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HAL日記


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2006年5月31日(WED)  夢みる貴賎
 バイオリン教室の隣はハンサムな青年が歌とピアノを教えるとあって、あまたあるピアノ教室の中でも人気がある方だろう。元ピアノ教師のお姉さんまで彼の門下に名を連ねるくらいだから、ピアノの腕前もさることながらトークも上手なのに違いない。それともセクシーなのだろうか。
 だから彼がぼくやお師匠ちゃまの伴奏をして下さるなんて勿体無い話なのだが、あちらの方から声をかけてくださるので是非とも答えなければいけない。しかしお師匠ちゃまの首が縦に振れない病にかかっている現状ではいかんともし難いのだ。

「さあ、トリオソナタの楽譜をコピーしてきましたよ、ちょっと弾いてみて下さいな」
「え、モーツァルトはもう止めなんですか?」
「そうじゃないですが、いつまでたってもやる気になって下さらないので……」
 CDを聴かせ、楽譜をコピーし、さらにお尻まで叩いてさし上げないと(実際に叩いたら問題だが)重い腰を上げてもらえない。
「あ、これなら問題無く弾けそうです」
「だからそう言ってるじゃないですか。フルートのパートは私がフルートで演奏しますからね」

 最後にフルートを吹いたのはいつだったか忘れたけど、久しぶりに取り出して吹いてみたらかなり下手糞になっていたので、トライアルレッスンを受けてみようかと別の教室に行ったのだが、ピアノ伴奏のできるような先生はいなかった。
 お師匠ちゃまを日記ネタにしておきながら言い訳のようにも聞こえるかもしれないが、経験豊富でありながら向上心を失ってしまった先生よりはずっと誠実なレッスンを彼女はしているといえるだろう。「あれ嫌これ嫌」と我がままをのたまうのは、「このおじさんならこれ位だったら許されるかな」と、ぼくを見切っているゆえの甘えからだろうと思う。ピアノが下手糞なだけで、決して悪い先生でないのだ。

 あと二週間でカルチャーセンターの契約が終わる。また三ヶ月延長すればいいだけのことなのだがちょっと悩ましい。お師匠ちゃまのレベルで問題があるとは言えないが、もっと違う世界もあるのではと思う。

「山のあなたの空遠く、『幸』住むと人のいふ。ああ、われひとと尋めゆきて、涙さしぐみ、かへりきぬ、山のあなたになほ遠く、『幸』住むと人のいふ」
 
 夢に貴賎があるとは思えないし、お師匠ちゃまもぼくも、この先ずっと観果てぬ夢を観続けるのだろう。夢の果てにあるのがどんな世界なのか知らないが、夢は観続けることにもその価値を見出せるに違いないのだ。

 

2006年5月30日(TUE)  盗作する倒錯した心に同情する
 ほ〜かほ〜か、太蔵せんせは盗作を認めて作者に謝ったのか。彼なら他にもやっているだろうから、今のうちに自民党のお父さん方はキチンと監視しておいた方が良いでしょうね。
 それにひきかえ、絵描きのせんせの往生際の悪いことと言ったら無い。第三者に意見を聞かなくてもあれは盗作だろうが。仮にぼくにあのオリジナルの絵を30秒見せて、どこに何が、誰がどのようにと、描かれていた内容を質問し、答えた後に盗作の方を見せられたって気がつきはしないと思う。

 童話教室の首領様はことのほか盗作に対してはうるさく、
「ただの一度でも盗作を発表したなら、童話作家への道は閉ざされると覚悟なさい!」
と日頃から厳しく戒めておられるのだが、巨匠の真似をすることはぼくらのレベルにあってはとても大事なことなので、有名作品の書き写しをご指導下さった。
 好きな作家の文章を丸写ししていると、なるほどな! と気がつくことがたくさんあって勉強にはなるのだが、ついつい影響を受けてしまいそうで怖い。

 関西のプロ将棋指しって、坂田三吉をはじめ内藤国雄九段や、最近では山崎隆之六段のように、人真似はいうに及ばず自分自身の真似さえしたくないというタイプが多いように思う。
 地方に暮らすゆえの、中央とか権威や権力にくみしたくない反骨精神といったもののなせる業なのかも知れないが、そういった孤高の士が存命中に覇権を握ることは稀だ。それは彼らだって十分承知している。だけどそれを潔しとはできない性分なのだから仕方ないのだ。

 人真似が上手で改良が得意といわれる日本人が、欧米列強に追いつこうと願って彼らの工業技術や芸術の獲得に邁進して、ようやく世界に通用する音楽家や画家を輩出できるようになったかと思ったところへ今度の盗作騒ぎだ。だけどもし、「やっぱり日本人は人真似をするだけの人種だ」などと言う人がいるならそれは間違っている。浮世絵が世界に与えた影響を考えてみればそれは容易に理解できる筈だ。
 要は、盗作するのはええ格好したいかそうでないかという個人の資質の問題で、太蔵せんせの場合は「小学生みたいな文章だ」と揶揄されて背伸びするあまりの勇み足も知れないが、絵描きのせんせの場合は世間が許さないだろう。
 だが、自分自身の才能にある程度のところで見切りをつけなくてはならない凡愚の悲哀だけはぼくにも理解できる。

 

2006年5月29日(MON)  泥の河のお父さんか!
 先日亡くなった俳優の田村高廣さんのことは良く知らないけど、「映画『泥の河』にお父さん役で出ていた」と、そのシーンを見せられて「あ、あの人か」と分った。
 映画もろくに観ないし、本も人並みほどには読まない人間なので、原作者や映画監督の名前はもちろん俳優の名前も良く知らない。だから映画に思い入れを持たないので、気に入らない映画だったりすると、それがたとえスタジオ・ジブリの作品でも「これはB級映画だ」などと放言してたら、そら嫌われるわな。

 映画「泥の河」が名作の誉れ高いのは、原作が良い上にそれを忠実に再現したからだろうが、あれがカラーで撮られていたら話は別だったんじゃないだろうか。モノクロの薄暗いが現代風の街並を終戦後の雰囲気に引き戻していなかったら、あるいは違和感を覚えたかもしれない。

 この前の童話講座のおり、「ダビンチコード」の原作を読んで映画も観た人のおっしゃるには、「予備知識が無かったら映画を観ても分からないと思います」だそうだ。
 ぼくが読んだ原作が映画になることって滅多にないが、映画を観て原作を読んだらイメージが固定されていておおむね面白いと思う。例えば「ダイハードU」のシナリオを読んだら、やっぱりブルース・ウィリスが頭の中に躍り出てくるし、「刑事コロンボ」ならピーター・フォークと、その吹き替えの声が聞こえてこないと話が前に進まない。
 
 原作を先に読んでから映画を観て「なんか全然面白くなかった、あれは駄作だ」という人は多いと思う。でもそれは読んだ方の想像力が素晴らしく、映像になったものがその想像とかけ離れていたから面白くないと感じるんじゃないだろうか。そういう人って大概読書家で、気の毒なことに映画を観る前に原作を読んでしまっているのだ。
 映画の評価って原作でするもんじゃないのだから、僕みたいに本を読まずに、まずは映画を観られてはいかがだろうか。それにしても、「泥の河」は良かった。 

 

2006年5月28日(SUN)  欲情ぎらり
 NHKの朝ドラ「純情きらり」を、ピアノレッスンの経験がある人はどんな思いで観ているのだろうか? 
「おいおい、今頃そんな曲を練習していて間に合うのか?」
などと文句を付ける人がいるとしたらぼくは許さん。一生懸命な桜子ちゃんの姿をなぜ暖かく見守ってやれんのかと言いたくなるのだ。そりゃ確かにあの曲は中級者の弾く曲だし、それをあれだけ上手に弾けるのならあの曲を練習する必要は無いかもしれないが!

 先週の劇中で一人黙々とピアノに向って練習するシーンで使われていたのは、バッハの「インベンションとシンフォニア」という、演奏時間1、2分の小品が30曲詰まっている曲集の一部で、脱初級者を目指す人が頑張って弾く曲なのだが、あの曲集を弾かずしてピアニストになった人はいないと言えるくらい重要な曲集なのだ。
 ぼくもあの曲集が大好きで、昔を思い出して楽譜を引っ張り出して早速弾いてみたのだが、驚くも何も全然弾けなくなっていた。

 昨日友だちのTELさんという御仁の家に行ったら、以前娘さんが使っていたピアノが置いてあって、チョロッと弾いてみたら調律しただけで使えそうだったから、ついつい口走ってしまった。
「どうですかTELさん、そろそろピアノでも習ってみられては?」
「はぁ? 何のためにそんなことせにゃならんの?」
「それは、あれですがな……先生をナンパするんですがな、例えば『TELさん、おてての形はこうでしょ。いけませんよ、そんなとこさわっちゃ!』とかなんとか、楽しそうですやんか」
「なるほど、その手があったか! 動機は不純な方が間違いなく力が入るもんな。ピアノも弾けるようになってナンパもできて、言うこと無いワ!」
 
 巷では映画「明日の記憶」が、若くしてボケていく恐怖を描いて話題になっているが、齢70を目前にして「明日のナンパ」しか考えられなってしまった御仁のことだって、もうそろそろ取り上げてくれても良いように思うのだが「色ボケ」の一言で片付けられてしまう恐怖が付きまとっていけない。
 戦後復興のために粉骨砕身してくれた世代の方なのだから、少しくらいの色ボケなら生暖かく見守ってあげたいとは思うのだが、そういった御仁が元気なおかげで、ぼくんとこに回ってくるのが少なくなっているように思えるのは単なるひがみか? 女を前にウブとか純情であってはイカンのだね。

 

2006年5月27日(SAT)  エレキ三味線まであるのか!
 サイレントピアノが大当たりして調子付いたヤマハさんが、二匹目のドジョウを狙ってサイレントバイオリンを発売したらまたまた大ヒット。そこで全国にあるYAMAHAの音楽スクールにサイレントバイオリンをばら撒いて、大人のグループレッスンを募ったのだけど、
「サイレントが弾けるようになったのに、どうしたことかヤマハ製の本格的アコースティックバイオリンを買って弾いたら上手く音が出せない」
という苦情が多発したらしく、ついにスクールからサイレントバイオリンが姿を消した。
 ヤマハさんの息がかかったバイオリンのお師匠ちゃまに、先日そこはかとない入れ知恵されたぼくは驚き、手持ちのサイレントバイオリンを慌てて売りに出した。と同時にYAMAHA音楽スクールを覗いたら、担当者が問わず語りにお師匠ちゃまの言葉を裏付けてくれた。

 サイレントバイオリンというのは電気信号を取り出すのだけど、エレキギターのように音をピックアップで拾うのとはちょっと違う。エレキバイオリンがつい最近まで登場しなかった理由は良く分からないけど、ピエゾ素子というものが開発されて一気にエレキ楽器系が進化して、今ではエレキ三味線なんて物まで登場し始めたのだという。

 ジャズライブのはしごじゃないけど、近所のホールを覗いたらいつものメンバーが演奏していた。グランドピアノ、コントラバス、ドラムと、アコースティック楽器での演奏は良いけど、本格的な演奏が始まるまでは発表会も付いてくるので、いつも結構な込み具合で窮屈な時もある。
 次に覗いたのはショットバーでのライブで、こちらはエレキコントラバス、キーボード、エレキギターの構成だった。エレキコントラバスなんて初めて見たので奏者に話をうかがうと、
「これになってからずいぶんと楽になりましたし、音質の面でもアコースティックのボワ〜ンと弛んだ感じが無くなって、ビシッと決まるんです」
とおっしゃったが、コントラバスを弾いたことの無いぼくの限界を感じた。そこで、猪口男女共同参画大臣がボディースーツを着用している時と、脱いだときのギャップを想像してみたらなんとなく分った。

 ウィスキーの酔いも回った頃に店を出て、そこからまた二軒回りながら思った。音は感覚的で主観的なものでもあるから、良い悪いは好みで決まるのだろう。玉石混交でも、ボディースーツ使用前使用後のどちらでも構わないから、クラシック音楽以外は新しいサウンドを聴きたいものだ。

 

2006年5月26日(FRI)  スレイプニールを応援してみたい
 インターネットエクスプローラー(IE)がようやくタブブラウザになったのは喜ばしいが、なんでこんなに時間がかかったんだろう。
 タブブラウザが登場したのはもう何年も前のことなのに、最も普及しているIEがいつまでたっても進化しないものだから、その間に数多くのタブブラウザが登場してしまった。だからぼくもそのひとつを使っているのだが、どれも無料なだけに無用な心配をしたりする。
 だからまあ、マイクロソフトさんのやることなら少しは安心だろうと「IE7β2」をインストールしてみたら何のことは無い、出来損ないじゃないか。もう今更元に戻すのもおっくうなので、仕方なく「Skeipnir」を使い続けることにする。

 数あるタブブラウザの中でスレイプニールが優秀なのかどうか知らない。日本は大阪の梅田製だというだけで、何か特別な愛着があるわけでも無い。最初に使い始めたのがこれというだけだ。それにこいつにも問題があって、IEと両方を使い分けしないといけないので、便利なのか不便なのか、もはやブラウザを使うためにブラウザに振り回され、起動はしてみたものの、何をしたかったのか分らなくなっていることもしばしばなのだ。
 そやけど無料のソフトを開発している会社って、どうやって金を稼いでいるんだろう。良く分からないけど、なんか頑張ってる社長さんらしいから応援したくなるんだよな。 

 

2006年5月25日(THU)  手の平返して愛をうそぶく
 いくら赤貧にあえいでいるぼくでも、お金持ちの無邪気な良妻賢母だからというだけの理由で人妻に逆恨みにも似た言い掛かりを付けたりはしないが、本日の童話講座に提出されていたのは、そんな奥様の突っ込みどころ満載の作品だった。
「屈託の無い葛藤がほのぼのと描かれていて、誰が読んでも彼女の作品だと気がつくよね」といった意見には諸手を挙げて賛同するのだが、果たして本当にそうなんだろうか。
 以前ぼくが他人様の作風を真似て書いてみたら、(といっても意図して騙した訳では無いが)名前を書き忘れたので、見事に皆さん騙されて合評をしたことがあった。その内容たるや日頃ぼくに向けられるようにどことなく敵意には満ちておらず、実に好意的な評価を頂いたのには驚いた。

「愛ゆえの、厳しい評価、その後は、手の平返し、愛想振りまく」
 わが教室の基本ルールは、つまり喧嘩と議論が別物であるように、合評と評論は全く別の物であるという認識に立っているのだから、たとえそれが著名なプロである首領様の作品であろうと同じ俎板に乗せられるはずなのだが、そこはやはり人情。誰もが作者の顔を見て言葉を選ぶのだ。

 どこで読んだ話か忘れたけど、あるストリップ劇場で秘部だけを見せるアルバイトしていた女性がいて、顔は実に不細工だったけどアソコだけはとても美しいとの評価をされる売れっ子がいたそうだ。同じように顔を隠して、手だけの「××マッサージ」なる、男性相手のサービスに従事していた男の話も読んだことがある。

 つまり感覚器官に頼るだけならものを考える必要は無いということなのだが、人間というのはひとたび頭で物を考えると正当な評価を下せなくなるのではなかろうか。それなら童話教室の合評も、いっそのこと作者の名を伏せてやってみたくはある。

 

2006年5月24日(WED) 警官なら仕方なくてもN響楽団員は×なこと
「サブですがトラなんですよ、すごいでしょう!」
 バイオリンのお師匠ちゃまはレッスンに気が乗らないと、おしゃべりで誤魔化そうとするきらいがあるので要注意なのだが、今やってるのは難しいとはいえ、ぼくが弾くような曲だから、もうそろそろ完璧に弾けるはず。それにタチだかネコだか知らんけど、まだ日も高いのにえらく隠微な話をしてくれるじゃないか、とほくそえんでいたら、友達がNHK交響楽団に入団したのを自慢しているのだった。
 
「ほお、そりゃすごいですね。ひょっとしてその方がお師匠ちゃまの彼氏で?」
「まさか、あんな変人が彼氏のはずありません!」
 まあ、確かに20台の若さでN響入りするほどだから、暴力団でいえば末端の構成員に例えられるサブ(控え)であるとはいっても、きっと幼い頃から多くを犠牲にして研鑽を積んできた人物なのだろうから、言っちゃ悪いがカルチャースクールでぼくのようなオジサンを相手にしている俗物のお師匠ちゃまにしたら、N響楽団員が変人に見えたとしても無理はない。
 
「しかしN響の演奏家って皆さん著名な教授ばかりでしょう、それにトラってなんですぅ?」
「トラっていうのは一般から採用した人のことです」
 トラが何の略だか聞きそびれたが、N響の楽団員ともなると演奏技術はもちろん、人品も卑しくあっては困るから、つまり「警官なら仕方ない」で済まされても、N響楽団員に盗撮などあるまじきことだから、やっぱり人となりも相当に高潔なお友だちなのだろう。

「では、お師匠ちゃまの彼氏って、ひょっとしてマトモな方なので?」
「極々まともで、至って普通の男性ですが何か?」
 このままお師匠ちゃまを野放しにしておいて、ムキになられて彼氏自慢の方向に暴走されても聞く耳は持たんので、適当にきりつけをてレッスンに臨んだのだが、彼女のとめど無いおしゃべりの原因がぼくの対応にあるのだとしたら、今後は気をつけねばなるまい。

 

2006年5月23日(TUE)  「明日の記憶」なんか絶対観ない!
 毎日毎日、こうも「明日の記憶」の宣伝をテレビで見せられたらさすがに鼻についてきた。渡辺謙も樋口可南子も好きなのに、「もうご馳走様!」と言いたくなる。ホリエモンや村上ファンドにやっかんだのとは違って、好きな物だって度が過ぎたら嫌になるのは、芥川龍之介の「芋粥」を思い出すまでもない。

 急に「明日の記憶」を見たくなくなったのは、予告編を見る限りちょっとばかり芝居がかってやしないか? ということもある。確かに若年性アルツハイマー症を扱った映画やドラマは以前からたくさん撮られていて、名作の誉れ高い作品も多くあると思う。だから勢い芝居がかった芝居にしてアピールしたくなるのは理解できるし、そうでなければ興行的に上手くないだろう。渡辺謙さん初の主役、プロデューサーとしては絶対に外せないゆえの勇み足か?

 バーバラ・ホリスは大学教授であり著名な詩人でもあったが、権威ある文学賞を受賞する前にアルツハイマーを発症してしまう。80歳を超えた母より先に50歳を超えたばかりの彼女はボケたのだ。
 アメリカドラマ、「愛を覚えていますか」では、「明日の記憶」と同じく、バーバラという聡明で活動的な主人公が最後には何も分らなくなってしまい、その家族の苦悩と葛藤をあからさまに描いたという点で良く似ているのじゃないだろうか。

 バーバラは文学賞を受賞したが、ほんの2、3分のスピーチ原稿を書くのに困難を極める。
「恥をかくだけだからやめさせた方が良い」という意見を制して、家族は彼女のやりたいようにさせるのだが、やっと書き上げた原稿もいざ授賞式の壇上に立つと一文字たりとも読めなくなって立ちすくむ。見かねたご主人が代読を買って出たのだが、そのスピーチの一言一句が聞く者の胸を打つ。

 抑制された表現と日常生活の中のエピソードだけで構成されているドラマだが、それだからこそ観る者は身につまされるのだろう。例えばご主人がいつまでたっても台所のことが分らない様子を見てバーバラが言う、「あなたもボケたの?」というシーンには笑いを誘いながらも涙を禁じ得ない。ささやかなシーンでも感動を呼び起こせるものなのだなと思う。
 で、このバーバラは美人なのだけど、どっかで見たことがあると思っていたら、うちの首領様に良く似ているのだ!

 

2006年5月22日(MON)  「ダビンチコード」なんて読まないし観ない
 あ、そういやあ一年前にドリアンらしきものを食った筈だ、と昨日の日記を書いたすぐ後に気が付いた。タイ人の経営する料理店で出されたのは、冷凍されたドリアンをチンしたもので、外側がないからあれがドリアンだった印象が薄かった。その種をプランターに蒔いた、というか埋めたのだけど、「そんなもんが芽をだすかい!」と、みもふたも無い言われようをされて、実際その通りになった。

 今日も同じスーパーに行ったけどやっぱりドリアンを買う気にはなれない。その憂さ晴らしじゃないけど、ワインを並べているお兄ちゃんに、「この前このワインをを買ったら気が抜けてたよ」と難癖を付けたら、「ああ、そうでしたか、でもこれは入荷したばかりだから大丈夫だと思いますよ」と答えたその顔には、「イタリア人が作っているんだからゴチャゴチャ言うな」と書いてあった。

 知り合いがイタリア製の車を買ったと言うので、雨漏りはしないかと聞いたら、「もうさすがにそんなことは無いだろうと思って買ったら、雨漏りこそしないけど色んなところが故障するね」と言った。
 イタリア車を買うなら雨漏りを楽しめるくらいじゃないと駄目なんだって云われていた頃があったけど、今もってその伝説は息づいているらしい。
 
「ダビンチ・コード」とかって映画がえらい人気らしいけど、レオナルド・ダビンチの絵に暗号が描かれているだってぇ? 原作を読んでいないから何もいう資格は無いけど、イタリア人がそんなゴチャゴチャしたことするかぁ? 
 ダビンチの絵は未完成なものがほとんどらしいから、何やかやと取りざたされるのは仕方ないし、それはそれで楽しくもある。そこを突いて宗教を絡めて話題をさらったとなると、相当な腕の作家なんだろう。でもなんかイタリアっぽくない気がして読む気になれないんだよな。

  

2006年5月21日(SUN)  味覚音痴に苦しむぼく
 スーパーで果物の王様とも呼ばれるドリアンを見つけた。1980円とリーズナブルだけど、一人で食べるだけの根性を持ち合わせていないのが悲しい。未だ一度も食したことが無いが、タイ国あたりのホテルでは持ち込み禁止らしいから余程臭うのだろう。
 高級住宅街の一画に居を構えながら、くさやの干物を焼いて憚らないほど人望も厚い首領様の後ろ盾でも無い限り、迂闊に包丁など入れたら隣近所に恨みを買うこと必至だろうが、それでもやっぱり食ってみたい。

 同じスーパーでタイ米を見つけた。見つけたけど手が出ないような値が付いている。魚沼産こしひかりほどでは無いにしても、最高クラスにタイ米が位置づけられているとは驚いた。
 なんで不味いタイ米をありがたがるのか良く聞かれるけど、世界の趨勢はタイ米のように長くてパサパサしたインディカ米なのであって、ジャポニカ米を主食にしているのは日本とその他の少数派なのだ。つまりあれは美味しい米だと言っても誰に咎められることも無いはずなのだ。

 マイブームだったベルギーから輸入されたにごりビールがついに店頭から姿を消した。あったらあっただけ飲んでしまいかねないので、ビールをケースで買うことはしないぼくでも、あれだけはケースで買っておきたかったのに、ケースで売ってなかったのだ。いつかこんな日が来るだろうとは予期していたけど意外に早かった。
 数え上げたら限が無いが、僕の好物が世の中から次々と消え去っていくのはどうしたことか? タイ米を初めて食べて感動したころには、既に米屋からはゴミ出しでもするかのように厄介払いされていたり、今回のように夏場の本格需要を前にビールが消えてしまうのだ。

 音楽の世界なら絶対音感とか絶対リズム感という話を良く聞くけど、料理の世界に絶対味覚を唱える人がいるだろうか。寡聞にしてぼくが知らないだけかも知れないが、絶対味覚が存在しない以上、音楽の世界に音痴が存在するように、料理の世界には味覚音痴は存在しないと言い切って構わないと思う。
 しかしそこまで自己弁護しても、ぼくがこれほど人様と味覚が乖離していたら、やっぱりアカンのと違うか!?

 

2006年5月20日(SAT)  純情きらりにみるピアノ
 NHKの朝ドラ「純情きらり」の視聴率は20.1%で第五位なのだそうだ。戦前の東京の街並を知らないぼくだけど、あのドラマの撮影セットはかなり細部にわたって再現しているんじゃないだろうか。それにヒロインの可愛らしさと演技力に免じて、違和感だらけの脚本もなんとか許せるのだろう。

 あのドラマに出てくるピアノのエンブレムに黒いテープを貼っているのは不自然だったけど、今はとって付けたようなエンブレムに張り替えられている。まあそれは許すが、しかし指の練習の「ハノン」につまずいているようじゃ音楽学校の合格は無理に決まっている。
 ドラマでは定番の、お金持ちの美人で性悪なライバルも登場してきて、「貧乏人は音楽家にはなれないのよ!」と憎たらしい言葉を吐かせるのだが、有名教授の一回一時間のレッスン料を今の感覚でいうと、ソープ嬢の時給よりずっと高額なはずで、彼女のセリフはもっともだと思う。

 ピアノのレッスンはバイオリンと違ってかなりシステマティックだと思う。つまり効果的な教え方がある程度確立されているだけじゃなく、知らない曲でもピアニストは割りと簡単に弾いてしまう。音の数は多くても、バイオリンほどアプローチに多様性が無いからだ。そのように、教わる方にとってもピアノは熟達が確認し易く、練習のし甲斐があって楽しい。
 
 近所のショッピングモールに中古ピアノを販売するブースがオープンした。どうやら団塊の世代が退職した後の需要を見込んでのことだろう。ピアノブームは中国のみならず日本にも押し寄せているのかも知れない。

 

2006年5月19日(FRI)  国営ネルトンの馬鹿馬鹿しさ
  国を挙げて出会い系サイトの構築かい! いや、テレクラだったか? それともネルトンだかなんだか知らないけど、少子化対策だったら別のやり方があるだろう。テレクラや出会い系がイカンというのじゃなく、未婚化や晩婚化の果てに少子化になっていく根本的な要因が社会不安にあると分っていながら、小手先の対策に頼ろうとするなと言いたいのだ。

 ネルトンパーティーなんて只でもぼくは出ないだろう。もし金をやると言われたら、ちょっと考えてやっぱり出ないと思う。え? だって「ごめんなさいm(__)m」と断られたら嫌だから。というか、そういう可能性が大な男だからこそ今に至っているのであって、決して女嫌いではないし、ましてや宗教的ポリシーなんて高潔な理由なんぞ微塵も無い。

 人間は性欲という本能に忠実であったからこそ地球上にこれだけはびこることができた。いや、繁栄することができた。つまり全ての人間は助平の末裔だと言っても決して言い過ぎではない。それなのにどうして晩婚化で少子化に傾いていくのだろう。
 性産業が空前の活況を呈している(個人的憶測)現代にあって、人類が助平でなくなったとは思えないから、先進諸国で子どもが増えなくなったのは、ひょっとして人間が増えることに飽きてしまったからではないだろうか。

 少子化対策を理由にお見合いパーティーを大々的にやればそれなりの効果は期待できるかも知れない。だけどその後には離婚率が右肩上がりの急カーブを画くだろうし、母子家庭、父子家庭対策に迫られるだけでなく、望まれない子どもが増えて悲劇も倍増するに違いないのだ。
 男女共同参画局って何をする所か分らなかったけど、ようやく「訳の分らないことをする所」だと分った。

  

2006年5月18日(THU)  脂は万病の元
  カリスマ主婦マーサ・スチュワートさんによると、牛肉は赤身で脂の混じっていない部分が一番美味しいのだそうだ。噛めば噛むほど味わい深いというのがその理由らしく、日本人の喜ぶ霜降り状態のものは低質な肉だというのだ。
 そうかなぁ? 霜降りだけじゃなく焼豚だって脂身のところは美味いと思うけど、本場の肉食人種が言うんだからそうなんだろう。

 日本人は何かと言えば「脂が乗った」と表現して、良いものとか最上級を形容したくなる。マグロもトロの部分が一番だし、クジラも尾の身が何にも増して珍重されるのは、脂で口当たりが良くなるからだけじゃなく、脂の乗った時期が成長のピークだからではないだろうか。つまり脂こそが旬なのだ。
 
 人にも脂の乗った時期というのがあるが、僕のように無駄におなかに脂が乗っているのも困りものだし、脂が乗った人というのはとかく滑るもんだ。ホリエモンが然り、村上ファンドもかなり怪しいような気がするし、なによりマーサ・スチュアートさんってついこの前まで脱税だかインサイダー取引かなんだかで服役していたんじゃなかった? 人は脂が乗ったら焼きが回るものなのだろうか?

 

2006年5月17日(WED)  鉛筆回しがブーム?
 やられたやられた。お師匠ちゃまにいつになく勝ち誇られてしまった。ぼくの技術では少々ハードルの高い、いわば名人芸を披露する「カデンツァ」という伴奏の無い部分の、重音の音程に散々難癖をつけれら、いや、ご指導をいただきドッと疲れた。

 そもそもバイオリンを演奏する技術、いやバイオリンだけでなく楽器を演奏するということは、音感がどうこうという以前に運動神経と関係があるのは言うまでも無い。そしてぼくは子どもの頃からバイオリンを習ったわけではないので、運動神経は自分で「イマイチです」とおっしゃるお師匠ちゃまにも、指の動きの滑らかさでは到底及ばないのだ。

 運動神経はどうやったら磨けるのかぼくは知らない。持って生まれた才能というのは否定は出来ないけど、努力次第でどうにかなるのは間違いないと思っている。プロ中のプロと呼ばれる人たちの中にあって、ロビー・ラカトッシュみたいな稀代の演奏家もいるが、市井でバイオリンの教師を営むくらいなら、どんなに不器用な人でも頑張ったらなれるんじゃないかな?

 なんて、おじさんの慰めになるような材料を集めまくって自分を鼓舞するのだけど、ルービック・キューブというおもちゃは、ぼくには無理かも知れない。あれを見ていたら手先の器用さだけじゃなく、物覚えの良さがモノを言うように思える。
 マジックは当然器用でなくてはできないけど、鉛筆を回すくらいならできるだろうと思っていたら、ものすごいことをやっている子どもがいるらしい。ハングル文字のナレーションが出てくるから韓国だろうと思うけど、これはスゴイ!

 

2006年5月16日(TUE)  よその子どもを試すな!
「ネットオークションなんかやったら神経を消耗するだけだからやめた方がいいよ」
 そんな風に忠告はされていたけど、やらないと飯が食えないので仕方なくやっているが、確かに鬱陶しいことが多い。夜中にメールが鳴り、何事かと思ったらオークションの質問で、それが悪意に満ちたものでは無いにしても、実に下らない質問だったりする。でもだからといってないがしろにできないのは、馬鹿げた質問を装ってこちらを試しているからなのだ。

 普通に社会生活をしていたら誰もが毎日のように試されているといって良いだろう。会社にいるときはいうまでもなく、飲み屋で初めて会った人からの質問にだって微妙なニュアンスを感じない訳にはいかない。
「あんたの会社での役職は何?」
「給料なんぼもろてるの?」
みたいな質問にどう答えて良いものやら。
「るさいんじゃーぼけがぁ!」
と、一蹴できるようなタイプのぼくでも無いので適当にはぐらかしているけど、長い付き合いでありながら訳の分らん質問するやつがいる。
「あんた、人を試すんじゃないよ」
「なんで試したらアカンねん?」
「そりゃあんたが試されんためやがな」
「ワシのことなら試してくれたらええがな」
とまあ、試したくなるような相手ならいざ知らず、試すまでも無い相手だったら面倒くさくてやってられん。

 親戚の子がもうすぐ五歳になるというから、七五三のお祝いじゃないが小さなバイオリンを贈ってやった。コレクションしていたものだけど、子宝に恵まれないより以前に女宝に恵まれないぼくなので、役立つ場があるなら小銭と交換するよりは良いかと思う。子どもがバイオリンに見向きもしないようないと分った時点でも十分売却可能なのだから。

 考えてみれば親は常に子どもを試しているんだろう。スイミングスクールに連れて行ってみたり、英会話教室をたずねてみたり、モノになりそうなお稽古事をやらされ、あまつさえよそのおっさんがバイオリンなんぞ送ってよこす。
 子どもは大人に年がら年中試されているようなものだから大変だろうけど、まあよそのおっさんが送ってよこしたのは単なるおもちゃの一つだと思って試されてくれるか。

 写真は1/4サイズという身長110cmくらいの子供用バイオリンで、比較のために置いているのはにごりビールというベルギーからの輸入発泡酒。安くて美味しいが、なかなか手に入らない。

 

2006年5月15日(MON)  将棋に想うテロリズム
 今年の世界コンピュータ将棋選手権は「Bonanza(ボナンザ)」というソフトが初出場で初優勝の快挙を成し遂げたのだけど、驚いたのはそのソフトがカナダのトロント大学の研究者によって開発されたということ。そして更に驚いたのは、三位に輝いた「KCC」というソフトが北朝鮮で開発されたということだ。
 拉致はいうまでも無く、偽$札といい、覚醒剤の密輸といい、北朝鮮は金になることだったら手段を選ばんのかっていうか、将棋ソフトなんか開発して金になるんだろうか?

 二位になった「YSS」というソフトの開発者は日本人の古参の方だが、彼は将棋ソフトを販売して得た収入ほとんど全てをソフト開発につぎ込み、気が付いたら所得税を払う金がなくなっていたという逸話の人物で、彼がアルゴリズムを公開したことで一気に将棋ソフトの開発が加速した。だから将棋を指せない北朝鮮の開発者は、いうなれば他人のふんどしで相撲をとっているに過ぎないのだが、たった一人の優れた開発者が活躍するだけで外貨が稼げるなら投資としては安上がりなのかも知れない。

 大相撲がガイジンばかりに活躍されるのを苦々しく思っている方も多いだろうが、柔道はどうなんだ、大リーグはどうなんだ。囲碁だって元は中国のものなのに、かつては日本が覇権を握り、今は韓国に取って代わられているのを本家は面白いはずが無い。英国が発祥のサッカーだってそうだけど、世界中に日本の国技が広まるなら素晴らしいことだろう。なんで朝青龍やバルト(これが書けん!)の活躍を根に持つことがあろうか。
 
 物事の是や非は必ずしも民族や宗教や、まして国際法みたいなものによって判断されるべきものではなく、地球を拠り所として暮らす動物の一種である人間として判断すべきものであって、間違っても目先の利益が優先するものであってはならないのだ。テロリズムはそういった点で断じて間違っているし、民族主義や宗教も決して永遠ではありえないと思う。
 でも今年のコンピュータ将棋選手権優勝ソフトの「Bonaza」を開発したのが、日本人研究者だと聞いてなんだか胸を撫で下ろしたぼくなのであった。

 

2006年5月14日(SUN)  我が子をオークションに! 
  元々一升酒を飲めるほど酒は強くないぼくだけど、ワイン2本を空けた翌日の体のだるさが「もうそろそろ酒が弱くなったのだよ」と知らしめてくれる。
 酒が弱くなればそれなりの飲み方を心がけていれば良いだけのことだが、どうもこのところ酒だけじゃなく涙腺まで弱くなったのか、不意に涙がこぼれていけない。どこかのおばさんが我が子を手にかけたとかで、亡くなった女の子の近影が幼い頃に背負われる頃の面影を残しているのを見ただけでも涙を誘われる。

 些細なことで熱いものが込み上げてきてしまうぼくは、ひょっとして昔より感受性が豊かになったのかなと思ったらそうではなく、脳科学者によると、歳をとって涙腺が弱くなったと感じるのは脳の前頭葉が老化している証拠なのだそうだ。
 みもふたもない言われようだが、それが実態なのだと言われたらそうかも知れない。なぜなら脳の老化に気が付いてないということ自体が既に老化現象なのだから。

 アメリカなんかで今問題になっている「我が子をネットオークションにかける」行為は、いったいどこをどうつついたらそんな発想が母親の頭に湧いて出てくるのか不思議だが、それが現実なら同時代に生きている我々としても黙って見過ごせるものでもない。でも考えてみれば金で子どもを売る犯罪的行為とはいえ、結果は養子に出したのと似たようなものなんだから、我が子を手にかけるよりはずっとマシには違いない。

 アンチエイジングブームとかで、老化にあらがうための方策がさまざま考え出されているのは良いことだ。老化の不安を煽り、人の弱みにつけ込んでアンチエイジング商品を売るのも、まあ良しとするにしてもだ、そんなことより子殺し親殺しの心理を脳科学で解明する方がよっぽど差し迫った問題なのではなかろうか。
 人は自分の命がいとおしければいとおしいほど、誰かの命もまたいとおしいものだと気が付く筈なのに、自分の命のいとおしさに反比例して自分以外の命を軽んじる傾向が見られるのはどうしたことか。近頃の人は本来生まれながらにして持っている何かを持たずに生まれてくるのでは……などとは思いたくない。

 

2006年5月13日(SAT)  オークションの落とし穴
  法人税かなんかの滞納で差し押さえたSLの機関車が800万円で競り落とされたというニュースを聞いたけど、「メチャ安ぅ!」と思ったのはぼくだけだろうか。あのオークションは何か失敗していると思う。オークションの終了時刻もそうだけど、ほとんど日本国内に限られた出品だったゆえの低調だったのではないだろうか。

 言葉の限界というものがあって、ぼくも海外のオークションは見るのだけど、入札する度胸がない。仮に落札しても送られて来るメールを解読できないではどうしようもないからだ。
 そういったことを当て込んでの商売実はもあって、アメリカのオークションで競り落としたものを日本のオークションに出品して利ざやを稼ぐようなケースもある。ぼくたち日本人ってなめられたもんだ。

 ぼくも手持ちのバイオリンをオークションにかけてみたが、1円スタートにしたら本当に1円で入札する人がいる。それはそれで入札が一件も無いよりはうれしいのだけど、いくらなんでも1円みたいに虫のいい入札は、ぼくならプライドに咎められてできないと思う。でもそこはネットオークションの良いところで、顔がばれなければ平気なのだ。

 800万円のバイオリンがネットオークションで落札されたのは見たことが無いが、きっとそんな金額になると実際に自力で弾いてみなくては払えないのだろう。それでなくてもバイオリンは偽物が横行しているのだから。
 で、ぼくの出品しているバイオリンは、1円からスタートして1000円も付けばOKだと思っていたのだけど、どうしてそんなに値が釣り上がるんだ? うれしいことではあるけど、ぼくのアイデンティティーはどうしてくれるのだ。ぼくの目は節穴だなんて、よってたかって証明するなー!

 

2006年5月12日(FRI)  巡査長のスカートめくりのどこが悪い!?
 巡査長、良くやった、アッパレやるよ、だって職をかけてやりたいことを実行したんだから。
 スカートめくりはエロチシズムの芽生えであり、基本中の基本でありながら永遠なのだ。それはまるで海外旅行は「ハワイに始まってハワイに終わる」と云われているのと同じようなものなのかも知れない。
 
 奈良県警の巡査長が、息子を運ぶ救急車の中で介抱するお母さんのスカートの中を盗撮したとかで、みのもんたさんが朝の番組で断罪していたけど、喝だ、喝!
 いい加減に視聴者に媚びたコメントやめろと言いたい。視聴者を愚弄するのもいい加減にして欲しい。あんなふざけたコメントをだれが、「うん、うんその通りだ」って聞くんだろうか。
 スカートの内側を見たいという欲求がいけないというなら、ドラえもんに出てくるしずかちゃんのパンチらだって規制するべきだし、どこでもドアでしずかちゃんのお風呂を覗くのだって反社会的行為と断罪してしかるべきだろう。 

「スカートの中を覗かれるのが嫌ならズボンをはけ」という論理には賛成できない。そんなことを言い出したら最後にはベールを被らなければいけなくなる。スカートをはく楽しみを、ファッションの自由を束縛する権利が誰にあろうか。もし本当にスカートの内側を見られるのが嫌なら、テニスコートではくような、何とかって呼ばれる見せるためのものをはけばいいのだ。そうすれば誰もも見たいとは思わないし、まして写真に納める価値はないだろう。

 ぼくが腹が立って仕方ないのは、巡査長が一言の断りも無く他人の肖像を我が物にしたということであって、スカートの中であるかないかはどうでもいいことなのだ。
 TPOさえわきまえていれば、「パンツ撮らせて下さい」と言って実行したって罪に問われることなんてないはず。それなのに、卑劣な行為とか、セクハラとか、犯罪だとか、的外れなテレビのコメントにはうんざりだ。
 そんなことの前に、巡査長は礼儀ってもんがなってないんだよ。警察はいったいどんな礼儀を教育しているのかをぼくは問いたい。

 

2006年5月11日(THU)  チャングムの帝国主義
 「韓国や中国って国は、事あるごとに日本を帝国主義だのと非難するが、帝国ってのは(帝=王様)が支配している国のことなら、日本には象徴化した「みかど」しかいないのだから非難には値しないだろうが」
「・・・・・・・・・」
「いやそうではなく、帝国主義的というのは一国主義的という意味であって、排他的で日本以外のアジアを見下しているというならそうも言えるかもな」
「・・・・・・・・・」
「だけど王様が好きだってのは韓国も中国も同じじゃないか。王政国家がイカンというなら宮廷に仕えたバッハやモーツァルトもイカンということになるのでは?」
「・・・・・・・・・」
「それは極論であって、中国はいざ知らず韓国ドラマを観る限りでは王様や宮廷が良く登場するから韓国人も王政国家は嫌いじゃないんだろう?」
「・・・・・・・・・」

 スーパーのキムチ売り場で「チャングムの誓い」というラベルが貼られたキムチの瓶を手にとって、王権とか帝国主義とかに思いを廻らせながら、「・・・・・・・・・」のところでは「このキムチを買うべきか否か」と思案に暮れていた。
 つまり王様とか宮廷に興味は無いくせに、目の前のぼくの手の平に乗っているキムチは他のものより100円高いが、果たして旨いかそうでないかを吟味し、買う決断を下すまでにおよそ20分を費やしたのである。
「松葉、ウコン、冬虫夏草、高麗人参入り、か。よし決めた、これを買う」
 ぼくの体温ですでに生暖かくなっていたキムチを元の場所に戻し、冷たいのに取り替えて買い物籠に放り込みレジに向った。王様の権威や宮廷の栄華より何より、チャングムの信用と美貌にぼくはよろめいてしまったのだ。

「う、旨いのかぁこれ? いや旨いって絶対! そうかなぁ、安いのと大して変わらんように思うけどなぁ?? 旨いってぇ、だってチャングムの誓いやでぇ!! うん、それもそうだな、やっぱり旨いわぁ!」
 帰ってから真っ先に封をきって当のキムチ一口食べてみたのだが、旨いとは断言できなくて苦しんだ挙句、ぼくの選択は正しいはずで、悩みぬいて100円も余計に支払ったからには旨くなくては断じて困るという結論に達したのだ。

 やっぱりぼくの審味力は余人の追随を許さぬものがあるなと、旨いかどうか良く分からないキムチをほおばりながら一人ほくそえんでいたのだが、ちょっと待て。チャングムの時代にはキムチという食品は未だ朝鮮半島に存在しなかった筈だと気が付いた。
 やられたかぁー!! ( ̄□ ̄;)

 

2006年5月10日(WED)  首領様とお師匠ちゃまと、時々ぼく
  バイオリン教室の日だった。お師匠ちゃまがことのほかご機嫌だったのは、きっとこどもの日に催されたコンサートがうまくいったからだろう。自分ひとりでリサイタルを開くにはまだまだ研鑽の欲しいお師匠ちゃまなので、その他大勢のソリストの一人として何曲か演奏したらしい。

 確かにコンサートの成功はよろしゅうございましたが、でもやっぱりぼくのレッスンで弾くモーツァルトのコンチェルトのカデンツァは練習しておられないときた。
「それどころじゃなかったんです、色々とやることがあって大変だったんですから!」
 なるほど、弟子のレッスンは"それ"呼ばわりかい。っていうか、目の前で一生懸命練習するんじゃないっての!

 明日は童話教室の日だけど、前回の首領様はぼくの作品を読んでくださってなくて合評ができなかった。でもこちらに説教をたれるわけにはいかないので忍従するしかないのだけど、明日は読んできてくださっているんだろうか。
 首領様の方こそ「それどころじゃない」ほど忙しい気がするのだが、僕の方は「それこそ」のはずなのに、新たな作品を書いてないときた。これじゃあ忘れられもするわな!

 

2006年5月9日(TUE)  男を値踏みするんじゃねー!
 「あなたのお値段鑑定します」
 わざわざ他人様に鑑定していただかなくても、ぼくに値が付かないのは承知している。しているけどせっかくうさこさんからご案内をいただいたので、人物鑑定してくれるらしいそのサイトをのぞいてみた。
「お名前は?」に始まって、彼女がいるかとか、死んだら心の底から泣いてくれる人は何人いるかとか、金は持っているかとか、嫌がらせみたいな質問が怒涛のように並んでいて気が滅入るので途中でチェック入れるのを断念した。

 天井天下唯我独尊と言い切れるような仙人なら他人の評価などからは超然としておれるのだろうが、普通に社会生活を営んでいるなら、いや犯罪者集団やカルト教団にあってさえも他人からのの評価に恬淡としてはおれるはずがない。
 だから会社に勤めている人なら、「君は素晴らしい人物だ」と上司からいくら褒められても給料が同僚より低かったら言葉なんて意味がない。給料が下がったならその時点で、「君には他に向いている仕事があるんじゃないの?」といわれていると思って構わないだろう。つまり他人様からの評価をもっとも端的に示してくらるのは、"愛"や"言葉"などといったあやふやで捉えどころのないものではなく"現金"なのだ。

 先年若くして亡くなったプロ将棋棋士の村山聖九段が、名人位をかけて争える位地にまで駆け上ったときにインタビューアーの記者にこうたずねた、「名人になっても今のままで構わないですよね?」と。
 問われた記者が答えに窮したのは、「今のままで」というのが、風呂に入らない、爪を切らない、散髪をしない、それでも良いのでしょう? という意味だったからである。
 同年代でしのぎを削った棋士たちが次々と名人位を襲ったことを思うと、村山九段が今生きていたら名人を名乗っていても決しておかしくはないが、結局彼はその座に就くことはかなわなかった。

「名人は相応しいものだけがその地位につける」
 なんて、どなたが唱えたたわ言か分らない言葉を持ち出して村山九段を貶めるつもりはない。彼は終にタイトルには手が届かなかったが、彼の残した棋譜は今でもプロ棋士たちにひもとかれ、アマチュアにも鑑賞されるほど素晴らしい。そのときに評価されるのはタイトルではなく、残した棋譜が全て。だからプロ棋士は負け将棋を粘らずに投了する。そうすることで棋譜を汚すことなく後世に伝えられるのだ。
 人は今を生きている同時代の人からのみならず歴史にも評価される。でもそれは何かを残した人の話であって、子どもすら残していないようなぼくにはそれすら評価の俎上にも上がらないのだ。
 それとも何かい、値段チェッカーでリーズナブルな値がぼくに付いたら買うてくれたりする人がいるの? 

 

2006年5月8日(MON)  ポスト荒川静香
 「このマンションにはKDDIの光ファイバーが導入されています。電話、インターネットを光へ、今がかえドキですよ!!」
 なんだか毎週のようにKDDIさんからミニコミ誌と間違えそうな分厚さのチラシを集合ポストに放り込まれるし、家庭訪問もしていただく。

 ここまでやられたらものぐさなぼくでもさすがにチラシを開いてみようかという気になってしまうが、見たからといってどうにもできるものではない。
 確かにNTTの基本料金は要らないから安いのは分るし、光だから早いのも分るんだけど、ここまでドップリとネット生活に浸かっていたらメールアドレスひとつ変えるにも大変な手間がかかって、おまけにどこにどんな影響が出か自分ですらさっぱり分らないのだ。

 今日のトップニュースといったらどこのテレビ局も一様に荒川選手のプロ転向で、次がポスト小泉だったかも知れない。荒川選手のプロ転向は予想されたことなのだから、あんまりニュースバリューがあるとは思えないのだが、そこは亀田三兄弟と同じで視聴率との兼ね合いなのだろう。
 
 小泉さんの次がだれになるのかぼくには確信を持って予想なんてできないけど、それより当面は阪神電鉄が村上氏に支配されるのか否かの方がよっぽど気になって仕方ないが、あれって、「あんたが電鉄会社経営してみろよ」と言えないのを見越しての脅しに屈して阪急が阪神電鉄株を高値で買わされるのか、それとも阪急と村上ファンドが手を組んだ茶番か? 

 ポスト小泉も、ポスト阪神も、何が真実で今後どうなるのかぼくにはさっぱり分らないし、どう転んでもぼくにはあんまり影響はないかもしれない。でも一年二年と経ったら必ずどこか深刻な部分に影響がでると思う。それはきっとだれも考えもしなかった恐ろしいことに違いないと思えてしかたないのだ。

 

2006年5月7日(SUN)  監督とパパの違い
  読売ジャイアンツが調子いい。アンチ巨人のぼくでも、優勝できなかったのを理由に潔く辞任して、カムバックを遂げた原監督を応援したくなるんだけど、堀内前監督はどんな思いでこの快進撃をみているんだろう。
 ぼくが堀内さんだったら「早く連敗しろ、絶対に優勝なんかするなよ」と祈っていると思うのだが、巨人軍の監督を務めるような人物だったらそんな狭量な考えは持ってないんだろうな。

 楽天は予想通りの成績で、頑張ったけど経験不足は否めなかった田尾監督を解任したフロントにはいい気味だ。この調子でどんどん負け続けて新記録を更新して欲しいと思っているが、そもそも暗いムードのチームを明るくない監督任せるなんて、だれが考えてもちぐはぐに感じるんじゃないだろうか。
 楽天の経営陣は人を使うすべには長けてなく、たまたま時代の流れをつかむことに成功して、時代の寵児としてもてはやされるうちに立場が人を作ったというに過ぎないのではなかろうか。

 史上最強の将棋指しといえば、誰に聞いても羽生善治の名をあげるだろう。35歳にして前人未到の大棋士と呼ばれる割には彼の話は面白くない。いろんな対談やトーク番組で見かけるけど、特に我が子の話をし始めるとその辺の飲み屋で酔っ払っている親父の方がよっぽど面白く、ためになる話を聞かせてくれる。
 別にアンチ羽生なわけでなく、あんなに傑出して人でも子育てに関しては普通のお父さんなんだなと思うだけのこと。

 いくら頭が良くても子育ては野球の監督と同じで難しいに違いない。亀田兄弟のお父さんは決して頭が良さそうには見えないのだけど、結果として三兄弟を上手に育てているのじゃないだろうか。
 確かに彼らの言動には非難の声も聞こえてくるし、ぼくも彼らのことは好きじゃない。だけどゴルフの藍ちゃんに求められるみたいに、ルールがあるとはいっても殴り合いをやっている連中に「紳士であれかし」なんて求められようか。
 子どもを育てたこともないぼくがいうのもおこがましいが、つまるところ監督を代えられる野球と違って、子育ては難しい!

 

2006年5月6日(SAT)  遍路サイトの責任
  お遍路さんではなくなって久しいぼくだけど、今でも当時に袖触れ合った方がたからメールなどを頂く。
「HALさんのおかげで素敵な出会いがありました!」
 ぼくの運営しているプアなサイトも、ピュアな方がたの手にかかると出会い系サイトとして機能することがあるらしく、心温まる連絡を頂いては意図しなかったに結果に驚く。

 ぼくのおかげといってもぼくが積極的に何かしているのではなくて、元々アクティブな方がたにお世話になった体験を書いて、お礼をしようと会いに行ったことを書いただけなのだ。だからそれぞれの方が巡り会うべくして巡り会ったのだけど、たまたまぼくがそこに絡んでいたことはうれしい。

 世の中には才色兼備のみならず、なおかつマザーテレサみたいに純粋なokameさんみたいな女性がおられるのには仰天する。愛は地球を救うっていうコピーが信じられるよな〜、こちらこそ素敵な出会いをありがとうございます。(玉手箱を開いてみてください)

 

2006年5月5日(FRI)  信じる年寄りは騙し良い
  田舎の家に帰ってテレビが新しくなっているのに驚いた。なんでこんなにデッカイブラウン管のテレビを買ったのか母に聞いたら、「電気屋さんが適当に持ってきてくれた」のだそうだ。
 亡くなった父はテレビショップで良く物を買っては後悔していたようだ。物を見る目がないと悟られるのを嫌ってか決して騙されたとは言わず、商品を罵倒しながら自力で改良を重ねたものだったが、その父も老いてからは返品することが多かった。たぶん老いたせいで改良や使いこなしが叶わなかったなだと思う。

 四国と本州を繋ぐ橋がかけられてから、ぼくの田舎の島にも大手ホームセンターや薬局が進出してずいぶんと便利になった。商品の品揃えも値段も都会並みになったし、サービスだって悪くない。経営危機に瀕した地元の電気屋さんが戦々恐々とするのも分らないではないが、だからといって年寄りの生活スタイルにそぐわない品物を勝手に持って来るな! 

 腰の曲がった年寄りには踏み台が必要なほどの高さの洗面台とか、またがないと入れないユニットバスの浴槽とか、今回のように複雑なリモコンが付いたブラウン管式の重くて大きなテレビが、年寄りの生活に適していないのは専門家なら分るだろう。それどころか、販売している方だってお年寄りだろうがぁ!

 母も本当なら大手ホームセンターで、テレビショップで品物を買ったほうが安いと知ってはいるのだろうが、いざ何かあったときに頼れるのは地元の、旧知の電気屋さんなのだ。
 今のところはそう思い込んでいるが、大手ショップだってアフターサービスがしっかりしているし、金さえ払えばきめ細かいケアをしてくれるのを知ったら、目先の利潤に走る地元の電気屋には頼らなくなるだろう。っていうか、だからといって年寄りを独りにしている息子の責任は免れないのだが。

 

2006年5月4日(THU)  道の駅U
  ぼくの田舎にも「いきいき館」と名付けられた道の駅があって、日頃は客の姿もまばらなんだけど今日は違った。名物の「残酷焼き」と、どこかの名物と同じ名の商品は大人気で待ち時間ができるほどだった。
 七輪に炭火をおこして網を一枚おき、自分が食べたい食材(主に海の幸)を好きなだけ買い求めて(これが結構値段が張る)紙コップに注がれた生ビールを片手に自分で焼きながら食べる。皆さんの横で指をくわえて見ている限りでは、さざえ、瀬戸貝(ムール貝)、緋扇貝、大アサリ、ハマグリ等が人気があるようだ。

 どれもこれも子どもの頃にはありふれた食材で、緋扇貝は真珠養殖廃業の副産物として近年脚光を浴びている貝だが、磨けば綺麗だけど特に美味ではない。大アサリは三重県ではラッコの食い物として認知されていて、三重県の飲み屋で注文したら隣の客に笑われた。でもぼくはこれらが大好きで、中でも瀬戸貝に目がないのだけど、もう二十年以上も前から価格が高騰し、輸入に頼らざるを得なくなった。

 目の前に海を臨んでこういった海の幸を味わえるんだから、そりゃ人気もあるだろう。地元に居ながら思わず注文しようかと思ったくらいだが、待ち時間がどれくらいか分らないので断念した。
 養殖でも輸入でも味はたぶん変わらないと思うし、分ったところでどのみちラッコの餌だったり、昔は貧乏人の食い物として敬遠されていたような食材なのに、野趣あふれる食べ方が人気なのか、それとも飽食の末の所業なのか……う〜ん、皆でワイワイやりながらぼくも食べたい。

 

2006年5月3日(WED)  "名物"のつくりかた
 兵庫県川西市に猪名川町という所があって、ご当地はそばが名物なのだそうだ。田舎に帰る途中の道の駅猪名川で知った。
「"いやそば"っていうのは聞いたことがあるけど、"いなそば"って初めて聞いたね」
 運転しながらおにぎりとサンドイッチをほおばったばかりの兄を引っ張って、道の駅内にある蕎麦屋さんでざるそばを食べた。食感と味は機械打ちであるらしく、大手そばチェーン店と似たようなもので、不味いと断罪はしないけど"名物"に仕立て上げられるほどのこともない。もっとも、お隣の"いずしそば"だって名前がとどろいている理由が分らないのも同じだ。
 いなそば倶楽部のみなさん
 ところが、ところがだ。蕎麦を食べて外にでてみたらそば祭りが行なわれていて、有段者の皆さんが十割蕎麦を打っていた。
 なんという要領の悪さというかタイミングの悪さだろう。こうなったらもう一杯そばを食べざるを得ないではないか。
 
 屋外でそばを打つのはかなり難しくぼくはやったことがないが、皆さんさすがに有段者とあって、十割蕎麦を手際良く打っておられた。お話を聞いてみるとぼくのそば師匠の名前も良くご存知だったりして驚く。
 こちらのメニューは鴨そばとおろしそばで、おろしを頂いた。値段は500円で量は少なかったけど、お客さんは満足されていた様子。こういった方がたの地道な努力が、やがては名物を生み出すんだろうな!

 

2006年5月2日(TUE)  思い出してもらえる、ぼくって?
 「やあ、ご無沙汰でした。一年ぶりかな、ところでまだ独りかい?」
 もう何年も会ってない友だちから電話がかかってきたが、彼も未だに独り者を貫いているようで何よりだ。
 でも彼は決してもてない男ではない。いやそれどころか、遊んだ女の数は数え切れないほどで、いつだったか彼の極秘ノートを覗いたら、女性の名前がずらりとあって、右側に一行コメントが書かれてあった。僕が確認できた段階で500番台だったと思うから、両手両足を総動員したら十分なぼくとはエライ違いだ。

「息子が公立高校に受かってん」
 別の友だちから電話があったが、こちらは酔ったついでに自慢話をしたくてかけてきたかも知れない。飲んで電話をかけてくるな! とはいえないほどこちらも酔っ払っているので、ほいほい聞いていて、気が付いたら会う約束をしていた。

「阪神巨人戦の応援で甲子園に来たからテレビで見つけてね」
 これも別人からだが、ずっとテレビ観戦してたけど、バックネットで手を振ってくれんと分らんよ。ていうか、ひょっとしてビデオを撮って置いてくれっていう意味だったんだろうか。とりあえず阪神が勝ったから良かったけど、だからといって大盤振る舞いをしてくれるでなし、何のために連絡してきたのかさっぱり意味が分らない。

 ひとは何かの転機に、節目節目のときに遠い友だちを思い出すのかもしれない。恋人が変わるたびに電話をかけてきた女の子も、今はご無沙汰になって久しいから結婚したんだろうが、離婚したらまたかけてくるかも知れない。
 近所のお兄さんとは付き合えないけど、知らないおじさんとは援助交際できるのと同じで、
「会社の同僚に話したら笑われるかも知れないけど、あいつだったら平気だ」
 どうやらぼくはそういった位置づけがピッタリする人間なのだろうか。うれしいような、寂しいような!

 

2006年5月1日(MON)  春を感じて場末で独活(うど)
  楽譜を探し求めて心斎橋まで足を延ばした。バイオリン教室の隣のピアノの先生が「時間が空いているときは伴奏してあげますよ」とおっしゃったので、若い彼の気が変わらぬうちに何らかの答えを出しておかないといけないのだ。

 楽譜を求めて歩き回る時代じゃないだろうと言う意見はもっともだし、最初は無料でダウンロードできないかと試みたが、数百も公開されているバッハの楽譜の中でも、ぼくが求めているトリオソナタの楽譜だけがどうしても見つからなかった。仕方ないからAmazonで検索したのだけど、こちらは無料でダウンロードできるよりもはるかに少なかった。

 お昼を食べずに出かけたものだから、楽譜を買った頃にはすっかりおなかが空いてしまったが、カップルであふれかえっている心斎橋のレストランなんかに一人で入る度胸は無いので、ヤマハを出たその足で日本橋まで歩いた。メシを食いに行きたかったんじゃなくて、トリオソナタの入っている「音楽の捧げ物」のCDを買いたかったからだ。
 もちろんヤマハにもあるにはあるが、30年前の名演奏もいいけど現代日本人の演奏で聴きたい。CDを再生できるオーディオ装置を持っていないので、パソコンで聴くとしてもだ。

 目的のCDが見つかった頃には、おなかも極限まで空いてふらふらになったけど、 オタクであふれかえっているメイドカフェなんか、とてもじゃないが敷居が高くて入れない。
 でもぼくの前を歩いているおっさんにはメイドカフェのチラシを渡さないのに、なぜぼくに渡そうとする? そりゃ確かに郷に従ってリュックを担いでいるけどさ。
 ぼくがいかにもオタクっぽく見えたなら、う〜ん、メイドカフェもありだったかな!

 帰りに粉屋さんに寄って蕎麦粉を少々買い込み、リュックに詰めた。このためにリュックを担いでいるのであって、メイドカフェに入りたくてオタクの扮装をしたわけではないのだ。結局メシを食えずじまいで泉北に帰って来て、場末で保険屋さんと待ち合わせた。

 いつものメンバーで新鮮さの無い飲み屋だけど、お客さんの一人が「山奥で仕事してたんで、『うど』を採ってきたよ」といってマスターに渡した。
 うどの料理法をマスターは知らなかったが、年配のお客さんの指南で、薄くスライスして酢味噌で食べた。松根油を思わせる香りと炭酸のような刺激があって、まるでジントニックを飲んでいるような錯覚をする。味は無いが、酢味噌がそれを補ってくれ、実に美味しかった。
「おれ、昔は『うどの大木』ってよく言われたよ」
 と、抜きん出て図体のでかいK1ファイターの武蔵の親父さんがおどけて皆に受ける。
 やっぱりぼくには場末の飲み屋が良く似合う。

「独活」と書いて「うど」と読む。ウコギ科の多年草。若芽は柔らかく、香りがあり、食用。英語でもudo。季語は春。

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2006年5月日()