飲まずにはおれない。彼と二人で一軒目の飲み屋に行ったら、「悪魔」と、仇名される知人が壊れているではないか。昨夜、別の大虎ともめたらしい。今夜はことのほか荒れているので、さわらぬ悪魔に祟り無し。ビール一杯にて早々に退散して河岸を変えた。

 初めて入ったその炉端焼には芋焼酎の専門店みたいに沢山の銘柄が置いてあって、若いマスターと彼の奥さんかと思った、愛嬌のある彼のお母さんが作った料理で、焼酎の試飲をさせてもらってほろ酔いに。更にそこからショットバーへ。店を出たらフィリピンパブの呼び込みのお兄さんが「社長ー、勝ち組のお兄さ〜ん、いい娘いますよ〜!」と、怪しい誘惑がぁー。やっとのことで振り切っって家に着いたら午前2時。いつまでもアホやっとる。


2004年2月1日(日) 洗剤の思い出
 残暑の厳しい10月の遍路道を、汗を滝のように流しながら歩いて宿坊や民宿に着くと、先ずは風呂に入り、次に洗濯というのが日課だった。そうして何日かすると、サービスで置いてくれている洗剤がどこの宿でもライオンのトップという銘柄だということに気がついた。

 父の法事のために愛媛の実家へ遍路のついでに帰ったが、そこでもやはりトップだった。僕にはどの洗剤でもたいした違いはないだろうぐらいにしか思えないのだが、母は、「これが一番よく落ちる」のだそうだ。

 僕がまだ田舎にいた昭和の50年代頃の洗剤といえば、一抱えもある大型の「お徳用」と書かれた紙の箱で、大きな台形の口からドッと洗剤を洗濯槽に流し込んでいたものだが、のちに消費者団体の調査で、増量剤が混ぜられているのを指摘された各メーカーがこぞって、「濃縮してコンパクトになりました」と、四分の一ほどに小さい箱になった増量剤を抜いた製品のCMを流し始めたのには、呆れてものが言えなかった。

 ビーズだったか、ザブ だったか忘れたが、「♪金銀パールプレゼント」というCMがあって、大きな箱の洗剤に混じって何かカードのようなものが入っていて、金、銀、パール、どれかの指輪が当たるという企画だった。それが目当てというわけではなかったのだろうが、うちで使っていたのは当の洗剤で、ある日母が洗濯しようと箱を傾けたらそれが出てきた。金の指輪が当たったのだ。

 父が母の薬指のサイズを巻尺で測り、カードをメーカーに送ったのだが、そのとき初めて母の指には結婚指輪がないことに僕は気がついた。やがて金の指輪が届いてみると母の薬指には一回りほども大きいもので、父は納得出来ず何度も母の薬指を巻尺で測り直した。指輪のサイズというものを知らない夫婦だったのだ。それでも中指にならぴったりとおさまり、僕が今まで知らなかったような明るい笑顔を母は見せた。

 両親の結婚した時代の田舎に、「指輪を交わす」という習慣が浸透していなかったのかもしれないし、自分の酒、コーヒー、車といった趣味嗜好のためには金を惜しまなかったが、家庭のために金を注ぎ込むのには二の足を踏んだ父だったから、「指輪を女房に贈る」などという発想が無かっただろうことは容易に想像できる。また、母も着飾ることより働くことが好きだったのもあって、指輪をねだったりは、本当は欲しくてもしなかったのに違いない。晩年の父は大量の酒を浪費したが、母が着飾るためには遂に金を使わないままで死んだ。だから今でも母の中指にはあの指輪が光っている。

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