HAL日記


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2004年8月31日(火) 船乗り
 ほとんど家にいなかった船乗りの父がたまに帰ってくると、父は朝昼晩、規則正しく仏壇に手を合わせた。線香の匂いが大嫌いで仏壇に線香を立てない母への当てこすりか、先祖をうやまう心の無い僕に、自身は無神論者のくせに、ワシが死んだらこれ位の事はやれ、と言わんばかりに敬虔に祈る姿を見せ付け、家中が安物の線香臭くて仕方なかった。

 独学で乙種機関長の免状を取得したのが自慢だった父がクエートやフィリピンの外洋から帰ってくると、今では禁制品の鼈甲の剥製とか、そのほか趣味の悪い土産物を買って帰って来て応接間に飾ったが、それらは子供の僕が見ても騙されて買った安物に違い無かった。 

 

2004年8月29日(日) 心臓発作で片付けられた祖母の死
 気になる女の子がラジオ体操にまた来ることを期待して急に早起きになった僕は、それから毎日一番乗りで神社に行ったが、彼女とはそれっきり会うことはなかった。そしてその夏の僕のラジオ体操カレンダーは一日も欠けることなく赤丸で埋められた。

 翌年の夏、僕はすっかり彼女のことを忘れてしまっていたのだけど、お盆になると彼女は指きりでもしていたかのようにまた田舎にやって来た。僕はと言えばあいも変わらず話しかけることも出来なくて、彼女が水辺で戯れる姿を横目に見ながら悪餓鬼達と興じてひと夏を過ごすしかなかった。そんな僕に転機が訪れたのは中学1年生。祖母が90歳で大往生し、父が仲たがいしていた祖母の住んでいた家に引っ越すと言い出してからだった。

 封建的というより、意地悪婆さんみたいな姑に母は良く仕えたというのに、似た者同士の父と祖母がうまくいかず、狭い村の中を僕たち家族は放浪するように転居を繰り返して、とうとう祖母の死で本来あるべき家に戻った。父と祖母の間にどんな確執があったか知らないけれど、孫の僕たちを介してしかコミュニケーションをとらなかったことからすると相当なものがあったに違いないが、葬儀の後の霊前で父が、「かあちゃん・・・」と嗚咽をこらえ切れなかった姿を僕は忘れない。

 

2004年8月28日(土) 損な性格
 ラジオ体操などという、子供の情操教育にトラウマみたいに幼い心を蝕む忌まわしい行事を誰が発明したのだろうと、憤まんやるかたない思いで目ヤニをこすりながら近所の神社に登ると、大抵は上級生か父兄がラジオをセットして待ち構えている。体操が終わると夏休みのカレンダーに出席した日は丸印のはんこを押してもらうのだ。今はちゃんとしたハンコかも知れないが、当時は笹を切っただけのいい加減なものだったから、体操に出たくない僕は本気でハンコの偽造を考えたりしたものだった。

 ある朝いつものように体操が始まる寸前に神社の境内に到着すると、一組の見知らぬ家族連れがあった。たいていの場合、こうした人達は子供たちにはどうでもいいのだけど、少なくとも僕には特別だった。その家族連れに僕と同い年くらいの女の子がいて、可憐と言うわけではないにしても、田舎の子には無い清楚な面持ちが気になって仕方ない。

 翌朝僕がラジオ体操のために神社の境内に到着するとまだ誰もいなかった。早起きしすぎたらしい。やがて上級生が到着しても昨日の親子は現れない。なんだか拍子抜けして、なおざりな体操を済ませて帰ろうとすると昨日の女の子と目が合った。一人で遅れて来たらしく、僕が気がつかなかったのだ。何か話しかけたかったのに、何も思いつかなかった。よしんば思いついたとしても気後れして話しかけられなかっただろうし、それは今でも変わらない。それでずっと損をしてきた気がするし、この先もそうに違いない。

 

2004年8月26日(木) バクダン
 怪我をさせるといけないのでよその子と遊ぶな、と叱られるまでも無く、喧嘩のやり方も心得ていない様な都会の子供とは遊びたくなかったし、その日は誰とも遊びたくなかった。ただ一日中ふて腐れていたかった。

 村には一軒だけ商店が在って、日用品やお菓子やおもちゃも売っていたが、その店に入ってバクダンと呼ばれる、風船にピンポン球くらいの丸い氷が三つ詰まったようなアイスを手に取り、ちゅうちゅうしゃぶりながらポケットから10円を取り出した。ところが出てきたのは5円玉だった。バクダンは5円では買えないのだ。

 顔から火が出そうだった。とっさにしゃぶっていたバクダンと5円をおばちゃんに渡し、走って店を出た。やりきれなかった。西瓜畑の中を、あても無く走って空を仰いだ。照りつける太陽に焼かれてしまいたかった。

 畑の中を肩を落としてとぼとぼ歩いていると、店のおばちゃんが着物の裾をまくりながら僕の名を呼びながら走ってくる。「HALちゃん、今日だけバクダンは5円よ、これHALちゃんの」と言って、僕がしゃぶりかけたバクダンを手渡してくれた。

 溶けかかったバクダンを握り締め、しゃぶりながら僕は畑の中を歩いた。甘いはずなのに塩辛かった。喉が渇いているはずなのに熱いものが逆流してきて飲み込めなかった。4年生、ひとの優しさを知った夏でもあった。

 

2004年8月25日(水) ランボー者
 今はもう名前も顔も忘れてしまったし、何の係累があって田舎に避暑に来たのかも知らない都会の男の子と喧嘩した。喧嘩と言うよりは短気で粗暴な僕が一方的にその子を傷つけたのであって弁解の余地は無かった。たまたま休暇で家に帰っていた父は、相手が棒切れで僕にかかって来た事に憤慨していたが、母は僕の手を引いて当の子が滞在している家に謝りに行った。

 男の子の顔は思ったより醜く腫れ上がっていて、僕がどれほど酷い仕打ちをしたのか初めて知った。それでも僕だけが叱られることにはどうにも納得が出来ず、不満を訴えようとして母に頭を叩かれ、断念した。この手のトラブルはそれ以後も僕について回り、中学の頃に同級生を病院送りにしてからというもの、粗野で乱暴者というレッテルが僕には貼られ続けた。

 

2004年8月24日(火) 避暑の子等
 田舎の子供が夏休みにするする事といえば、理不尽な早起きを強いられるラジオ体操に始まり、夏休みの友だかなんだか目の上のたんこぶみたいな鬱陶しい宿題を申し訳程度に落書きし、後は近所の子達等と虫捕りや海水浴をして真っ黒になりながら一日中遊んで過ごした。他にすることもなかったし、それで十分楽しかったから旅行に行きたいとも思わなかったが、近所には里帰りで連れて来られる見知らぬ子供達が増え、地元の僕たちは色白で上品な都会の子を前に緊張しながらも少しづつ交流を始めるのだった。

 まるでプライベートビーチみたいな狭っ苦しい砂浜に田舎の子等と都会の子等が混成で遊ぶわけだから、いつの間にやら仲良くはなれるのだけど、彼等の話す綺麗な言葉に気後れする僕たちは普段よりかしこまって無口になったりしたものだ。ところが都会の子とはいえ元をただせば親は田舎の出なのだから僕等の話す方言にもあんまり違和感が無いらしく、彼等の方が方言に慣れてしまうのが少しだけ誇らしかったりする。

 

2004年8月22日(日) 恋の予感
 町と名が付いているのが申し訳ないような、村とのボーダーライン上にある田舎町の盆踊りの終わりに花火が打ち上げられるようになったのがいつの事だか記憶にない。僕がものごころ付いたときにはもう既にあったのか知れないが、たった一つだけ覚えているのは、小学校4年のころに見たほんの数十発打ち上げられた星空を切り裂く雷鳴のような明かりと、それに照らし出される見知らぬ少女の横顔だった。

 かつて村上水軍という名の海賊が根城にしていた瀬戸内の島々の一つに僕が生まれた昭和の30年代は、太平洋戦争の傷跡が癒えたというよりは、海運業と蜜柑農業で極めた隆盛が下降線を辿り始めたという時代で、年寄りは口を開けばジャガイモ数個と蜜柑一個の値が違わないのを恨み、湾内に何十艘もの機帆船が停泊していた光景を子供たちに懐かしく語って聞かせた。若者は職を求めて都会へと向かい、子供たちの数も激減する、過疎と形容され始めた至難の時代だった。

 

2004年8月21日(土) 梅酒のその後
 今年の6月に漬けた梅酒の様子が気になって仕方ない。皺を刻んだ梅の実は下に沈んで、氷砂糖もすっかり溶けてしまっているからもう飲めてもおかしくはない。いや決して賎しく飲みたいわけでは、、、いや、やはり後日の研究のために飲んでみよう。

 グラスに注いだ琥珀色の、というより赤ワインを混入したクレモナのバイオリン色したウォッカ臭いはずのアルコールは、既に梅に支配されていて、色のほかは普通の梅酒と味も香りも変わりないものだった。

 う〜ん、旨い。といっても梅酒以外のなんでもない。せっかく工夫して色んなものをブレンドしたというのにこの有様だ。所詮は梅の前にウォッカも葡萄も敵では無かったということか。かくなる上はミントみたいなハーブでも入れるしかないようだ。来年の楽しみに取っておくとするか。

 

2004年8月20日(金) また歩くために
 お礼参りから帰ってきて、皆様にお礼の品を贈ろうと色々準備していたら、「華美なことは慎め」と、TELさんにたしなめられた。はて、この人は一体何を言っているんだろうと怪訝に思ったが、飲んだ翌日冷静になって考えてみたらその通りだと思う。

 僕達が遍路の姿をしていたときに頂いたお接待は、同行二人のお大師さまにとか、現世利益への功徳を積むといった宗教的なものでもなく、また巡礼の苦行に身を苛まれる者へ同情、といった言葉だけでは説明の付きそうにないもので、何と言っていいのか、もっと人としての根源的な衝動に根ざしたもので、稚拙な物言いをすれば性善説を具現化したものであったという印象だ。

 「先日は有難うございました。私にもお礼を言わせてください。年賀状をしたためたいと思いますので、住所を教えていただけたら幸いです」。これは先日お会いした方から頂いたメールだが、実に危険な匂いを感じる。もしも住所を知らせたりしたら、金銀財宝でも送られてくるような気がするからだ。それでなくてもこの方には金銭に換算出来ないお接待を頂いている。これ以上何かを頂いたらお返しのしようがないのだ。

 僕はこういった善意の方々から逃げ隠れしているというのに、これ以上皆様にお返しのお返しをさせることになるのは本意ではない。まるでモンタギュー家とキャピュレット家のように子々孫々までお返し合戦を展開しなければならなくなる悲劇はなんとしても避けねばならない。せっかく用意した気持ちだが他へ使うとしよう。僕たちがもう一度遍路道を歩ける幸せを続けられるような何かのために。

 

2004年8月19日(木) 近頃気になること
 断食が開けて一月間は習慣性のあるもの、酒とかコーヒーを口にしてはいけないと戒められていたにもかかわらず、帰るなりどちらも口にしてしまった僕はもうすっかり断食前に戻ってしまって、アルコールとコーヒー漬けの毎日だ。

 酒は毎日大量に飲むから朝起きると酒臭いのが自分でもわかるが、夏場になると酒臭い上にコーヒー臭い汗をかくような気がしてきた。その上に友達がしきりに納豆を勧めるものだから三食に納豆を食べていると、酒臭くてコーヒー臭のする納豆臭い汗をかいているんじゃないかと心配でいけない。

 実家に帰り、母自慢の手作り味噌の汁を毎日飲んでいた時には気が付かなかったが、こちらに帰ってくると酒臭く、コーヒー臭く、納豆臭い上に更に味噌臭さが加味された汗をかくようになった気がしてもうどうにも落ち着かなくなった。

 そして昨日餃子で飲み会をやったからさぞとんでもない体臭になっているだろうと朝起きてみたら、確かに自分でもわかるくらいニンニクくさいが、ニンニクが他の臭いを消してくれているのか酒、コーヒー、納豆、味噌、どの臭いも全くわからない。ということは一安心して人前に出られるということか。今日からスポーツクラブでニンニク臭い汗を流すとしよう。

 

2004年8月18日(水) 台風が心配
 反省会と称してその実、お礼参り無事帰還祝賀を同行した3人のメンバーで挙行した。とはいえ旅費の清算を除けば通常の飲み会と大して変わり映えしないという、何かにつけて飲むのが好きな連中なのだ。

 足の臭いをもって僕の新車を陵辱してくれたTELさんが言い出した反省会だから、少しくらい反省の色でも見せてくれるのかと思いきや、「お礼状を頂いたから見せてやる」と達筆でしたためられたご丁寧で情緒豊かな残暑見舞い風のお礼状を見せてくれる。その上彼は、どうもご婦人の名で頂いたことを勝ち誇っているらしく、金メダルでも取ったかのように狂喜乱舞する姿は見るに余りある。

 かつて遍路中に雑誌の取材を受け、我々二人の写真が載った当の雑誌を肌身離さず持ち歩き、会う人毎に見せびらかして一月ほどを楽しんだ彼だが、まさかあのお礼状を持ち歩くのではあるまいか。いや既に頂いてから一週間が経過しているから、あちらこちらの友達を訪ねて行っては胸を張ったに違いない。幼子がサンタさんに貰ったおもちゃを自慢して回るのに似ている。夢を壊すといけないので僕にはお礼状が来なかったことにしておこうか。

 お礼状のお礼をメールで出す前に、とにかく壊れたパソコンからデータを取り出せるだけ取り出そうと思って色々試したら、40GBほどのデータは失ったが、PCそのものはハードディスクの交換だけで回復したので、反省会という名の祝勝会に出かけたわけだ。四国では台風15号が猛威を振るっているというのに、餃子を食いながら大騒ぎをやらかして顰蹙を買う罰当たりな三人組なのだった。

 

2004年8月17日(火) 唐突にやってくる
 2週間も休ませてやったというのに、家のパソコンの奴(SOYOTIAN)はいったいなぜ僕に反旗を翻すというのだろう。ソフトのインストール、アンインストールを繰り返し、さらにレジストリーを見直して快適になったと思うや否やマザーボード、つまり御神体がまたもや御隠れになった。

 遍路のお礼参りついでにYUTIANのやつにホームページを渡してやれたから彼女とは縁が切れたが、よもやSOYOTIANと別れる羽目になろうとは思いも拠らなかった。しかし人間でいうなら良く働くんだけど、YUTIANみたいに少々怪しげな奴を相当なお婆ちゃんにしたようなものだから、これ以上鞭打つのもかわいそうだし、そっとしておこうか。

 この1週間ほどお礼参りと称して夜毎痛飲したから、実家に帰ったら酒を控えておこうと思っていたのに、冷蔵庫を開けてみるとビールが所狭しと詰め込んであった。アル中ハイマーの僕を喜ばそうと、母が用意していたのだから、期待を裏切るわけにもいかないので、朝から飲みながら父が撮った写真を見ていると、神棚にあったという古ぼけてセピア色に変わった虫食いだらけの写真を母が持ってきた。祖父が所有していた小さな貨物船の記念写真らしかったが、人影が小さくて母にも舅の姿は特定できない。

 祖父は働き盛りで亡くなったらしく、写真も残っていない。その反動かどうかは知らないが、同じ船乗りだった父は下手な写真を沢山撮っていて、友達らしい写真も多いのは人と酒と博打が好きだったからだろうか。そんなポートレートの中に若い母の写真を見つけた。当時の女性としては背が高かった母も、今ではすっかり腰も曲がり、小さな老婆になってしまっている。YUTIANが家に泊まった時に撮ったツーショットの深く刻まれた顔の皺を見て嘆く母を見ると、「早く田舎に帰らなくては」と、気は焦るがまだ準備が整わないのは情け無い限りだ。

 

2004年8月15日(日) 迷惑なんだよ!
 「麻美で〜す。この冬はスノボを思いっきり楽しみたいです。今からメンバー募集するんだけどどう?」とか、「30歳の人妻なんだけどチョ〜ひまぁ。誰か割り切った付き合いしてくれる男性探してます」や、「包茎だと聞いたのでメール差し上げてます・・・」。

 キャッチメールと呼ぶのかどうか知らないが、この手のそそられるような迷惑メールが増えた。どうやらアダルトサイトみたいなところへ誘い込んで高額な使用料を請求したりするらしいから危険極まりない。

 知人にこんな迷惑メールの話をしたら、「いやいや、最近は60歳過ぎて包茎の手術する人が増えてるらしいよ」。ってそんなこと話してるんじゃ無いでしょうがぁー、ったく何処までもずれた方なのだが、更に続ける。「と言うのもね、老いて体が動かンなって、息子の嫁に介護をしてもらうことになった時に恥ずかしいやろ、そういう訳なンよ。で、その手術というのがねこれこれこうこう★☆○×◎んなことするらしいよ」。

 「ほほぅ〜!そうなんだ。本当にそんな風俗店の新企画みたいに楽しげな手術があるなら若い男が殺到しそうに思うなぁ」と、僕も思わず聞き入ってしまったが、それにしてもあんた体験してきたように詳しいのはなぜ?

 ともあれこうした迷惑メールにはウィルスが添付されている気配は無いので、何もしなければ心配は無さそう。早くアドレスを変えたいのだが、その後がとても大変そうなのでいまだに実現していない。

 

2004年8月14日(土) 遍路はエンドレス、お返しもエンドレス
 「名物住職の法話と瀬戸内グルメの旅」と銘打って観光バスが婦人会の御一行様をお連れし、御住職のありがたい法話を聞いた後に瀬戸内で獲れた魚を料亭で頂いて何事も無かったように日帰りし、主婦に戻って夕食を作る。そんな企画を旅行社が立てたところ結構な人気を博し、年間数十台の観光バスが僕の菩提寺を訪れるのだそうだ。ご婦人方を前にいったいどんな法話が説かれるのかは知らないが、聞いた人によると法話というよりは、まるでトークショーか漫談の趣があるのだとかで、奥様方には大好評らしい。

 御住職とは僕の父が亡くなったときに初めてお会いしたのだが、このときはさすがに漫談でもトークショーでもなかったが、法事のときに遍路、遍路と、なにやら呪文のように連呼されていたので睡眠学習法か、サブリミナル効果みたいに僕の脳裏に焼きつき、それで遍路に出たのかも知れないと思っている。その遍路の途中で月岡さんのコンサートや法事でお世話になったのでお礼に立ち寄った。

 施餓鬼法要が近いとあって、多忙な日々を過ごされているご様子だったが、1時間ほど立ち話をしてしまって時間の浪費をさせた挙句、お土産にとお渡しした一歩進ブランドのTシャツの変わりに、島四国のエンブレムが入ったTシャツを返されてしまった。なんとまあこれがスポーツシャツの生地にカラー印刷されたものでかなり出来のいいものなのだ。これには参った。

金剛力士、四天王、五大明王像は、お菓子のカバヤのおまけなのだそうだが、台座はオリジナルに制作した木製に漆塗り、金の印刷を施したもの。100セット近く集めるのに相当な苦労があったらしい。この像それぞれの制作家が違うらしいがとても良く出来ている。カラフルで楽しげなので一つ求めた。

 こうして今回のお礼参りは終了したが、実は住所氏名を控えておきながら行けてない所もある。そのほか道端で小銭を貰ったり、すだちを貰ったり道を教えてもらったり、車のお接待を申し出てくださったりと、頂いたお接待を思い出していくときりが無くなる。それらの全てにお返しをするのはとても出来そうに無い。もちろん僕に、というより遍路さんにお返しをして貰いたいという思いでお接待をするのではなく、同行二人のお大師様にお接待するのだとしたらお返しなど無用な気もする。「どうしても四国の方にお返しをしたかったので、遍路道沿いにあるトイレを片っ端から掃除してきた」という"あんちゃん"のようなお遍路さんもおられるだろうが、僕にはまだ出来そうにない。

 メディアなどで、「お接待するのは現世利益を信じているから」というのを聞いたりすると首を傾げたくなってしまう。お接待をする側の心理は一様では無い筈。中には創価学会の方に道案内のお接待に預かったりしているので、そういった場合にはお大師様ではなく、生身の僕にして下さったと思ったりしている。それがお接待と呼べるかどうかは別として、それらを全て解析して、どうお返しすべきか教えてくれるソフトでもあればいいのになどと考えるのは、罰当たりな初心者と言えるだろう。ともかく四国の皆様有難うございました。今の清浄な気持ちをこの先も持ち続け、伝えて行きたいと思います。これを持って僕のお接待返しとさせていただきたいと思います。南無大師遍照金剛。

 

2004年8月13日(金) 人を好きになれる道
 善根宿まんだらのあんちゃんは酒豪だと聞いていたが、医者から禁酒を言いつけられているらしく、当夜は日本酒にして5〜6合程度にセーブされていたようだったが、さすがに先達の仕事が出来るだけあって話題が豊富で相当盛り上がった、というより知らないことばかりでかなり勉強になった。職業遍路さんともお友達になれて充足した一夜を過ごすことが出来、しかも只で泊まって本当に良かったのだろうか。まんだらさん有難うございました。

 翌7日は体調を崩されて、死線を彷徨っているらしい"まいさん"をお見舞いした。不治の病と聞いているのでさぞや憔悴しきった姿で現れるだろうと思っていたら健康優良児を絵に描いたような美しい姿でいらっしゃった。はて?これはいったいどうしたことか。奇跡でも起こったかと思って聞くと、「手の施しようが無いので・・・」ということらしい。つまり検査の結果手を施す必要が無いというのが真相なのではあるまいか。しかしとにかく大事でなくて良かった。
 
 どうも罠にはめられたかも知れないなと、助手席に佇んでキャピキャピ話す彼女を猜疑の目で見ながら、目的地へと向う。目的地というのは、5日に訪ねたけど会えなかった方と連絡が取れ、彼女をその方に引き合わせるたくなったので急遽予定を変更して向う愛媛だ。僕を媒介にしてお二人は既にメル友の間柄ではあるらしかったが面識は無いとのこと。こういった未知の人同士に橋を架けるのが僕がホームページを始めた目的の一つなのだから願っても無いチャンス。

 名前を出すのはやっぱりまずいので、まいさんと大川さん(仮名)は大川さんの計らいもあって三人で楽しく食事し、椿堂にも一緒にお参りするうちみんな仲良くなれたと思う。次回は一献傾けながら会いましょうと約束して別れた。大川さん突然申し訳ありませんでした。是非とも実現したいです。民宿岡田さんも訪ねることが出来たし、いざり松も見れたしで一生に何度も無い充実した一日だった。遍路道の皆様美しい時間を下さって有難うございます。お大師様を媒介に人と人が触れ合う喜びを知ることが出来ました。これこそが遍路の醍醐味と思います。

 これにて今回のお礼参りは全て終了。と言いたいが、実は最後に予定しているところがある。遍路を始めるきっかけとなった菩提寺の名物和尚を訪ねるのだ。

 

2004年8月12日(木) 結願とは言えないが
 8月6日朝7時、民宿長尾路を出てすぐ前にある87番長尾寺にお参りすると30歳くらいの精悍な、お坊さんのような風貌の歩き遍路さんが本堂前で長い時間無言で手を合わせている。今回の遍路で初めて出会った歩きの方だ。僕は納経する必要が無いので、ちらと挨拶して早々に大窪寺を目指して歩き出した。

 5km程歩くと、後ろから近づく人影がある。さっき会った青年だとすぐにに分かった。実に変わったなりをしているからだ。背中にはザックに差し込んだこうもり傘、剃髪にバンダナ、手に金剛杖は無く、代わりに石鹸とPETボトルを入れた青いポリバケツを提げている。誰が見ても野宿遍路だが、テントらしきものは持っていそうに無い。念のために聞いてみたら、「善根宿や通夜堂にも泊まりません、屋根の無いところにも寝ます」ということだったが、虫対策はどうしているのか、蚊に狙われたら落ち着いて寝られんだろうと言うと、「耳栓しますし、蚊には食わせ放題です。寝ている間に荷物を盗られたら仕方ないです」。筋金入りの野宿派らしい彼の話は興味深かったが、途中の道の駅で彼は食事と休憩し、僕は山道へと分け入った。

 どうと言うことも無い草深い道を進んで行くと、小川の流れている少し綺麗な場所に出たので、担いできたビデオカメラでも取り出そうかと立ち止まったら、小蠅ほどの小さな虫に取り囲まれ、あちらこちらを刺され始めた。虻もやってきて僕の周りを何匹か飛び回り始める。 これはもうビデオカメラどころの騒ぎじゃない。早々にザックを担ぎ直して歩くのだったが、虫どもは恐ろしい吸血攻撃を止めようとはしない。

 よしよし、こんなこともあろうかと100均で虫よけスプレーを買っておいたのだから使うのは今だ。そうして露出している部位全てに満遍なくスプレーしたというのに、虫どもの数が減らないどころか蚊まで参加し、一向に攻撃の手を休める気配が無いのはどうしたことか。ひょっとして"虫よけ"スプレーではなく、"虫よせ"スプレーを間違って買ったのではあるまいかと、よくよく読んだが間違いなく虫よけだった。こんな物に金をケチったばかりに大変な目に遭うのだから貧乏は哀しい。

 額から滴って目に入る汗を拭い、何処までも執拗に追いかけてくる虫どもを追い払いながら進んでいると、一匹の痩せ細った犬が現れた。まだ仔犬のようで、遊んで欲しいのか僕の周りを激しく廻りながら飛び掛ってくる。こいつも毛皮を纏っているのだから、さぞや暑かろうと思って手の平にお茶を汲んで飲ませてやると、ぺチヤぺチヤ飲むだけでなく指も腕もそこらじゅう舐め回された。おいおい!中国製の虫よけスプレー!一体どんなフェロモンを入れとるんだ。お前のおかげで今度は犬が寄って来たじゃないか。もうこれ以上フェロモンを発散さながら歩いて、万が一猪にでもやって来られてはたまらん。湧き水にタオルを浸し、体を冷やすついでに不気味なにおいを拭き取った。

 体が動かん!汗をたらふく吸い込んだジーンズが重くへばりついているせいばかりでなく、本当に体全体が動かないのだ。それもそのはず、究極のダイエットを試みるためにと、栄養らしいものを摂取したのは朝一番に飲んだスポーツドリンクだけだ。この蒸し暑さの中を良くぞここまで登って来れたものだ。しかしそうやって自分を褒めたところで足が動くようになるわけでもない。このまま山中で倒れても、車道を歩くと言っていたあの青年遍路は来ないのだ。すると僕は野たれ死ぬしかないのか。とんでもない、プチ遍路で野たれ死んだとあっては一族郎党に顔向け出来ん。

 自分に鞭打ち、草を掻き分け、虻の攻撃を振り切りながら歩くと、唐突に車道に出た。標識には女体山頂上まで数百メートルとある。確かこれを超えると後はただ下るだけの1km程度。何とかなりそうだったので車道を選ばず、もうこれが最後の力とばかりに休み休み崖を登りやっとのことで山頂に到達。どうにも表現し難い爽快な気分だ。20分ほど休んで残りを下る。

 山道から大窪寺に入ると本堂前には既にあの青年遍路が到着しているではないか。しかも本堂でのお参りも済ませて大師堂に向っている。僕はタオルを洗い、上半身を拭って着替え、念入りにお参りした後、長尾路のお孫さんへの土産を買うために売店に入った。そこのご主人から、僕の歩いて来た道はハイキングコースで、本来の遍路道は車道なんだと教わった。なんと僕は間抜けなんだ。

 青年遍路と談笑しながら食事をした。先ほどまで無口だった彼がうって変わって饒舌になっている。結願の喜びが彼を解放するのだろうか。無言で長時間拝んでいた悲壮感さえ漂う姿はもう何処にも無かった。

 お礼参りの徳島へと歩き始めた青年を見送り、1時半出発の長尾行きコミュニティーバスに乗った。結願の喜びは僕には無いが、歩き残していた道が一つ消えた充足感は確かにある。車を置かせてもらっている民宿長尾路さんまでの30分、僕は抜け殻のように車窓から遍路道を眺めていた。

 

2004年8月11日(水) プチ遍路
 僕の日記は自身を例外に、原則として美男美女しか登場しないことになっているので、yutianを美男に分類するべきかそれとも美女と呼ぶべきかは悩ましいところだが、嫁入り前の娘という自己申告があったので美女ということにしておこう。諸々の事情を知らない僕の知人の下衆野郎どもは僕が彼女とよろしくやっていると思い込んでいるらしく、「いつ結婚するの」とか、「俺にも紹介しろ」だとか、うるさくてしかたない。

 彼女に興味があるならいつだって紹介してやるが、彼女自身はNET上のミステリアスな女でありたいのか、何処にいるかは内緒ということになっている。それでもどこから噂を聞きつけるのか、男ではなく若い女性遍路さんが彼女を訪ねてくるみたいだ。僕が彼女と会って本堂にお参りしているときにも学生さんっぽい美人自転車遍路さんが彼女を訪ねてやってきた。まんだらで再会しましょうと言って別れたが、ペースが合わなかったので結局は会えずじまいに終わる。

 8月5日は、とある方をいきなり訪ねるためにメールしたが、突然のことで会うことが出来ないまま香川に戻り、一宮寺にお参りした後プチ遍路を始めた。当初からこんな予定を立てていた訳ではなく、別の方が不治の病にかかり、今日明日をも知れないと聞かされたのでその方の検査が済むまで遍路で待機し、その方の健康を祈願したというのが真相なのだ。

 一宮寺から屋島寺の間は高松市内を歩くので、面白くも無かろうと思っていたのだが、意外にも仕事で訪れた事のある場所を歩いたので新しい発見がいくつもあり楽しかった。屋島寺に着いたのは6時前とあって人影はほとんど無く、静寂に佇む本堂は別のお寺かと思わせる。暫し閑散とした境内で回生される時を味わったあと、近くの方を訪ねたがこちらも会えなかった。

 電車で一宮駅に戻ると遍路姿のデカイ外人さんが駅舎に佇んでいて、夜にもかかわらず、こんにちはと声をかけたら何語だか分からない言葉で返された。彼の表情には疲れが見えたが笑顔がとても爽やかだったので、きっといい旅をしているに違いない。今夜の宿は昨年結願の前夜に泊まった長尾路さん。あの日も遅くまで酒を飲みながら話を聞かせていただいたが、今日も10時前に到着。商売だからお礼返しというのも変だが、またもご迷惑をかけることになってしまったのだった。

 

2004年8月10日(火) 肩の荷を降ろす
 雨に煙る山肌を眺めながら朝から温泉に浸っていると、雨の日も良いもんだと思う。せっかくの日なのにどうしても晴れて欲しかったとは思わない。昨夜一同で語り合った余韻が僕の心を豊かに、優しくしているのだ。言葉にはしないが、一緒に湯船で体をほぐしているTELさんも同じ思いに違いない。この温泉が循環式だろうが、かけ流しだろうが、はたまた、たれ流しだろうが、もうそんなことも自分の存在さえもどうでも良くなるほど湯が体に沁み込み、綻んでいた心までもほぐして修復してくれるのを感じるのだった。

 むせび泣くようだった空はやがて本格的に崩れ、容赦なく歩き遍路さんの上に雨を降らせている。運転しながら気の毒なお遍路さん達に自分を投影してみるが、今ならそれも良いものだと思えてくるから不思議だ。別れの時が近づいてくるにしたがって切ない気持ちが込み上げてきても、それすら美しいものに思えてくる。お昼を一緒に頂いてから先様と別れ、松山でTELさん奈美さんとも別れ、一人でyutianの待つ某寺に向う。

 小娘のお接待なんぞになれるかと、yutianの申し出を一旦は断ったが、何やかやと言われ、まあそれで彼女の気が済むなら僕のくだらないプライドなんか捨てるのにやぶさかではないが、翌日のプチ遍路の時ならいざ知らず、今は生HAL。心良くお接待にあずかりますとは言うもののやはり後ろめたさは拭えない。

 某寺に着くと体調を崩しているらしいyutianが丸めた頭で迎えてくれた。この子は本気で尼僧になるつもりなのだろうか、それとも坊主頭が好きなのか知らないが良くやっているなと感心する。声が大きくなっているし、立ち居振る舞いに大人らしさ(大人の女ではない)を感じる。たった三月程の寺男修行でこうも成長するものだろうか、このお寺の水が余程彼女に合ったに違いない。立派な尼僧になれよ。ホームページを彼女に渡し終え、すっかり疲れてしまった僕は酒も飲まずに眠ってしまうのだった。

 

2004年8月9日(月) 至高の時が流れる
 翌8月3日の朝は昨夜までの不安定な天気が嘘のように晴れ上がっていて勝ち誇りたい気分だ。ここスーパーホテルは朝食が只なのでパンとコーヒーを頂いてから愛ちゃんの店に挨拶に行ったら三人分の朝食を用意してくれていたのだが、只飯を卑しくも腹一杯詰め込んでしまったので辞退せざるを得なかった。せっかく待ってくれてたのにゴメンナサイ愛ちゃん。

 まんだらのあんちゃんと松山の愛ちゃんとの再会は、お世話になったからというよりは、単に会って遊びたいという理由だけの気もするが、お接待のお返しはここからが本番。気合を入れて行かなければならないと言いたいところだが、「HALが遍路の"なり"をしていたからお接待したまでで、生身のHALなんぞお呼びではない」と言われそうな方もおられるか知れない。そうした先様の意向やポリシーみたいなものを斟酌することなく一方的に「お礼参り」などと称して、このくそ暑くて忙しい時期に無理やり押しかけ、賞味期限の切れた生HALをごり押しされるのだから先様もたまったもんじゃなかろう。

 こうして罰当たりな三人組はお接待返しの美名の下に愛媛観光を始めたわけだが、この先のことは相手様のあることなので書けない。いや、そうではなく、皆様と過ごした至福の時間が濃密で、僕の力では書けないというべきだろう。ただ、心が浄化されたように思えるのは確かで、この先の僕の人生は皆様と過ごした思い出を糧として生きて行けそうな気がする。この気持ちをどうにかして大勢の人に伝えたいものだ。

御一行とロッジの従業員さんを前に、恥ずかしながら余興をしました。思いのほか喜んでくださって、恐縮するHALなのでございました。

 

2004年8月8日(日) 晴れる予感
 つづき
雨が上がったかと思うと、またドシャ降りに見舞われたりしながら松山市内のスーパーホテルに着いた頃には街もすっかり薄暗くなっていて、傘をさして道後温泉に出かけた。

 チンチン電車を道後温泉で降りると、商店街は何かのイベントがあるみたいに賑やかで、温泉の前にも人だかりが出来ている。5月の連休の時みたいに待ち時間を覚悟したが、意外にすんなりと入れて、中も拍子抜けするくらい空いていた。暫し坊ちゃんの気分に浸りながら柔らかな湯を堪能していたが、学生さん達が団体でやって来て急に込み始めたものだから、名残惜しくはあったが逃げ出すようにして湯から上がった。

 先ほどまで一緒に入っていたはずのTELさんの姿が見えないのは、東西に別れた湯船の片方に入っているのだろう。いくつになっても好奇心旺盛な方だ。それにしてもこちらの従業員の方は皆さん愛想がいい。これほど有名な観光スポットともなると高飛車な態度に出がちなのをしっかり戒めている感じだ。それをいいことに、「東西の湯は循環させているんですか」と、掃除のおばちゃんに不躾にも聞いてみたら、ややむっとした表情で、「循環させておりません。自然のままです」と、ぴしゃりとやられた。 そうなのか、道後温泉は営業時間が過ぎると徹底的に掃除をするとは聞いていたが、フィルターを用いた循環式ではなく、かけ流しと呼ばれる湯を捨てる方式なのだ。

 そうこうしている所へTELさんが湯から出てきて、同じおばちゃんをつかまえて、「良い湯ですねぇ、肌がつるつるになるね、毎日入っていたらあなたみたいに美人になれるんかね」などと、女性を見ると節操も無く声をかける。「ところでこちらの湯は"たれ流し"ですか」と、僕と同じような質問を投げかけたが、おばちゃんはニコニコして、「いえいえ"かけ流し"でございますよ」と優しく答える。

 子供の頃から同じいたずらをしても、僕みたいに先生にきっちり叱責されるタイプと、大目に見て貰えるタイプがいることに憤懣を覚えていたものだが、TELさんはどうやら後者の、得をする側の人間であるらしい。それが彼の徳なのかも知れないなと思いつつも、嫉妬を感じないではいられない。

 店の名がそうなのでママさんのことを"愛ちゃん"と勝手に呼んでいるのだけど、それが本名かどうかは知らない。春の遍路でホテルの周りに他に見つからなかったから仕方なく入った飲み屋だったが、とても楽しい方で、翌朝僕とTELさんを石手寺まで連れて行って下さったのだ。お礼にTシャツをプレゼントしたら、さっそくカウンターの中で着てくださる。閉店まで3人は飲みまくり、ママさんも常連客を放ったらかして騒ぎまくり、店を出るとすっかり雨が上がっていた。星こそ見えなかったものの「明日はきっと晴れる」と確信する3匹の大虎共だった。

 

2004年8月3日(火) 前門の虎後門の狼
 つづき
 ガソリンも満タンにし、ついでにトイレ休憩も済ませることが出来たから大した時間のロスじゃないなと、一人で納得しながら淡路島特産玉葱畑を傍目に見ながら走り始めると、何にやら異臭が漂ってくる。畑の肥料の臭いというより何かこう、もっと動物的な臭いで、犬や猫のマーキングの臭いがこんなものかと思わせる。慌てて外気導入を車内循環に切り替えたら、更に臭いが強烈に立ち込めた。吐き気がしてきて悶えていると僕の左手の肘掛のところに後席のTELさんの足が見える。しかも靴も靴下も脱いでさわやかに足を投げ出して休んでおられる。これか!臭いの元凶は!と判明したからすぐさま窓を全開にして、外気導入に切り替えたら今度は玉葱畑の臭いに襲われた。車内からは動物臭、外からは玉葱の腐敗臭。前門の虎後門の狼というのはこういう事態のことを言うのだろうか。

 後ろのTELさんに抗議したが、彼はHALなんぞナメ切っておられるので蚊が鳴くほどにも聞いていない。いやそれどころか後席に長々と寝そべって、私の新車のシートに、あろう事か足を擦り付けてマーキングを始めるではないか。これにはさすがの僕も激昂したが、「大丈夫、大丈夫、一過性のものだから」と、柳に吹く風のごとくいなされる。時間が経つと共に足が乾燥してきたのか、我々の鼻が慣らされてしまったのか、余り臭いを感じなくなった。しかし我々はこれでも良いとして、この先お客様を乗せることになっているのだが大丈夫だろうか。さあどうぞ乗ってくださいとお勧めしたら、「HALさん、なんかこの車臭いませんか?」などと言われたりしないかと心配でならない。

 思いも拠らない突発的な惨事に見舞われ、運転手の僕は一時パニックになったが高速に乗ってしまえばもう安心だ、目指す、善根宿「まんだら」まで後一時間程だろう、と思っているところへ、「災害通行止め、次の出口で降りろ」と指示が出ていて、出口は大渋滞。助手席の奈美ゲーター曰く、「高速乗る時に表示が出てたよ」。そう言われれば僕も何か見たようだったが、あの時は臭いにパニくっていたからそれどころじゃなかった。犬年に生まれたせいか、鼻が利くことを恨みつつ地道を運転する。

 ほうほうの体で「まんだら」に着くと、もう4時前。事前にお土産として発注しておいた、「一歩進(いっぽしん)」ブランドのTシャツを「あんちゃん」が用意していてくれた。どうやら記念すべき初出荷の品らしい。何でも初物は良いが、もっとブランドを堂々と胸辺りに刷っても良いんじゃないだろうか。ともあれ、予定を大幅に超過してぐったりしていた我々も、近所のうどんやさんで美味しい釜玉を詰め込み、お腹の風船も膨らませた後はただ松山のスーパーホテルを目指して2時間程度走るだけだ。
                                 つづく

 

2004年8月2日(月) TravelはTroubleから
 ゴルフの前のお父さん達の様に、遠足の前の子供達のように、挨拶参りに浮かれて寝られなくなるといけないので酒を飲んで早めに休んだら無用の早起きをしてしまったけど、コーヒーを飲んでゆっくり風呂にも入って天気予報や道路情報も見れたからまずは上々の出だしと言える。

 TELさんと奈美さんを迎えにいって高速に乗ると、一息ついたTELさんが奈美さんの作ってきてくれた弁当を食い始めた。そういえば僕もコーヒーを飲んだきりだからお腹は空いているが、運転しながらの飲食は控えたほうが良かろう。それにしてもいい匂いをさせて美味しそうにおにぎりやらおかずを食いやがって、そこは運転手の助手をする人の席だろう。運転手の僕をイライラさせてどうする。次のパーキングで僕も頬張ってやる。

 目指すパーキングに停めて弁当を頂いたまでは良かったのだが、良く考えたらルートが違うじゃないか。何通りもあるうちの最も混雑しているルートを選択してしまうとは、何百回となく阪神高速を走っていながら何たる失態。予定を変更して違うルートに入ったら事故渋滞に巻き込まれた。

 1時間以上もロスをやらかして阪神高速から山陽道、鳴門自動車道に入ると、雨は降ってきたが概ね順調であるなと思いつつ、ふと慣れない新車のメーターを見るとガソリンが無いじゃないか。いつからか、黄色の警告ランプが点灯していて針は既に赤い部分に来ている。この先のサービスエリアで給油しようと思ったが、後席で地図を見ているはずの奈美さんは省電力モードに入っているではないか。TELさんに確認してもらったら、次の出口で降りなければ高速道路上でガス欠になることは確実らしい。

 不本意であるが高速を降りざるを得ない。またしても大失態をしでかしたが、お二人が特に僕を責める風も無いのは有り難い事だ。給油を終えてTELさんが後席に移り、目覚めた奈美さんが奈美ゲーターを買って出てくれたのだが、これが僕たちの更なる試練の始まりだった

                                 つづく

 

2004年8月1日(日) いよいよ明朝出立
 「挨拶にいきます〜」と迂闊に口を滑らせて、先様にとんでもない迷惑をかけてしまっているので心苦しい思いなのだが、この期に及んでも未だお土産を買っていない。いや既に何にするかは決まっているので。後は道中で入手するだけのこと。TELさんが何を買ったのか知らないが、まず二人が同じものを選ぶことは有り得ないだろうからダブったりする不安は無い。

 僕の場合は実家が愛媛なので、里帰りとか何とかで四国に行くのは造作も無いが、関東方面や北海道に住んでおられる方がお接待になったお礼に、と思ってもなかなか大変だろう。住所を聞いておいて何か送るんだろうか、それとも、お接待は見返りを求めてのことじゃないのだからと、何もしないんだろうか。一体皆さんどうなさっているのか聞いてみたい。

 何をお土産にしていいか大変悩んで、先様にヅケヅケと聞いてみたら、「痩せる呪文を手に入れて来てくれ」という、目から鱗のアドバイスを頂いたが、そんなもん余計に悩むじゃないですか、こっちが欲しいですよ。「つまりは気持ちだけで良いということか」と、勝手に安らいで、というか開き直った。しかし気持ちはどこを探しても売って無さそうなので、すぐには消えてなくならない物を選んだ。まあ、皆さん期待しないで待っていてください。

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