HAL日記


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2004年7月31日(土) 夏祭りだ、盆踊りだ、夜店が出るから行きたいが、面が割れているので行き難いなぁ、、、、。
 あちこちで夏祭りが催されているが、今年はまだ何処にも行ってない。近くの小学校を通りかかったら盆踊りの音頭が聴こえて来た。近隣センター主催の盆踊り大会かなんかで、前にも行ったことがあるが、バイオリンの師匠がフランクフルトを焼いていた。

 ねじり鉢巻、釣りで日焼けした真っ黒い顔と逞しい腕、威勢の良い口調はとてもバイオリンの先生とは思えない。何処から、誰が見てもフランクフルトを焼いて20年、この道の大ベテランに見える。味もなかなかのもので、薄く焼いた卵で包みケチャップとマスタードで頂くのだから誰がやっても同じようなもんだろうと思うかもしれないが、とんでもなく不味いものに当たることがあるから、やはりセンスが物を言うのに間違いない。

 浴衣姿のおねぇちゃん達が三々五々楽しげに歩いて行くので僕も行ってみたくなったのだが、如何せんこの辺りでは顔が知られているから、ビールなど飲んで醜態でも曝そうものなら昼間は表を歩けなくなりそうだ。ぐっと我慢してスーパーで惣菜とビールを買っていると、「アラー!お元気ですかぁ?久しぶりですねぇ」と昔のお客さんに声をかけられて慌てた。

 スーパーなんかでお客さんに会っても実のところ何処のどなたなのか、その職場にいて制服を着ていてくれなければ若い女の子なんかだとなかなか判らないのだ。しどろもどろになって何とか繕って早々に退散して来た。長く同じところに住んでいると知り合いがたくさん出来て世間が狭くなってくる。良いことももちろんあるが、会いたくもない人から飲みに誘われる面倒が付いて廻ったりする。ここらでひとつ海外に半年ほど住んでみようか。

 

2004年7月30日(金) 再会が待ち遠しい
 四国には今でもお大師様が歩いておられて、遍路を続けていればいつかお会いすることが叶うのだと云う。殊にうるう年の遍路には格別のご利益があると信じられているから、今年は例年にも増して歩き遍路が多く、また政治家のみそぎのために機能したりするから、宿坊や遍路宿も異例の賑わいらしい。

 そういった諸般の事情で直前になって予定変更を余儀なくされたが、やむを得ないこともある。人生万事塞翁が馬だ。思いどうりに事が運ばないからこそ人生は楽しいのだ。鬱陶しいことはさっさと忘れて前を向いて歩こう。と言いたいが実を言うとアル中ハイマーのせいで、幸か不幸か忘れたくても覚えられないといった重篤な症状がぼちぼち出始めたようだ。

 僕は45日かかって結願したが、結局ロマンチスト達の信じるように、お大師様に会うことはもちろん出来なかった。失意のまま悶々と日々を過ごし、喪失感という苦汁を味わいながら無為のうちに時を浪費していたとき、歩き残している道があることを思い出した。遍路は一回限りのものと思い込んでいたから、「歩き残したところは次回に歩けば良い」といったアドバイスを頂いたときには正直驚いたが、その言葉を思い出して遍路道を歩き直したとき、たくさんのお接待を頂き、お四国がなぜ人を惹きつけて止まないのか解かった気がする。

 衛門三郎伝説以降、お大師様と出遭った人の話を聞いたことがないから、いくらうるう年に遍路をしてもお大師様にはお会い出来ないに違いないのだが、四国にあってお遍路さんを支えてくださる方は数多おられる。お遍路さんにとってみれば本物のお大師様では無いにしても「プチお大師様」であると感じる瞬間が確かにあって、それがお四国の魅力なのだ。そうした方々にもう一度お会いする為に僕はお四国の地に立つ。約束されたことのように、定められたことのように。

 

2004年7月29日(木) アメリカ的なもの
 今年のアメリカは大統領選挙の年に当たるとあって、全米各地が選挙熱に浮かされているかのような報道を見る毎日だが、僕がアメリカを旅した17年前の大統領が誰だったか覚えていない。

 貧乏ツアーだったからガイドも付いていないし、ハリウッドの安ホテルは冷房が壊れていて、文句を言っても一向に直してくれる気配がなかった。僕の英語が下手なせいだと思っていたら、支配人は日系で日本語だってちゃんと理解出来たのだと判ったのは4日間泊まった最後の日だった。

 ホテルは夜になると銃声や、パトカーや救急車のサイレンがうるさい最低の立地条件のところに在ったらしいが昼間は危険を感じたことがなかったし、ハンバーガーの美味しい店があったから夕方には毎日そこでディナーだった。中でも大好きだったのはスパイシーなローストチキンを薄くスライスしてホットドッグのパンに挟んだ物で、サラダはブルーチーズドレッシングをかけていただいた。

 当時のロスではマクドナルドやバーガーキング、名も知れぬレストラン等、何処に行ってもフレンチドレッシングとブルーチーズドレッシングは定番であるらしかった。酢とオイルとスパイスをホモジナイズしたフレンチ系は日本でも食べていたし、ブルーチーズも好きだったがドレッシングで食べるとは思っても見なかったから、その美味しさに驚いた。

 日本に帰ってからブルーチーズドレッシングを作ってみたけど意外にも上手く出来なかった。市販のものを探したのだが、今もってブルーチーズドレッシングを見つけることが出来ないが、最近のブルーチーズには、「ドレッシングにも使えます」と表示されていたりするから市民権を得つつあるに違いなかろう。

 フローズンヨーグルト、ブルーチーズドレッシング、チリソース、etc.とアメリカの思い出は数多くあるが、しかし「アメリカの食べ物で今一番食べてみたいものは」と聞かれたら、「マリネイテッド・アーティチョーク」と、僕は答えるだろう。日本語に訳せば、「朝鮮アザミの酢漬け」なのだが、これも日本では滅多にお目にかかることが出来ない。御馳走とは決して言うことが出来ない物ばかりだが、僕にとっては極めてアメリカ的なこれらのフードは懐かしい思い出と共に、センチメンタリズムを満足させるに足るパワーを秘めている。アメリカ大統領より十分に印象的なのだ。

 

2004年7月28日(水) 父の言葉
 デジカメやビデオカメラを衝動買いしても、取り扱い説明書を落ち着いて読むような人間でもないし、また一度くらい読んだところですんなりとは理解できないし覚えられないから、現場に出ながら使い方を習うのだけど、近頃の機器はそんなことで使いこなせるようになるほど甘くはない。そのうち躓いてしまって、飽きてしまうのがおちなのだ。

 三年前の夏に、父が闘病している姿を残して置こうとビデオカメラを買ったまでは良かったが、使ったのは父の亡くなる前と後の数ヶ月程だった。そして写した映像を再生する気分にもなれず、誰にも見せること無く三年が過ぎてしまった。

 放ったらかしだったビデオカメラを取り出したのは、遍路でお世話になった方に挨拶に行こうと思い立ったからで、出来る事ならその楽しかろう映像を帰って来てから振り返りたいと思うから、真剣にマニュアルを読んでいると、撮影したビデオをパソコンで編集して、DVDに焼くのはそう難しいことでも無さそうに思えてきたので、以前に撮りためていたテープでトライしてみた。

 何回も失敗しながら一晩かかって出来上がったそれはとんでもない出来損ないだった。間違った日付を入れていたり、父が闘病しているシーンでなぜかファンファーレが鳴って場面が切り替わったり、父を見舞った同じ日に息子の僕はラジコンヘリを飛ばして遊んでいたりと、非道い事極まりない。もう一度編集をし直そうかとも考えたがすっかり疲れ切ってしまっていた。そのまま姉に渡したが、あの場面が変わるところはファンファーレではなく葬送曲に聴こえたと言う。余命いくばくも無い父の闘病中とはいえ、未だ亡くなっていた訳でもないのにこれかい。そろいも揃って能天気な子等に、父も草葉の陰でさぞや嘆いていることだろう。

 

2004年7月27日(火) 酒で死ねたら本望か?
 宴会で飲み残した赤ワインを鞄に忍ばせて帰宅する途中に駅の階段で転び、割れた赤ワインでワイシャツを真っ赤に染めて、「こんなに大量に出血したのでは俺はもう助からん」と本気で覚悟したと言う知人。

 朝、目を覚ますとスーツに血の跡がべっとりと付いていて、「俺はまた暴れたのか、何かの事件になっていないだろうか、と真剣に新聞の隅々にまで目を通したけどそれらしい事件は載ってなかったので安心した」と真顔で語った知人。

 飲み屋から飛び出すなり車にはねられ、開頭手術は成功したが未だに精神病院から出られない知人等々、僕自身が酒飲みなのだから、アル中ハイマー達の軽い命の上に更に羽を付けた様な危険極まりない事例は夥しいく知っているが、深酒の挙句に足の骨を折り、入院3ヶ月の重症を負った僕自身こそが危険人物の最右翼と回りには目されているかも知れない。

 菩提寺のご住職が、中島らも先生の公演を聞きに行ったところ、講演の途中だというのに、らも先生、「ちょっと失礼」と断って、上着のポケットからサントリーオールドの中ボトルを取り出して、パキリと封を切るや否やぐいっと呷ったのだそうだ。それを目撃して、酒飲みのご住職もさすがに目が点になったらしい。

 らも先生に会った事はないけど僕の兄が、らも先生の近所に住んでいたことがあって喫茶店やお好み焼き屋さんとかで何度か話したことがあるらしい。中でも印象的だったのは深夜、タクシーの運転手さんにボロ毛布を担ぐようにして家に連れて帰られる姿だと言う。何度も見かけたらしいから、兄もまた何度も同じ時間帯にべろべろになっていたのだろう。

 転んで頭を打って手術の甲裴もなく、亡くなったとしか聞いてないが、年中酔っていた人だから、酒かドラッグあたりが事故につながったことは否定できないだろう。しかしらも先生自身がその著書の中で、鬱病によって迫り来る自殺の恐怖みたいなものを表現されていたから、あるいはと思うが、今はただ冥福を祈りたいと思う。


2004年7月26日(月) 梨泥棒は万死に値する?
 小学校の五年生だったろうか、下校途中、たわわに実ったザクロを見つけてジャンプしたら手がとどいた。当時の子供たちは下校途中に道端に生えているスカンポ(いたどり)をしがんだり、グミや野苺みたいな、今なら野草や薬草に分類されそうな草や木の実も良く口にしたものだ。ザクロだって美味しいものでもないけど、せっかく手がとどいたのだから、ちぎって食べてみた。

 ザクロを取って口にした翌日学校に行くと、担任の老女教師から皆の前で僕は酷く叱責された。どうやら昨日のザクロの一件を学級委員長の女の子が目撃していて、いち早くちくったらしい。先生曰く、「お百姓さんの作っている作物を盗むのは、野荒しと言って、あらゆる罪の中でも最も重い罪に値するのだ」と叱る。あのザクロがお百姓さんの一生懸命作ったものだとは到底思えなかったが、悪いことに違いないと思った。

 昨年の秋に遍路道を歩いて愛媛に入ると、「みかんを好きなだけ取って食べなさい」と言われたが、どんなに喉が渇いていてもそれだけは出来なかった。野荒しは大罪という意識が今だに抜けないでいるのだろう。そうやって色付いた美味しそうなみかんをはた目に見ながら57番栄福寺と58番仙遊寺の間を歩いているときだった。農作業を終えたらしい爺さんとすれ違ったとき、「その先のお地蔵さんに蜜柑をお供えしてきたから食べなさい」と言われ、5分程歩くと確かに蜜柑がお供えされているお地蔵さんを見つけた。

 不揃いな売り物にならないみかんを手にして思う、「これは野荒しじゃないよな、お供え泥棒でもないよな、さっきのお百姓さんのお接待だよな」。出来の良くないみかんの皮をむいて貪ると熱い思いがこみ上げる。何のために遍路に出たのか、自分なりの明確な目的があったとはいえ、そんな些細なことは歩き始めたときにもう既に済んでしまっていたみたいに思えた。遍路道を歩き直している今、この先の遍路道はもっと別の、自身のためではない、違う何かのために歩かなければいけないと思っている。

 

2004年7月25日(日) 格言
 「二度あることは三度ある」という諺があるが、日本だけの諺だとばかり思っていたら、アラブにも同じ諺があるらしい。しかも三度目が一番悪いのだそうな。

 今まで何度か車を買い替えたが、そのうちの二回は事故ったので仕方なかった。二度とも自分に非があり、どちらも廃車にしなければならなかったが、幸いにも自分が怪我を負うほどの事故ではなかった。事故っておきながら怪我をした事が無いなどと自慢するのも妙な話だけど、ついていたのは事実だ。

 新車を購入してから2ヶ月近くなるが、まだ数百キロしか走ってないのだけど、燃料計が壊れているのかと思うくらい、以前の車に比べて燃費が良いのには驚く。こんなことならもっと早く乗り換えた方が得だったかと今は思っているけど、事故らなければ買い換えなかったろう。

 遍路でお接待になった方々へ、無差別お礼参りと銘打って恐ろしい意趣返しを目論んでいるのだけど罰が当たって一蓮托生に怪我をするような事故を起こさないか今から心配している。メンバーを考えるまでもなく、運転手は僕しかいのだから責任は重大だ。せめて「惨劇の予測」だけはしないでおくとするか。

 

2004年7月24日(土) Show the flag
 「とうとうやったか、あっぱれ」という賞賛を贈りたい。イラクに出稼ぎに行って人質になった運転主を救うために、利権の傀儡になり下がり、自らの闘争本能を満足させるためだけのために全世界を欺き、他国民の命と人権を蹂躙してまで儲かる国々に侵攻するブッシュ大統領を早々に見限ってフィリピン軍を撤退させたアロヨ大統領にである。

 アメリカあたりからは、「テロリズムを助長する決定だ」と非難する大きな声が聞こえてくるが、イスラエルとパレスチナの紛争なんか2000年前から続いていて解決出来ないのだから、対テロ戦争に於いて10年先になってみなければ事の善悪など誰にも判断出来そうもないし、世界中の誰だって今はまだアロヨ大統領の決定を断罪する材料など持ち合わせていないに違いない。

 英会話の勉強がしたいからという理由だけで、フィリピンから日本に出稼ぎに来てキャバクらかどっかに勤めていた女の子と付き合っていた知人が言うには、「フィリピンという国は、良くも悪くもああいう国なんだ。敬虔なクリスチャンが多いから、友達をちくって売ったり、騙したりする発想が無いし、人は騙すもんだという日本の常識を知らないから、手相なんか見てやりながら信心深い彼女達を騙すのは造作もない」のだそうだ。

「Show the flag」を「日本国旗を見せてくれ=自衛隊を派遣してくれ」と上手に誤訳して見せた与党御用政治評論家の方々が日曜日のメディアでどんな意見を聞かせてくれるのか楽しみだが、国益が民主主義の名の元に他国を植民地化して得られるという発想が許されない時代になったことを、もうそろそろ気が付いても良さそうなものだ。「Show the flag」は、フィリピンがそうしたように、「国家がその主義主張を鮮明に出す」と訳して欲しいものである。

 

2004年7月23日(金) 試金石では鉛だった
 「ビッグイージー」というのは、南アフリカ出身の、世界ランキング1、2位を争う実力と実績を持つプロゴルファー、アーニー・エルスのニックネームだ。彼の大きな体でゆったりとしたスイングから放たれる強烈で正確なショットを見ていると、「ゴルフとはなんてイージーなゲームだろう」と思えてくるから、その愛称が冠されたらしい。

 本日のゴルフは、好天に恵まれての太平洋クラブ宝塚コース。正確なティーショットが打てれば、第二打はほとんどアプローチ感覚でプレーできるような距離の無いコース。フェアウェイは狭くアンジュレーションに富んでいて、トリッキーと言うほどではないにしろ、一筋縄ではいかないコースなのだが、いつものメンバーからビッグノイジーと揶揄される仲間を欠く、スリーサムのプレーだったから落ち着いた良いゴルフが出来るはずだったのに、結果は惨憺たるものだった。

 ビッグノイジーと言うのは、大きな体から怒りを爆発させたような過激なショットをたまに打ってスーパーヒロシ君という異名を滅多に欲しいままにしない男に冠された仇名だ。常日頃は温厚なのだが、勝負がかかると人が変わったようになり、一旦劣勢に立たされると思いつく限りの手段を講じて相手を引き摺り下ろそうとする。

 例えばモーションに入っているのにアイアンを鏡のように反射させて目を眩まそうとしたりするのは愛嬌のあるほうで、くしゃみはするは、ゴルフバッグは倒すは、誤球を誘うは、といったあらゆる手段に訴えてインターセプトを試みるのだが、とりわけ、しゃべくって相手のやる気を殺ぐのを最も得意としている。たいていの者は、一度彼のペースにハマると蟻地獄のように抜け出せなくなってしまう。つまりそれほど泣きが入った芸なのだ。それゆえビッグノイジーとオマージュを込めて呼ばれる。

 そのうるさい奴がいないのに、三人とも低調なスコアなのは一体どうしたことだろう。恥ずかしくて数字を出せん。ハイライトと言えば僕が生涯初のイーグルを決め、次のホールでもバーディをとった奇跡くらいだった。ということは、ビッグノイジーがいてもいなくても、いやむしろいるほうがリズムに慣れてしまっているということだろうか。次回は一月後の予定だけど暫らくは練習出来ないだろうな。

 

2004年7月22日(木) ついつい熱くなった
 マッチョな男になるには毎日の筋肉痛に苛まれながらの、気が遠くなるような時間が必要なのは元より承知してはいたのだけど、こんなに体の休まる日が無いのは辛い。若い頃のように翌日の筋肉痛に苦しむのではなく、前々日かそれより以前の原因によって悶えたりするから、ひょっとしたら何かの病にかかったのかと心配になったりする。しかし今日は本当に膝と手首に故障の前兆を感じるし、明日のゴルフのために大事をとって泳ぐだけにした。

 初めのうちはゆっくり泳いでいたのだが、ふと気が付くと後ろから若い女の子が煽って来る。「小娘がなめた真似をしてくれるじゃないか」。引き離そうとペースを上げるが離れるどころかますます追いついてこられてぴったりと後ろに付かれてしまった。「そっちがそう来るならこれでどうだ」と更にペースを上げるのにさっぱり離れてくれそうにない。もう30分以上も泳いでいる僕には限界のペースなのだが、ここで逃げたら男がすたる。けどもう駄目だ、息を継ぐ度に水をを飲むようになってきて苦しい。これ以上泳いだら不様に溺れてしまいそうな気がする。悔しいけど次のターンで先に行かせるしかない。

 女の子を先に行かせようと振り向いたけどそこにはもう誰もいなかった。どうやら彼女の方も限界近くで泳いでいたらしい。ゴーグルを外して休憩しているみたいで、もう追っては来ない。本当に助かったぁ!と、時計を見たら泳ぎ始めてから1時間が経っていて、肩はだるくて足は痙攣しそう。こんな筈じゃなかったのに、えらいことやってしまった。明日のゴルフはトレーニングの効果を測る試金石だと言うのに、予防線を張るわけじゃないが、思ったような結果は無理だな。

 

2004年7月21日(水) 抗生物質も摂れます
 「今日は土用の丑の日です。街ではスタミナを付けて酷暑を乗り切ろうとする人達でうなぎ屋さんは大忙し」。メディアがうなぎを食え、うなぎを食え、とあんまりうるさいので主体性に欠ける僕は遂に踊らされ、付和雷同することを決めた。

 近所に、見た目がちょっとマシな手打ち蕎麦の店があって、うな重と蕎麦の定食が美味しいと聞いていたから食べに行った。うなぎはとても美味しくて満足できたのに、本職であるはずの手打ち蕎麦が不味い。きっと忙しくてたくさん作り置きをしていたからなのだろう。蕎麦の分の金返せ!と、生前の父よろしくテーブルをひっくり返したくなった。

 うなぎに味を占めたので、今夜は日本酒とうなぎで晩酌をしたくなり、近くのスーパーで浜名湖産と表示されている蒲焼を買い求めて食べてみたら、なんと昼間に食べたうなぎと良く似た味でとても美味しい。流石に浜名湖産は美味しいな、と悦に入っているところへ、「飲みに行こう」とお誘いが来た。「浜名湖産のうなぎで酒飲んでるから今日はやめや」と答えたら、「中国から輸入したうなぎを浜名湖に一度放り込んだら、それはもう浜名湖産と表示しても一向に問題が無いらしいよ」と嫌味な答えが返ってきた。

 ひとがせっかく気分良く酒を飲んでいるというのに、誘いを断ったからといって全く興醒めなことをしでかしてくれる人だ。しかし考えてみれば、僕が子供の頃に食べた、ほとんど家の前と言って良いようなところで獲れたうなぎは、もっと身が硬く骨っぽくて食べ難いものだった気がする。それにひきかえ、この浜名湖産のうなぎは脂が乗っていて、身が柔らかく、口の中で溶けそうなくらいだ。もちろん養殖と表示されているから当たり前なのだけど、妙な入れ知恵をしてくれる御仁のおかげで、なんとなく抗生物質の味がするような気がしてきた。チッ!僕の味覚なんてこんなもんだな。

 

2004年7月20日(火) 僕には無い絶対の能力
 絶対音感というのは、例えば鳥がピーヒョロと鳴けばミーレドと鳴いたといったように、聞いた音を音名に置き換えることの出来る能力のことで、訓練を積むと十本の指で同時に引いたピアノの音を全て再現できるようになるという。もっと凄い人になれば、グラスが床に落ちて割れたときの音が音名になって聞こえてくるのだそうだ。日本の音楽教育の現場では戦前から昭和の中頃までとても重視されたらしく、この能力を身に付けた方は多いと聞いている。

 バイオリンのような自分で音を作り出さなければならない楽器はこの絶対音感があればとても便利なのだが、上行していくパッセージと下降していくそれでは、同じ音程を弾いてはいけない場合が出てくる。つまりバイオリンは相対音感が大事なのだが、絶対音感がある人はそのために返って苦しむこともあるのだそうだ。チャイコフスキーコンクールのバイオリン部門で最年少優勝を果たした諏訪内晶子さんがアメリカに留学して指摘されたのは、「重音の音程がグレーな感じがする」だった。それは彼女がピアノで絶対音感を身に付けたからなのだそうだ。

 先日京都伏見の酒蔵を見学した後、伏見地元の酒ばかり100銘柄ほど置いてある酒屋さんに連れて行ってもらったのだが、マスターに、目隠しして全ての銘柄を当てることが出来るのかと尋ねたら、「絶対味覚というものは存在しませんから、相対的に甘いとか辛いとか香りがどうこうとしか表現できません」と返ってきた。ソムリエなら味の記憶が鮮明なのかも知れないが、僕はこの説に頷いた。と言うのも、僕なんか日本で代表的なビールの銘柄を当てることも出来ないし、まして酔ってしまったら発泡酒とビールの違いさえどうでも良くなってしまうのだ。

 いつだったかフランス料理の本場パリで三ツ星レストランになるために奮闘している日本人オーナーシェフの物語をテレビでやっていたが、仕事を終えたシェフが、タバコを吸い始めるシーンが映された。これには仰天させられた。と言うのもタバコには甘味料(甘草)や様々な香料が添加されていて、それらは相当刺激の強いものだから味覚を麻痺させるのは間違いないのだ。一度タバコを一週間くらい止めて吸ってみたら良く分かる筈だ。

 タバコを完全に止めたら三ツ星間違いないよと教えてあげたいが、最近じゃ格付けするグルメ情報誌の方も相当いい加減らしいから、あのレストランも三ツ星を貰えたかも知れない。ドイツやイギリスではタバコのCMも出来ないがフランスじゃそんなことも無い。また人の好みも時代と共に変わるし、それに、なんたって絶対味覚なんて無いのだから。

 

2004年7月19日(月) ニシナリスト
 大阪西成区に愛隣地区(釜ヶ崎)という所があって、四天王寺建立とほぼ同時期にまでさかのぼって始まるというから、由緒正しいドヤ街としての歴史を繙くことが出来る地域なのだが、職安の在る辺りはいささか治安が悪く、冬場に何度か発生したことがある暴動の印象をもって世間に認知されていると思う。

 僕が初めてあの辺りを一人で歩いた20年前に、「兄ちゃん、ワシ金無いねん」と絡まれそうになって、「そんなん知らんがな」と心の中で叫びながら慌てて逃げたことがあった。それから暫らく足が向かなかったのだが、路上で骨董品とかを売っているらしいと聞いて、お宝バイオリンでも売ってないかと一人で未だ暗い夏場の早朝に出かけてみて驚いた。

 空が白み始めて見たのは、日本語で無い言葉で会話が弾む露店に屯して、なにやら見たことも無い食材と料理に舌鼓を打ちながらワンカップや缶ビールなどを飲んでいる大勢の労働者達や、ブランドのコピー商品とか、いわゆる禁制品を堂々と道路を占拠して売っている露店の有様だ。ここは本当に日本なのかと目を疑わざるを得なかった。

 しかしそこには安い商品と、骨董、普通のルートでは手に入らない物などが沢山あって楽しげな所だし、何度も通ううちに喧嘩も見かけたが、基本的には難波(なには)らしい人情味の豊かな街でもあることが分かった。ところがそのダーティーな街が、サッカー・ワールドカップを期に変わり始めた。

 つい先ごろ近くを通りがかったら、綺麗な歩道が整備されていて、ござを敷き、路上を占拠して商品を並べていた不法露店が少なくなっている。恐らく時間帯や当局の手入れなどで一時的に消滅しただけなのかも知れないが、100均の店等や、ネットオークションが隆盛の時代だから無くなったとしても不思議じゃない。

 週末には何か面白いものはないかと期待しながら「ニシナリスト」と自らを蔑み、不衛生で危険と冒険に満ちた街を徘徊していた頃が懐かしい。本当に安全な綺麗でつまらない街になってしまったのか、今度は朝から出かけて見ようか。

 

2004年7月18日(日) あれから1年か
 クラシック音楽のページとして始めた当サイトも遍路から日記へと変遷を重ね、クラシック関係のページは隅っこに追いやってしまったから誰も見ていないだろうと思っていたけど、嬉しい事にクラシックファンからメールを頂いた。

 思い出すと昨年の今頃、バイオリン制作家のBATOさんのページにリンクして頂いたのだが、あれっきり工房に行ってない。若きマエストロ・リュータイオ(弦楽器作りの親方)の作るバイオリンはとても良い物だが100万円近くなると、そうおいそれとは出せない金額なので買うのを躊躇してしまった。

 車に200万円という金額は出せてもピアノに100万円を出すのが大変なのと同じで、ピアノに100万円は出したけど、バイオリンみたいな小さくて単純な楽器に大枚がはたけるかという発想は理解できる。しかし考えてみれば一人の職人が作れるバイオリンは年間5、6挺位くらいだろうから、作る尻から飛ぶように売れたとしても、果たしてそれだけで彼らの生活が成り立つのだろうか。そう考えるとバイオリン1挺100万円は安いと言えるかも知れない。

 大きな声ではいえない話だが、楽器を先生に紹介してもらって購入すると、その金額の2割が先生の懐に入る仕組みになっていて、バイオリンなどは小さな子が成長するにしたがって買い換えなければならないから、楽器代だけでも親は大変な出費になるし、まして名古屋で娘三人を音大に通わせ、元を取る前に嫁に出すと、普通の家庭ならたいてい借金を抱えることになるらしい。

 僕が未だに28000円で25年前に買ったSUZUKIバイオリンの安物を買い換えられない理由は、貧乏なのもその理由の一つなのだが、弾き込んだせいでとても良く鳴るようになって、少しくらい高価なものを買っても今のを凌駕出来そうにないからだ。まして職人が一生懸命作ったものを買うとなるとそれなりの心構えが求められる。フルートやピアノみたいに工場で大量生産されるものを買うのではなく、職人の魂が込められたものを買うのだから襟を正さないで衝動買いするわけにはいかないのだ。あぁ、でもバイオリン買い換えたい!

 

2004年7月17日(土) ペットならいいかも
 もう随分昔のことだが、飲み屋のマスターと僕と常連客が連れ立ってスナックに行くと、「なんだか統一感の無い、お客さんですね。遊び人ならそれらしく、やくざならやくざで、サラリーマンやご隠居さんと、普通は一緒に来ないもんなんですが」と店の女の子に言われたことがある。

 成る程。ごもっともな話で、当時周りを見てもその基本法則を逸脱したグループは無かったし、その原則は今でも通用するだろう。ところが今の我々は、やはり昔と同じようにイレギュラーなユニットで夜な夜な出かけては胡散臭がられている。ただ近頃では一夜の享楽のために理不尽な金額が要る遊びが出来なくなったものだから、もっぱら餃子の王将とか、養老の滝あたりのリーズナブルな店を標的にしているのだ。

 先日は飲んだ勢いで、「ダチョウを飼おう」などと言い出したのだが、知人の方は相当乗り気なようだ。ただし僕がヒヨコを仕入れなければいけないのだそうだ。2、3羽飼ったところで採算が取れる訳は無いから趣味のつもりで飼うなら加担してもいいのだけど、何といっても僕は動物を飼うのが苦手、と言うか苦手意識が拭えなくていけない。それは子供の頃に様々な動物を飼っては、ことごとく僕のせいで死なせてしまったトラウマが、「二度と動物を飼うな」と警告しているからだ。

 餃子を食べながらビールをがぶ飲みしているけど、只券とか割引券を年がら年中持ち歩いているTELさんがいると安くつく。だから飲み屋のマスターも、客足が途絶えると早々に自分の店で稼ぐことを断念して飽食に走るのだ。誘う側もうるさい客をフィルターにかけて気の置けない連中と飲めるのがいい。酒豪に釣られて飲んでいるとまたしても理性を失って悪いHALが耳元でささやく。「可愛いダチョウを可愛がって何が悪い。さあダチョウの雛を買いに茨城県まで行こう」。ダチョウの背中に乗って走っている自分の姿を想ってしまった。

 

2004年7月16日(金) WEBショッピングはどうも、、、。
 最後に大阪日本橋の電気屋街に行ったのは半年も前では無い筈だが、15日に行って見て表通りの急激な様変わりに面食らった。馴染みの店が無くなっているだけでなく、電気屋さん以外のマニアックな店や、おしゃれな感じのショップが進出してきていて、かつてのごみごみした印象がやや薄れている。

 せっかく電車に乗って泉北ニュータウンくんだりから大阪にやってきたのだから、かねてより必要に迫られていた電子部品を手に入れ、最後にビデオ撮影したものをパソコンで編集してDVDを作るためのパーツを探して何軒もの店に入った。たかが4000程度の部品なのだが、最も安い店と最も高い店では10%の差がある。牛丼一杯が食べられ、ドトールコーヒーが飲めそうな違いは、僕にとって人生を左右しかねない程の大きさなのだ。

 日頃から遍路のために鍛えている足なので1日中歩き回っても、サラリーマン時代のように足が棒になることは無い。あちこちで値段を比較し、最も安かった店を2回訪ねていって買う決心が付いていたのに、若い店員さんに質問したら良く知らないらしく、はぐらかされたような答えが返って来る。設問に問題があるのかと、別の角度から尋ねたら、今度は知ったかぶりの答えが返ってきた。それならと、また違う問い掛けをしたら、そういうことは知りませんと、毅然とした態度で白状した。

 ま、知らないのは仕方ないとして、開き直るとはどうしたことか、初めから知らないなら知っている人を呼べばいい様に思うのだが、ひょっとして詳しい店員がいないのだろうか。安くて人だかりがしている店なので、万引き防止のアルバイトに聞いた僕にも非がありそうだ。せっかく買うつもりだったのに気持ちが萎えた。

 こうなったら仕方ない。直ぐに馬脚を現す店はやめて、いやいやながら大手のJ電気に入った。大阪でも値段が高いので有名なここの店員さんは、さすがに教育が行き届いていて、僕の質問が分からないと悟ったら詳しい人を呼んできてくれた。散々質問を浴びせても、スラルラ教えてくれる店員さんだったので、最も高い4000円以上だったけど当店で買った。牛丼とコーヒーは諦めざるを得なかったが、精神衛生には代えられない。

 

2004年7月15日(木) もう駄目だ
 メル友なんて悠長なことを言っておれなくなった。郵便ポストに頼みもしない広告を放り込まれるみたいに、ウィルス付きのメールがどさっと音を立てて届くようになった。ウィルスそのものはNetsky系が多く今のところ実害は無いが、新種の奴が現れたらウィルス対策される前に誰かが感染する訳だから、くじ運に見放され、貧乏くじばかり引いている僕がその餌食になる可能性は相当ある。こうなったらさっぱりとメルアドを変えてしまおう。

 どうして知らない人からメールが来るのか、からくりは実に簡単らしく、メールアドレスをNETを巡回してかき集めるソフトを動かすだけでいいらしい。ホームページを公開している人はもちろんだが、どこかの掲示板にアドレスを入力して書き込むとそれも集めてくるというのだ。掲示板が人気のところは二段階を踏まなければ書き込んだ人にメールが出来ないように対策しているところもあったりするが、専門家でないと難しい対策のようだ。

 これほどしつこく書いているには理由がある。遂に今日、自分のメールアドレスが差出人のウィルス添付メールが届いて仰天したからだ。ということは僕はもう被害者という垣根を飛び越えて、立派に加害者に名を連ねたということになるのだろう。知人の中には僕の名前でウィルスを受け取った方がおられるかも知れない。対策は緊急を要する。

 

2004年7月14日(水) メル友募集中
 ありがたい事に若い女性からしょっちゅう「メル友になって下さい」というメールを頂く。出会い系サイトというものの存在は知ってはいても、何処に行って、どうやって使うものなのか知らないから、「出会い系サイトの書き込みを見ました」と言われても答えようが無いので放って置いたら、今度は別の方から自己紹介しているらしいメールを頂いた。

 どうやら独り者の僕に憐憫を垂れて下さる奇特な方がおられるらしく、ご親切にもHALのメルアドでハンサムな僕の実像を書き込んで下さっているみたいだけど先様の期待を裏切るのは本意ではないので、これまた放って置いたら、また別の方からもっと熱烈なメールが届いた。

 ウィルス付きのメールが少し減ったかと思ったら今度はラブコール攻めと来たか。う〜ん、とても興味をそそられるが自分の日記更新もままならぬ僕にラブレターを書く能力は無いからこれも放ったらかしでごめんなさい。余裕が出来たらお返事したいと思っております。ただ、送って下さるメールには不特定多数向けのものではなく、HALの名前を宛先に入れて下さったら有り難いと思っておりますぅ。

 

2004年7月13日(火) やっぱり出て来たか
 長野県の白骨温泉で入浴剤が使われていたニュースを見て、「やっぱりか」と思った人は少なくないのではないだろうか。僕も3月5日の日記に自分で書いておきながら驚くと同時に、「お客様のために良かれと思ってやったことが返って良くなかった」と反省の色も無い釈明を聞くに至っては、開いた口が塞がらない。

 近所にやたらと温泉ができ初めて、「近年のさく井技術は大したものだな」と思っていたのだが、ほとんどが雑菌の多いぬるい水を汲み上げて、雑菌の増殖に丁度良い40度に沸かしているだけではないか。こういった温泉もどきが横行するのは、そもそも温泉の定義がぬるいからに違いない。25度以上の安定した成分で良いなら何処を掘っても温泉が出て来て不思議じゃない。「何も足さない、何も引かない」というCMがあるが、温泉やウィスキーに、混ぜ物をしたら表示義務付けと、その罰則規定はどうなっているのだろう。
 
 それにしてもすぐにばれそうに思う事をどうして人は実行してしまうのか不思議だ。鈴木宗男氏に代表されるように、悪いことを悪いと思わない、あるいは悪事も金と権力さえあれば言い逃れが出来ると教えてくれる政治屋に問題があるのだろうか。しかし考えてみればあの温泉も8年間ばれなかったのだから悪事は結構ばれにくいということだろうか。今回の事件がどうして発覚したのか知らないが、内部告発がもっともっと多くなればこれから先の世代にとっては朗報だろう。Honesty pays long run.正直が結局は得するのだと実感できるような世になるだろうから。

 

2004年7月12日(月) 蝉と共につれづれに
 今年の遍路では筆舌に尽くしがたいお接待をたくさん頂いたのだが、その中でも花の種をくださるというお接待所を教えた頂いていたので、そこを一つの目標地点にして歩いて行き、種を貰ったのだから本懐を遂げたと言えるのだろう。その種を4日前に種を蒔いたら今朝、朝顔が芽を出していた。
プランターに野菜の土と腐葉土を混ぜたものに蒔いたのだが、腐葉土は必要無かったのではないかと思う。2週間もしたら花芽をつけるのだろうか、とても楽しみだ。明日は他の双葉が現れるのではないかと期待しているけど全てが芽吹くとは限らない。

 昨年は冷夏だったが、7月6日に蝉が鳴いたと日記に書いてある。今年は今朝初めてうるさい声を聞いたが、昼過ぎにはややおとなしくなったみたいだった。日記を付け始めて一年が過ぎるが、良くも続いたものだと思う。

 父が亡くなったとき、身の回りのものを片付けていると、日記が出てきた。形容詞のほとんど使われてない即物的な、メモ帳みたいなものだったが、晩年の文章には感情が吐露されたものに変わっていった。達筆だった父も晩年にはほとんど視力を失っていたから、電子点眼鏡みたいなものを使って書いたと思われる字は見るに忍びなかったが、感情がストレートに表現されていて日常の父を良く表してしていたように思う。

 姉の嫁ぎ先の歌人だったお母さんの歌集を読んでいると、晩年の歌には豊かだった色彩感が消え、代わって感情表現が分かりやすい歌が多くなっていたように思うが、こうした現象が年をとると涙腺が弱くなると言われていることとことと関係があるのだろうか。だとしたら僕は既に晩年を迎えていると言えるだろう。

 

2004年7月11日(日) 肉食べたい
 さてそろそろ選挙に行くか、と思っているところに知人から電話がきて、「マラソン大会は暑いので早々に切り上げたから焼肉パーティーに来い」と連絡を頂いた。割り勘だから早く行かないと食べるものが無くなるに違いないから、選挙は後回しにしてランナーに化けて駆けつけたのに肉は既に消えていた。

 仕方ないので、野菜ばかりでビールと焼酎を飲んだらすっかり酔いが廻って、「しまった、選挙に行かなくては」と目が覚めたら深夜になっていた。結果はまあ、期待したとおりになっていたから良かったものの、例え一票と言えども選挙に行けなかったのは悔いが残る。

 それにしても流石にマラソンクラブの方たち、僕みたいにポッチャリしている人は皆無で、見るからにスポーツマンばかりだ。中にはトライアスロンの招待選手と紹介された60歳の男性とか、北海道100kmマラソンで6位入賞した女の子とか凄い人ばかりで、小さくなって飲んだのだった。

 

2004年7月10日(土) 電気屋が消えていく
 駅前の八千代無線が近く店を閉めるのだという。品揃えが豊かで、いざという時に良く利用させてもらって、しかも日本橋より安いものも有ったりするので重宝していたのに残念で仕方ない。

 そういえば先日歩いているときに「なかぬきや」が影も形もなくなっていてびっくりしたが、あそこは仕方ないかも知れんな、と言うより余り利用しなかったのでどうでもいい。

 駅前にあった上新電機もずいぶん前になくなったし、パソコン関係の品物を買うには車で走らないといけなくなったのは面白くない。そんなことよりデジカメとビデオのバッテリーが欲しいけど、3年も前のデジタルビデオのバッテリーが以外にも高価なのには驚いた。安いデジタルビデオが一つ買えそうだ。ビデオそのものを売ってしまおうか。

 

2004年7月9日(金) 梅雨明け
 暑さで人が死ぬのならどうして赤道直下の住民は全滅しないのか不思議でしかたないが、今日の大阪南部の暑さは正に殺人的だった。知人みたいにやかましいパチンコ屋で涼むことの出来ない僕は、スポーツクラブに非難するしかないが、あそこはあそこで辛いものがある。

 ストレッチ体操30分が始まりなのだが、ここで既にびっしょり汗をかいて次にマシンジムで筋力をつける。つまり重たいものを持ち上げて筋肉を育てるわけだ。理屈を言うと、一度筋肉を破壊してその再生のときに筋肉が増えるのだそうだから、休んで楽な運動をしてはいけないらしい。そういった楽な運動を長時間続けるのを有酸素運動といってカロリーを消費するための運動だから、寝ていてもカロリーを消費するには筋肉を増大しなければならないらしい。詰まるところ痩せたいなら、辛い思いより痛い思いをするのが手っ取り早いということらしい。

 最後の仕上げにプールで泳いだが、途中から雷が鳴り始めて心そぞろになったので20分で切り上げて風呂に入った。稲光を恐れる必要の無い風呂は快適だったが、鈍い音が聞こえたと思うとすぐに全館が停電した。ちょうど湯船に浸かっていた僕は真っ暗の中、風呂から上がることも出来なくなってじっとしていたら回りがざわめき始めた。

 おいぃ!風呂から上がるのはいいけど、なんで俺の微妙なところへタッチして行くんだ!おい、止めろ!畜生!停電の風呂で溺れたら洒落にならんぞ。すぐに非常灯がサウナの中だけに点いたが、回復するまで10分近くかかった。未だかつて無い恐ろしい体験したが、帰り道で目の前といっていいくらいの距離に雷が落ちた。もう散々な一日だったが、これが梅雨明けだ。間違いなくこの夏は暑くなるだろう。

 

2004年7月8日(木) 種まき
 春の遍路のときにお接待で頂いた朝顔の種を蒔くためにプランターと土を買いに行った。以前にもプランターで朝顔を育てたことがあって、そのときに、「土は何を使ったらいいのか」と、ベランダで花を育てるのを趣味にしている姉に相談したところ、「そんなもん何でも育つから、そこら辺の土を採って来れば」と言われたので、公園に行って土を盗って来て種を蒔いたら花は良く育ったのだが、結果として大失敗だった。

 夏になると朝顔は立派な花を咲かせて、毎朝楽しいし、日除けにもなって言うこと無しだったが、水を毎日大量にやらねばならず、長期の留守には枯れる心配があったのでオーディオタイマーと30秒タイマーを組み合わせ、風呂の水を汲み出すポンプに繋いで潅水装置を作り、1日一回だけ水をやっていた。これで何事も無く夏が乗り切れるはずだったのに、ある日恐ろしいものを見つけた。

 朝顔の根元を見ると何かが蠢いている。見たことも無い気味悪い小豆くらいの黒い虫だ。捕まえようとしたけど逃げられてしまった。暫らく観察していると土の下から何匹も這い出してくるではないか。慌てて花用の殺虫剤を降りかけたがさっぱり効果が無い。この殺虫剤はあぶらむしとかに効くもので、ゴキブリみたいな奴には効果がなさそうだ。慌ててキンチョールを買いに走る。

 ベランダ一面にキンチョールを撒いて最悪の事態は回避できたが、土の下にはまだまだ何百匹もの虫達が、あるいは卵の姿で潜んでいるに違いない。掘り返してみたら、カブトムシの幼虫みたいな奴まで出てきた。今更朝顔を切り取って土を捨てるわけにも行かないから、その年の夏は虫たちとの闘いに終始した。

 翌年には前年の朝顔から採れた種をまいたのだが、どうしたことか前年の花とは似ても似つかない下品な姿の花が咲いて酷くがっかりした上に、虫が相変わらず這い出してくる。諦めて前年の轍を踏むことにしたのだが、その夏以来花は育てていない。だからちゃんとした土を買いに行ったのだが、「腐葉土」と「野菜の土」で良かったのかどうかは自信が無い。

 

2004年7月7日(水) バースデープレゼント
 毎年のことだから慣れてはいるのだけど、テレビのニュースなんかで七夕祭りが取り上げられたりするのを見ると少々鬱になります。また少し寿命が縮むのを改めて思い知らされるからです。つまり今日は僕の誕生日で、朝からグリーティングのメールを頂いたわけです。

 近頃はお祝いを言ってくれているのか、嫌がらせをやっているのか分からないようなのが来るんです。僕の思い過ごしとか、ひがみなら良いのだけど、「お誕生日おめでとう、残り少ない人生を頑張って凌いでゆきましょう」とか「人生の三分の二を浪費することに成功しましたね、これからも無為のうちに生きれると良いね」といった不幸の手紙みたいな励ましのお言葉を頂きます。橋の上で何気なく佇んでいるだけの僕に、靴を脱がせて揃えてくれた上に背中まで押してくれるような親切な方へはお礼の言葉も見つかりません。あなた方の幸せを僕にも祈らせてください。

 ところが嫌なことばかりでもありません。先日、「あなたの2003年8月2日の日記に関して意見が、、、」というメールを頂いた方から資料が送られてきまして、恐る恐る開けて読むと、それは僕のこそこそと書いた話を裏付ける内容の冊子でした。英語の先生であるご自身の研究では僕の話は途中まで間違いでは無いのだそうです。これには大いに勇気が沸いて来ました。これからは虎の威を借る狐よろしく大きな声で僕の浅薄な知識をひけらかす事が出来そうです。

 本日はっきりと、願えば通じ、叩けば開かれるものだということうことが実感できました。あとはどなたか、「邪馬台国泉北ニュータウン説」と「村上水軍トルコ遠征説」(結構本気で考えている)を支持してくれる方が現れるのを待ちたいと思います。先生、僕にとって願っても無いバースデープレゼントとなりました。本当に有難うございました。

 

2004年7月6日(火) 少し効果が見えてきた
 どの道暑さから逃れるのが出来ないのなら、スポーツクラブでヒ〜ヒ〜言っているほうがましだろうから、100均で買った麦藁帽子を被って出かけた。

ゴルフ場でなら誰も咎めはしないが、町をゴルフの格好で歩くのは相当根性が要る。持っているポロシャツはフェアウェーで映えるような明るい色だったりするから派手すぎるのだ。さすがにニッカボッカを履いて歩くことはしないが、もっともあれをゴルフ場で履けても、スタイルのよほど良い方か、ゴルフの上手い方でないとなかなかぴったりは来ないもので、僕が履くとチンドン屋さんになってしまう恐れがある。

 長い階段を登っていると汗でズボンが重く絡み付いて歩きにくい。あれほどトレーニングをやっているというのにこれしきの階段で息が上がるなんておかしいと思って良く考えたら、大腿部が太くなっているからかも知れない。遍路に出る前には58kgほどだったから3kg太った計算だけどウェストは変わりが無いから、筋肉が付いたのだろうか。

 クラブに行き裸になって鏡を見たら、心なしか体形が変わっているようにも思える。そのまま暫らくボディービルダーの真似事をしてほくそえんで密かに悦に入っていたら、後ろから超人ハルクみたいに立派な体型の爺さんに笑われた。顔から火が出そうなくらい恥ずかしかったので、ナルシスみたいにプールに飛び込んだら、心拍数が上がったままだったから、危うく溺れるところだった。まだまだ上半身が駄目な僕なのだ。

 

2004年7月5日(月) 北海道でもダチョウは育つ
 オーストリッチと言われても、どこか外国のブランドバッグぐらいにしか思っていなかったけど、あれってダチョウ(オーストリッチ)の皮で作っているからその名が付いていると初めて知った。

 馴染みの場末の飲み屋では、何時仕入れたものか分からない危険な物が出されるので、この季節食べるもので冒険は出来ない。そんなところに知人がウコッケイと軍鶏(しゃも)の卵を持ってきてくれた。ゆで卵にして頂いたけど、正直言うとブロイラーの玉子との違いが僕には良く分からなかった。

 「なぁなぁ、軍鶏もいいけど土地があるんやったらダチョウでも飼うたらどうなん?卵一つ何千円で売れるらしいやんか」と飲んだ勢いでいい加減なことを言ったら、「それやったら、雛を買うて来てや、俺、飼うてやるから」。なんで僕が雛を買う話になるのか辻褄が合わん気がするが、とりあえず調べてみたら、雛一羽が30000円もするじゃ無いか。ブロイラーのヒヨコを夜店で買って三日で死なせてしまった苦い記憶があって二度とヒヨコなんか、、、。あぁ、でもあの愛らしい丸いのを手に抱きたい!

 そんなわけで、ダチョウのことを調べてみたら、結構面白そう。なんといっても生命力が強く、何でも食べるから育てやすいらしく、人になつくので老人ホームなんかでも痴呆症の改善に一役買っているらしい。体重100kgにもなって肉も美味しいらしいのだが、屠殺となると人に馴れたのを手にかけることは出来そうに無い僕なので、育てるだけなら参加してもいいかな。その前にダチョウ農場に見学に行ったほうがいいかもしれないな。

 

2004年7月4日(日) たゆとう思い出
 何も悪さをしていないのに折檻されている子供みたいに頭を垂れながら、居丈高に照りつける太陽の下を歩いて駅前に着くと、ポロシャツはもちろんジーンズまでジットリと重く濡れている。用も無いのにデパートの中をうろついて涼を取りながら服を乾かし、花屋さんの前を通り過ぎようとした時に甘く涼しげな香りが一瞬匂ったような気がした。

 花屋さんという所は香水アレルギーのある僕にとって決して好ましい場所ではなく、時として息苦しくなり動悸が始まる苦行の場でもあるから、出来れば素早く通り過ぎたいのだが、懐かしいような悲しいような香りに足を止めると、夜店や市場で売られているのを見かける風蘭の鉢があった。

 大波青海、東出都覆輪、御劔。漢詩でも引用しているかのような趣があるこれらの名前は、「おおなみせいかい、ひがしでみやこふくりん、みつるぎ」と読む。興味の無い人には単なる漢字の羅列にしか見えないと思うが、東洋蘭の中でもほとんど日本固有の蘭である風蘭に名前が付けられ、珍重され始めた途端に富貴蘭と呼び名を変えて高値で取引されるようになる不可思議な草の銘柄なのだ。

 富貴蘭は花の形も色もそれぞれで清楚な美しさを湛えているが、香りもまた、えもいわれぬ上品な甘さがあって人を魅了する。とはいえマニアにはそんなものは邪魔でこそあれ、蒐集心をそそる条件にはなりえない。彼らの興味の対象のほとんど全ては葉の形状に向けられているのであって名前も葉の姿に因んだものが付けられるのだ。

 僕が富貴蘭に情熱を注いでいた20年前にはまだ人工的な交配も、種から育てることも出来なかったが、バイオテクノロジーの進化した今ではその限りでは無いように聞いている。足を止めて香りに包まれていると、当時付き合いのあった遠い町に住む女の子が、僕の愛でた風蘭の香りをまとって会いにきてくれた記憶が熱いものを喉下に誘う。彼女と別れたのをきっかけに全ての風蘭を処分してしまってから後、花を育てることは無かったけど今年あたりは遍路道中で貰った朝顔の種をまいてみようかと思っている。

 

2004年7月3日(土) 責任を持たんか!
 菩提寺のお坊さんに触発されて始めた日記だったから、昨年の暮れに瞽女唄の月岡さんのコンサートでご住職にお会いしたときにホームページの話題で盛り上がった。

 「日記を沢山書いていると、前にも書いたことがあるようで不安になる事があります」そう打ち明けたら、ご住職も同じ悩みを持っておられるようで、「私もそうですが、書いている本人が忘れてしまうようなことだから、読んでいる方はもっと覚えて無いだろうから大丈夫でしょう」。その言葉に勇気を得て今日まで甚だ責任感に欠けた、いかがわしい日記を全世界に向けて開陳してきたが、近頃どうも少し雲行きがおかしい。思えば初めの頃のご住職の日記を僕は大体覚えているし、自分で掲示板に書いた内容は覚えていないけど、お坊さんどうしの不可解かつ難解な会話は覚えていたりする。

 先日はクレームを頂き、日記を書き直して、「クレームが付いたからといってあっさりと書き直すのか」と、他の方になじられたりしているけど、自己主張のために書いているわけではないので右の頬を打たれたら左の頬も打って頂いたりしているし、僕を憎む人がいるなら僕はその人のために祈りたいと思う。

 みだりに聖書の一節を引用するのは僕の悪い癖だが、クリスチャンである姉の飼っていた犬が亡くなったという連絡と共に、別の姉からは孫が生まれたと言う連絡を貰った。孫が生まれたならお祝いの一つもしないといけないのは、いかに非常識な僕でも分かるが、面識の無い犬が亡くなったことに対して何かすべきなのだろうか。前にも愛犬が亡くなったことがあったが、葬式を出したという話は聞かなかったし、クリスチャンだから虚礼はいらんだろうと勝手に解釈して乗り切ったから、今回もそれを踏襲するつもりでいる。

 おっと、話がそれてしまった。 実は、「2003年の○月○日付けのあなたの日記に関して意見が、、、」というメールを頂いて、一体何を書いたのだろうと読み返してみたら、含羞があって冗談めかしているが、結構本気で書いた話だったので、賛否いずれにしても反応していただいたのはとても嬉しい。それにしても一年前の僕の日記は今と大して変わらない。ということは成長していないということかも知れん。もういい加減責任を持って日記を書かねばならんなぁ、と、このところ痛感させられる。

 

2004年7月2日(金) 僕達阿保リズム(アフォリズム=金言、警句)
 元一流企業のコンピュータ技術者というのに、どうしたことかTEL氏にはNET環境が無い。それをいいことに、何だかんだと散々彼をこき下ろしているが、どうやらたまにはどこかで僕の日記を読んでいるらしいから危ないことは書き難くなった。

 なんでも駅前辺りにシルバーを対象にした施設があるらしく、そこに入り浸って只でNETがやり放題らしい。都合のいいときだけシルバーの肩書きを遺憾無く活用する彼は、只という話があれば金に糸目を付けない本末転倒した人でもあるから、全国の只関連の施設に関する情報には大変詳しい。その手のホームページでも立ち上げたら有益のようにも思うが人に只でものを教えるのは嫌なのかもしれない。

 遍路道を歩いたときにはお接待三昧で、彼の只欲求は大変に満足させることが出来て感激したから「お礼参りをしよう」と言う事で話がついた。只只と連呼してはいるが、金を使うときにはしっかり使うという折り目正しいところがある彼は、しかし終わってみるとやっぱり得をしていることが多いみたいだ。僕も只が嫌いな訳ではないが、僕の場合は終わってみると「只ほど高いものは無い」という金言を噛みしめることになっているのが通例だから、損な性格に生まれついたものだ。全くTEL氏の才能が羨ましいよ。

 

2004年7月1日(木) 月桂冠
 酒が目的なのであって、今話題の新撰組探訪が目的ではないのだけど、京阪電鉄を中書島で降りると、そこは歴史の逸話に事欠かない紛れも無い京都の一部だった。

 仕事で車を運転して通過したことはあっても、伏見という町に自分の足を地に付けたことが無かったのだから、酒通などとは口が裂けても言えないし、酒蔵見学もまだほんの2回目だから、僕は只の「アル中」と言う範疇に分類される男なのだろう。先導してくれたTELに至っては、酒蔵関連の仕事をしていたと言う割には、吟醸酒や純米酒が好きではなく、アル添、グルコース添の安物の代表みたいな酒に、氷を入れて飲むという、僕に輪をかけたような日本酒オンチの徒だから何をか言わんやである。

 デフォルトで酩酊している様な三人組を迎えてくれた大倉記念館の方は、ボランティアガイドの好々爺だった。特に月桂冠のPRをするでもなく、昭和の時代を懐かしむ会話をしながら試飲のお酒を頂いているうちにすっかり酔ってしまった僕達は、その勢いを駆って、お隣の黄桜酒造になだれ込むのだった。

 「針魚(ハリザカナ)定食を下さい」。黄桜酒造のレストランでTELがウェイトレスの女の子に注文したが、「サヨリ定食でございますね」と言われ、僕たち一同は大恥をかきながらもお昼ごはんを頂いて、次の目的地「石清水八幡宮」へと向かった。

 「石清水八幡宮は聞きしにも勝りて尊くこそおわしけれ」と思っていたほど荘厳な佇まいでは無かった、と言うよりきらびやかな趣で、僕にとっては長年のわだかまりを払拭するに十分な威厳が漂っていた。仁和寺のある法師が見ること叶わなかった神社を1000年後の僕が目にしている幸せを思わざるを得ない。

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