HAL日記


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2006年02月28日(TUE)  すっぱい葡萄はいつも美味しい
 スーパーのチーズコーナーで立ち止まって見ると、ロックフォール(山羊の乳から作る青カビのチーズ)100gで998円と、ちょっと手が出ない値札が貼られているので、チーズとワイン大好きの僕だけど指をくわえて通り過ぎざるを得ない。
 ニュースによるとチーズ価格の高騰は原油価格と関係があるのだそうだ。原油価格が高騰したらどうしてチーズの値段が跳ね上がるのか不思議でならなかったが、NHKに訳を聞かされてようやく納得できた。主な原因は中国でチーズの消費が激増したからなのだと。

 仕方無いか、中国がかかわっているのだったら多勢に無勢だからどうしようも無かろう。腹いせに青島(チンタオ)ビールを飲んで溜飲を下げてやろうと目論んだが、日本で売られている青島ビールはアサヒビールが合弁で生産していると聞いては僕のレジスタンスも徒労に終わりそうだ。
 まあいいか、どのみち青島ビールは美味しくないんだし、チーズを食べないと死ぬわけでもないんだからと、大好物を“酸っぱい葡萄”(イソップ寓話)呼ばわりすることで完結せしめた。

 人生ってままならぬものだなと思うのは、今日の永田先生の会見を見たようなときだ。順当なら彼はヒーローになるはずだったのに、かえすがえすも功を焦り過ぎた。それは執行部も同じことなのだが、メールをくれたとされる仲介者なる者が自民党の放った刺客であったのか、それとも民主党内のアンチ執行部の手の者だったか分らないが、いずれにしてもお粗末の謗りは免れまい。

 どでかい失態を仕出かした永田先生や執行部だけど皆さんの政治生命が絶たれたわけでもないので、ちょっと考え方を変えれば大きなイノベーションの流れの中に咲いたアダ花として愛でることもまたをかしかろうというものだ。
 それに永田先生が引退しても、老後の楽しみに本が一冊書けるだろう。例えばチョンマゲ議員の恨みなんかを絡ませ、武部−堀江−マフィアといったルートで動いた陰謀を描きあげたら壮大な物語ができそうだ。自分で書けなかったら仲介者にやらせれば良い。

 それにしても武部と堀江と金って、きっと何かあるって世間は思っているんだし、そのうち特捜が何かを暴いてくれやせんかと期待しているんだから、あれをつかみ損ねたのは惜しかったよなあ。それであの歯切れの悪い未練がましい会見となったのだろうが、素直に謝れっていいたい。だってあれは酸っぱい葡萄だったんだから、もういいじゃないか。

 

2006年02月27日(MON)  今年のF1はすごいぞ!
「あ〜ぁ、もう一回バブルが来てくれへんかなぁ、給料が上がらんどころか下がる一方や!」
 知人が贅沢なぼやきをするので、ムッとして言ってやった、「オレの回りには会社の社長やっとったのに今はタクシーの運転手やってる知り合いが何人かおるんやで、それに比べたらあんたんとこの会社は安定してるし、クビになった人なんておれへんやんか」

「他力本願」ってとても素敵な響きだけど、なんにも努力しないで幸せが自動的に天から降って来るという意味じゃないだろう。阿弥陀如来の力を借りなくたって、自分の力で頑張って未来を切り開けと言いたい。

 今年のF1グランプリはすごいことになっているのを世間の人は知っているんだろうか。音速の貴公子と呼ばれたアイルトン・セナが、レース中の事故で亡くなってからF1を観なくなった人も今年はぜひ観て欲しいと思う。TOYOTA、HONDAだけじゃなく、元F1レーサーの鈴木亜久里さんがチームを立ち上げて参戦するからだ。

 F1のチームの多くはイギリスに拠点を置いていて、あれはヨーロッパの文化なのだと思うし、アメリカじゃサッカーと同じくらいにマイナーなエンターテインメントと位置づけされているらしい。でもそのアメリカのカートレースだってTOYOTAとHONDAのエンジンが席巻しているじゃないか。
 というわけだが、あちらの業界にも人種差別があるらしいし、アグリチームは決勝を走ることさえ困難かもしれない。でもすごい! F1で純日本の3チームが走るのは女子フィギアで荒川静香選手が金メダルを取ったくらいすごい! 少なくともあの業界ではF1バブルが始まっているように思え、今日も祝杯をあげる僕なのだ。

 

2006年02月25日(SAT)  目立つが勝ちの時代ですね
 場末の飲み屋が相変わらず休み続きなので、ってなんで休んでいるのかなんて誰も気にしないし、店の二階でくたばっていても不思議じゃないし、多分そんな末路を迎えるだろうという常連客の憶測をたがえるマスターでは無い。それでも時々は「店開けたよ」と連絡が入るので翌日に行ってみたら休んでやがる。あのマスターといったら客に対する責任感のかけらも無ければ、自分自身の良心に対する呵責も有ったものではない。
 そんなわけだから、別の店に出かけて飲もうということで、お友達のTELさんとライブ演奏を聴きながらいつものショットバーで飲んだ。ボーカリストは掲示板に貼り付けてあるポスターとはえらい違う雰囲気の女性だったので驚いたうえに、パーカッションは若い男の子だったのだけど、こいつがなんとジャニーズ系の男の子で、酒を一升も空けたら間違いを起こしかねないほど可愛かった。

 それはそれとして、世の中ハンサムなだけでは駄目で、エピソードみたいなもの無いと有名にはなれないんだろうと思う。例えば国会で野次を飛ばして水をかけられるとか、国会中に配られた資料で鶴を折り上げるとか、偽メールを持ち出すとかいった永田先生のパフォーマンスのようなものだ。彼もなかなかの男前だとは思うが、やっぱり地元の有権者にアピールするには杉村太蔵先生みたいにメディアに取り上げてもらわないといけない。そこで永田先生は先輩の楢崎弥之助先生をお手本にして爆弾質問をしたのかも知れないが、ちょっと勇み足だったな。

 政治家ほど自己顕示欲の強い人種はいないと思うが、何を隠そう僕の師匠の沢田俊子先生もまたその点にかけては政治家に劣らぬようで、「自己顕示欲が無いと作家などやってられません」とおっしゃる。そこで弟子の僕としても師匠の片棒をかついで著書を紹介するのだけど、その紹介文にクレームをいただいた。曰く「私は泉北ニュータウンの美女トップテンにランクされているなんて言った覚えはありません」と。
 はて、そんなこと書いたかな? とは思ったけど、なんでもない文章に信憑性があるかのように見せかけるために、さも師匠が口にしそうなことを書いたかもしれない。

「お客様は神様でございます」と着物を着てニコニコしながら口走ったら、見ている人は好意的に三波春雄さんの物真似をしているのだと了解してくれるように、ホリエモンの口調を真似てメールを書いたら、「あれはホリエモンにしかかけない文章だと思います」なんて、直木賞作家の石田衣良さんまでお墨付きをくれるのだから驚く。
 世の中チョロイもんだな、と永田先生が考えたかどうか知らないが、東大出身の元大蔵官僚の国会議員までがいかがわしい行為に手を染めるなんて世も末だと思う。こうなったら渡辺恒雄さんみたいな毀誉褒貶併せ持つ気骨のお年寄りに再び表舞台に出ていただいて、腐りかけている日本人にきつくお灸をすえてもらいたい。

 

2006年02月24日(FRI)  祝杯だぁ〜!
 昨日の朝の報知新聞に、「荒川“”」とデカデカ描いてあって、え、金? もう終わったのかぁ、と思ってよく見たら、「見えてきた」と小さく書いていた。
 スポーツ新聞らしい勇み足だと思っていたけど、今朝のテレビで本当に金メダルを取ったのを知って報知新聞の先見の明に頭が下がる。というのも、各メディアがこぞって水増しメダル予想をする中にあって、唯一願望を排除して、「トリノオリンピックはメダル二個」と予想していたからだ。

 ライバルのミスとはいえ日本にとっては悲願の金メダルをとった荒川選手は、贔屓目かも知れないけど上位三人の中では断然美しかった。なんといってもアメリカやロシアの選手に引けをとらない細くて長い肢体を生かした表現力は、これまでの日本の渡辺選手や伊藤選手という名選手には無かったように思う。

 日本人もついにスポーツでも欧米列強に追いついたか、と諸手を挙げ喜んでいるのだけど、アメリカやロシアでは今頃地団太を踏んでいるに違いない。いくらスノーボードでメダルをかき集めたってフィギアの一つにはかなわないんだよな〜! なんだか借りを一気に返したみたいな気分で祝杯をあげたいと思う。

 

2006年02月23日(THU)  不純と理想のはざまで
 NHKトリノ五輪のテーマソング「誓い」を歌っている平原綾香さんはてっきり歌手だとばかり思っていたら、音大でアルトサックスを専攻しているジャズミュージシャンなんだそうだ。女だてらにと言ったら怒られそうだけど、あんな華奢な感じの女性がアルトサックスを扱うのは結構体力を要求されるだろうから大変に違いない。
 実は僕も見た目のかっこ良さに憧れてアルトサックスを持ってはいるのだけど演奏は出来ない。とっつき易さで言えばフルートよりは少し音が出しやすいかも知れないけど、あれは音量が大きく、下手なうちはバイオリンよりも近所迷惑なので練習出来なかったからだ。

 菩提寺の御住職が半年ほど前にサックスを独習し始めたとかで、先日会った時に聴かせてもらえるかと思っていたら、「家内に練習日と時間を制限されてしまいまして」と顔をしかめておられた。広いお寺の敷地内で練習していてもご近所にまで漏れ聴こえるので遠慮しておられるのだろうが、それなら音の出ない電子サックスで練習する手もあるかなと思う。一度だけ楽器屋さんで触ったことがあったが、店員さんが取り扱い方を良く知らなかったので当時は買わなかったのだけど、あれはちょっとお勧めかも知れない。

 御住職の掲示板に、「サックスの腕を磨かれるよう期待します」とエールを送ったら、「このところサックスの腕前が全然上達したように思えないんですが、何ででしょうねぇ?」といったレスを頂いた。すぐさま返事を書こうと思ったけど、お寺の掲示板に書き込むには少々問題がありそうなので止めてしまったが、その書き込もうと思ったのはこんな感じのものだった。
「平原綾香さんは音大でサックスを専攻されているらしいですが、あんな美人が先生だったら楽しいですよね。何をするにしても動機は不純な方が気合が入ろうというものですから、そんな欲求が満たされる先生が見つかることを期待します」

「人はパンのみにて生きるに非ず」との言葉の示唆するように、人は食べて寝るだけで生きているとは言いがたいし、思索なくしては生きがいも無い。さりとて理想だけを追い求めていても肩が凝る。
 確かに、真実を探求できる喜びを知るのは僕の求めるところではあるけれど、その心境に至れるのはいつのことだか分らないし、結局そんなことを実感できるのはイチローや松井選手のようなごく一部の選ばれた、心身の才能に恵まれながら努力する才能にも長けた人たちであって、我々凡人はその一端を垣間見れるだけで幸せなのかもしれないのだ。
 そんなわけだから、不純なモチベーションを昇華するといった浅ましいところからスタートを切っても良いのではなかろうか。と言いつつ、意外にもそんな不純な理想からは随分かけ離れているストイックなバイオリン教室と童話教室ではあるのだけど。

 

2006年02月22日(WED)  今日からモーツァルト
「もうこの曲はそろそろ終わりにしてモーツァルトに行きましょ」
 バイオリンのお師匠ちゃまは今のレッスン曲に飽きてしまったのか、前回のレッスンからモーツァルトの楽譜をちらつかせて促すので、もう少し今の曲がしっかり弾けるまでと思っていたけど強制終了することにした。

「色んな楽譜がありますけど、これを使いましょう」
 とおっしゃって出してきた楽譜はかなり古く、しかもびっしりと書き込みがされてある。
「これってお師匠ちゃまが子どもの頃にレッスンなさった楽譜では? ということは某音大教授の書き込みですよね。ひょっとして版面権とか何とかがかかわってきませんか?」

 クラシック音楽の世界に著作権の概念が持ち込まれたのはつい最近の事だと思うけど、モーツァルトより前の時代なんて、有名作曲家の名を騙って楽譜の売り上げを伸ばしたりしたらしい。ロマン派の時代になると、ベートーベンの曲をくっつけたり編曲したりして自作自演するフランツ・リストを友人ショパンが激しく非難したらしいから、当時の出鱈目ぶりはそうとうなものだったようだ。

 どのみち他人のふんどしで相撲をとってきたクラシックの楽譜出版業界ではあっても、そんな因習はいかがなものかと思わないでもない。いちいち細事に目くじらを立てていたら息が詰まりそうだが、これから先はもっともっと面倒なことになるのだろう。
 しかし誰かに真似されるのを嫌ったバイオリンの鬼才パガニーニが秘密主義を貫いたものだから楽譜は遺作となったものも多く、彼が実際にはどう演奏したのかその技術が今に伝わっていないのも悔やまれる。

「大丈夫ですよ、これは私が手書きでコメントを書き写したものだから版面権は私にありますし、それはレッスン料に含まれます」
 なるほど、どうやらお師匠ちゃまはこれから子どもの頃を思い出しながらレッスンしようと、つまり楽をしようと目論んでいるのかも知れない。
 音楽は自分で作っていくものではありませんか、などとうるさく言って泣きだされても困るが、お師匠ちゃまは図太そうだし音大教授の教えなら許すとするか。

 それにしても先週泣いてしまった紗矢香ちゃんは今日はお休みだった。来週こそはがんばって来れますように。

 

2006年02月21日(TUE)  安藤美姫と片山右京は兄弟か?
 ここまでトリノオリンピックで日本のメダルがゼロときたらどうしても女子フィギアの選手に期待してしまうが、毎日毎日彼女たちの顔を見ていて気が付いた。安藤美姫選手は、元F1ドライバーの片山右京さんにそっくりじゃないか! いっぺんコラージュでも作って誰かに見せて確認してみたいと思うが、ご本人たちはどう思っているだろう。
 とは言っても、長くアナン国連事務総長と、映画俳優モーガン・フリーマンの区別が付かないばかりか、二人は兄弟か同一人物だと今でも思っているような僕の目は恐らく節穴だから適当に聞き流されることだろう。

 それにしても今回のオリンピックの女子選手は美人ぞろいだ。東京五輪で東洋の魔女と恐れられた頃のことは良く知らないのだけど、「あの頃の女子スポーツ選手に美人はいなかった」と証言する人もいたりすることを思うと隔世の感がある。
 食生活が欧米化したからといって急に日本人が美人だらけになるわけでは無いだろうから、考えられることと言えば深窓の令嬢も戦いの場に出られるほど日本文化が爛熟したのが理由の一端かも知れない。

 食生活の欧米化のおかげで確かに日本人の体格は向上したと思う。マリア・シャラポアとかミシェル・ウィーみたいな女の子はまだ少ないけど、女子バレーの選手も大柄でなおかつ美貌を誇る人が多くなったのは間違いない。
 この調子で行くと次の世代には日本人の体格は韓国人のそれに追いつき追い越すだろうし、その次の世代はきっと欧米人の体格に比肩し得ることだろう。金メダルもそれに連れて獲得数も増やすとも期待できる。

 そうするとやはり牛肉の輸入再開が待たれるが、狂牛病問題でテレビ画面を通して牛の解体処理を見ていると牛肉が食べられなくなってしまった。こんなに軟弱では次の世代に申し訳が立たないので、メディアは牛を堵殺するところから報じてもらいたいものだ。
 人間が生きていくかぎり堵殺からは逃れられないなら、せめて家畜の最後を看取って感謝してやりたいじゃないか。

 

2006年02月20日(MON)  生きているという不条理
 つづき
 今の世の中とんでもないところまで来ているんだなと驚かないではいられない。アメリカでは子どもがモデルガンを小学校に持って行って同級生を脅しただけでスワットが駆けつけて、子どもが射殺される不条理がまかり通っているらしい。
 戦争ごっこを楽しんでいる中坊に、お前らここが日本で良かったなと言いたくなるが、実は僕たちが子どもの頃の“本物”のモデルガンは銃身に螺旋まで切ってあり、弾さえ手に入ればいつでも撃つことが出来た。仮に銃身が鉛で埋められてあったとしてもコンロであぶれば綺麗すっきり鉛が溶けて使えるようになった。
 実際に花火の火薬をモデル弾に詰めて発射する事件があって銃身は鉄棒になり、黒いモデルガンは駆逐されたのだけど、あんな法令が何の意味も無いことは子どもにでも予測できたものだ。

 戦争ごっこやっている連中に将来は何になりたいかたずねたら、卒業したら自衛隊に4、5年くらい入隊して、その後は傭兵となって世界中の紛争地域に行きたいのだそうだ。
 なるほど、先ごろイラクで日本人傭兵が行方不明になった事件があったけど、戦争マニアたちの中に彼をヒーロー扱いする人もいるのだとか。そんなにドンパチやりたいならどうぞ行って世界平和に貢献してくださいと言いたくなるが、別に世界平和には興味無いようだった。
 日本のように紛争の無い平和な国家に住んでいながら、塾の講師に生徒が刺殺されたり、隣のお母さんに子どもが殺される不条理が体験できるというのに、子どもが体に爆弾を巻きつけて自爆テロに送られるような地域にどうして行きたいのか、僕には不思議で仕方ない。

 サルトルだったか誰だったか忘れたけど、「人間は不条理の世界に放り込まれた存在である」なら、たまたま僕の親戚の子どもが事件の被害者でなかったのは条理であると言えるのだろうか。
 官製談合容疑で逮捕された連中は、今までやってきたことを踏襲しただけなのに自分だけが逮捕されるなんて不条理だと思うだろうが、今まで発覚せずに逃れてきた連中がいることこそが不条理だと僕には思える。
 つまり条理も不条理も立場が違えば全く正反対のものなのだ。とするなら、戦争ごっこを楽しむ彼らにとって、日本に生まれて恵まれた環境でおくる中学生活こそが不条理そのものに思えたとしても不思議ではない。
 だからイラクでもどこにでも行って条理をまっとうしてくれたら良いが、君たちの条理の裏側は誰かにとっての不条理かもしれないと気が付いてくれることを期待している。

 

2006年02月19日(SUN)  銃社会の到来
 近くの公園でサバイバルごっこをやっている少年たちを見かけるようになったけど、このところ多発したモデルガン乱射事件に刺激されてのことではないと思う。
 戦争ごっこは昔から少年たちの遊びの一つだったから僕が文句を言えた筋合いではないが、その装備は子どもの頃とはエライ違いがある。
 例えば彼らの機動力は自転車だが、いでたちは迷彩服ときた。かっこいー! ヘルメットこそかぶっていないけど、銃に詳しくない僕から見たら本物に見えるほど美しいライフルや短銃を携えている。僕だって子どもの頃にあんなのが欲しかった!

 発射するのはBB弾という丸いプラスティック製の物で、僕の子どもの頃に一般的だった“銀玉”よりはるかに真円度が高く真っ直ぐに飛ぶらしい。そして発射の方法は何かの圧縮ガスやスプリングだと言うのだが、市販されているものでも当ったらかなり痛いらしい上に、改造したらアルミビール缶くらい平気で打ち抜けて、市販されているベアリング弾と呼ばれる鋼球を装てんすると殺傷能力まであるのだそうだ。
 驚いたことに彼らの持っている銃は、銃身以外は全て本物なのだという事。つまり銃身と弾丸を手に入れることが出来たらいつでも人を殺せるのだと言う。

 つづく

 

2006年02月18日(SAT)  単純洗脳効果 
 最近は下手をすると発泡酒より美味しいんじゃないかと思えるようなノンアルコールビールが輸入されるようになって、朝から飲みたい気分の時にはとても助かるのだけど、飲んだ尻から本物のビールを飲んだみたいに眠くなることがある。
 気のせいかと思っていたら昨日の毎日新聞で資生堂の常務が、「人は同じものを繰り返し見たり聞いたりすると、いつの間にか好意を持つようになる。それを『単純接触効果』と呼んでいる」と書いておられた。そしてごく最近、香りにもその効果があることを発見したのだそうだ。どうも僕の脳はアルコールの香りが無くても麦芽の香りだけで騙せるほど単純に出来ているらしい。
 
 良きにつけ悪しきにつけ小泉総理が毎日テレビに出て喋っているのを見ていたらいつの間にか「改革を止めるな」というのが自分の意見のような気がしてきても不思議じゃない。そうするとアーレフの上祐氏とかホリエモンとかに、未だシンパシーを感じる人が居続けるのもむべなるかなと思う。つまり彼らの本質が何であれ、とにかく毎日メディアに登場して喋って一定の人を納得させることが出来るなら(その力は必要だろうが)誰でもアイドルになれる可能性はあるということだろう。

 僕の住んでいる泉北ニュータウンにも若手漫才師やマイナーな歌手を多く排出しているんだろうとは思うが、そのあたりに暗い僕はアイドルとなるとやっぱり沢口靖子をおいて他に思いつかない。自分の師である沢田俊子氏が泉北出身の著名女性ベストテンにランキングされていることすら、ご本人の口から聞かされるまで知らなかったくらいだ。
 師はつい先ごろも文学賞を受賞されてミニコミ誌に躍り出られたとかで、ご自身のホームページにデデンと掲載しておられるではないか。
 マズイ! 非常にマズイぞ。あの記事をを読んでいないと次回の講座の日に師匠の自慢話を聞かされて相槌を打てないようなことがあるとどんな目に遭わされるか分からないのに、当のミニコミ誌がいくら探しても見つからないのだ。

 仕方ないから師の著書、「さとうきび畑の唄」を買うことで逃れることにした。
 この本は芸術祭大賞を受賞した同名のテレビドラマをノベライズしたもので、著者はドラマの脚本を書いた游川和彦さんとなっているが、実際は、「構成:沢田俊子」となっている師が全て書いたものなのだそうだ。
 なるほど、今まで構成って何をする人のことだろうと思っていたのだけど、言うなればゴーストライターみたいな方らしい。
 つまりアメリカ大統領の一般教書演説の原稿をを書いてるのが大統領本人でないのと同じようなものなのだろう。

 師は頻繁に著者近影をホームページに掲載されておられるのもあって、いつの間にかすっかり馴らされ、最近ではなんだか美人に見えるようになってしまったけど、この調子で突っ走ると、ひょっとして野村監督夫人みたいに脱ぎだしたりせんかと気が気ではない。
 どうやら「単純接触効果」は、少なくとも僕には絶大な威力を発揮するようだ。

 

2006年02月17日(FRI)  幼子の命の重さ
 長浜市の園児刺殺事件には心から震撼させられた。市とは名ばかりかと見まごう程の閑静な田舎町(失礼!)で、まさかあんな恐ろしい起きるなんて信じられない、のじゃなくて、親戚の住むすぐ近所で起きた事件だからだ。おまけにそこの子どもが同じ年頃なものだから亡くなった子どもの名を聞くまで気が気じゃなかった。
 あー、違ってて良かったぁと安心したは良いが、親戚の子には乳飲み子の頃に一度会っただけの僕があんなにビビルんだから、子どもを喪った親の気持を推し量るのは到底無理なことだと思った。

 昔はあんな事件は無かった。少なくとも僕が子どもの頃には聞いたことが無い。いや本当に無かったのかどうかは知らないが、無かったのだと信じたい。
 でも冷静に考えたら、時代劇で食い詰めた親が娘を売るというのは良くあるし、生まれた子が女だったら労働に使えないという理由で間引きしたとも伝えられている。
 働けなくなった老人が姥捨て山に捨てられていた事実があるなら、親が子を殺し、子が親を殺すのが普通だった時代を否定は出来ないし、飢饉でやむにやまれず人が人を食った時代もあったはずだ。

 そう考えると今の時代ほど人の命が尊ばれている時代がかつてあったろうか。「人の命は地球より重い」という言葉が発明された時代に生まれて良かったと心底思う。なのにどうして訳の分らない殺人事件が起きるのか。
 人をあやめたら自分も滅びるのだから、殺人は自殺に等しい行為と分っていながらどうして罪を犯すのか、そうういった衝動に駆り立てるものとはいったい何なのだろう。
 増えすぎた鼠が集団で海に飛び込むように、人間もまた増えすぎると自らで間引きを始めるのだろうか。だれか教えてほしい。

 

2006年02月16日(THU)  ど根性大根を甘やかすな!
 ひところ“ど根性大根”がメディアでもてはやされていたけど、あれがもし“セイタカアワダチソウ(麒麟草)”だったらどうなんだろう。人はきっと忌まわしい顔で引き抜いて道路の補修をかこつに違いない。
 しかし食べられるものとそうでないものの違いがあるとはいえ、生きとし生けるものとしての摂理にどれ程の違いがあろうか。

 ど根性大根は結局枯れてしまって、あれで町おこしを目論んでいた相生市は一計を案じ、腐ってしまった大根からDNAを取り出してクローン大根を作ろうと情熱を注いでいるのだとか。
 クローンを作らなくたって種屋さんに聞けばこれこれの品種だと教えてくれるだろうし、作ったところでどうなることでも無かろうに。そんなことをするくらいなら他に有用な税金の使い方があるだろうと思うのは、きっと夢を失った大人の考えることなんだろう。

 僕の田舎にもホームセンターが2軒あって、最近オープンした店が肥料を大安売りしたらしい。農協よりはるかに安いとビックリした地元のお百姓さんが慌てて大量に買い込み、大根畑に施肥したというのだが、豊穣の期待に反してみすぼらしい大根が少し採れただけだったと聞いた。
 昨日や今日百姓を始めた人ならいざ知らず、プロのお百姓さんが何たる失態! 僕だって施肥の時期や量は考えるって。実際、痩せた土地で立派に育つのに、まるで高カロリー輸液みたいな肥料を施して、貧相な花しか咲かさなかった朝顔を僕も経験しているし、冷蔵庫で芽を出そうとしたネギをプランターに植えて枯らせてしまった経験もある。甘やかしたら植物はかえって育たないのだ。

 昨日はバイオリン教室の日だった。僕の後の紗矢香ちゃん(小学二年生で仮名)には悪いけど、僕のレッスンはどうしても延びてしまうので彼女のレッスン時間を少しだけ恵んでもらっている。でも彼女はもちろんママも嫌な顔をしないのは、紗矢香ちゃんが出来るだけレッスンの開始を遅らせたいからなのだ。
 前回はおなかが痛くなった紗矢香ちゃんだったけど、今回はママが一緒に教室に入ってくれないのでとうとう泣いてしまった。
「ちっちゃい子じゃないんだから一人で入れるでしょ」
 ママはそういうけど、ママが聴いてくれてなかったら紗矢香ちゃんはバイオリンなんて練習したくない。バイオリンを弾いていたらママが喜ぶからイヤイヤながらやっているだけなのだ。

 ママは泣いている紗矢香ちゃんを放ったらかしてどこかに行ってしまったけど、あれで良かったと思う。巣立ちを控えた子ツバメに、餌は自分で飛んで摂れと促す母ツバメみたいに、どこかで突き放さなくては子どもの成長は遅れる。そんな僅かな遅れも厳しい人間界では命取りになるなら冷淡なようだけどやむを得まい。
 それなのにどうだ、あのど根性大根に対する扱いは。せっかくのど根性を過保護でスポイルするな、子を持つ親の教育に悪いぞ!

 

2006年02月15日(WED)  薬品メーカーがばら撒くアガリクス茸
 アガリクス茸製品に発がん性を促進するものが見つかったと聞いて、またキリンか! と単純に腹が立つ。なぜって、大手洋酒メーカーのサントリーやキリンは医薬品を製造している会社なのに、健康食品も生産しているなんておかしいじゃないか。
 自分とこの薬に余程自信が無いのか、それとも健康食品が儲かると言う理由だけで、本来ならいかがわしい健康食品に対して毅然と指弾すべき側にありながら、同じ穴のムジナと化して自らの尊厳を貶める所業に手を染めるのは不可解でしかたない。

 知人の会社の社長が肝臓癌だと宣告されて、藁をもつかむ思いで金に糸目を付けずにアガリクスを買いあさった甲斐も無く亡くなった。アガリクスのせいでは無く既に末期だったのだけど、癌の予防にとアガリクス製品を摂取していた人々の気持ちを、ああいった会社はどんな風に想っているのだろう。キリンはどうやって自社製品を買い続けていた人の心のケアをするつもりだろうか。

 スポーツクラブでウェイトトレーニングをした後は筋肉を太らせるためにプロテインを牛乳に溶いて飲んでいた。ボディビルダーの常套手段なのだけど劇的な効果があるわけではないので今はやめた。というのも、飴とかラーメンみたいな食品にでさえビタミンが添加されているのに、この上にプロテイン製品から余計なビタミン類を摂りたくないからだ。
 
 昨年の“光合堀菌”事件にしてもそうだけど、昨今の人の弱みに付け込んで儲けようと企む輩のなんと多いことだろう。こういった風潮には先手を打って、違反したものに当局は厳罰をもって対処してもらいたいと思う。狂牛病が発祥する頃にはワシは死んでいるだろうから関係ないよ、と思っている先生方は今すぐに考えを改めていただきたい。

 僕がこれほど食品に神経を使っているのは、僕が癌の家系に生まれたからだ。祖母は胃癌だったし、叔父さんも胃癌で亡くなった。父の直接の死因は癌じゃなかったけど大腸癌も疑われた。だからこういった問題を見過ごすわけにはいかないのだ。
 もっとも祖母が亡くなったのも、叔父さんが亡くなったのも、父が亡くなったのも80歳を超えていたはずだから、僕は単なる小心者に過ぎないのかも知れないのだが……。

 

2006年02月14日(TUE)  メロちゃんのひと転びに想う 
 テレビ局が視聴率稼ぎのためにオリンピックを派手に前ぶれしたもんだから、僕も少なからず期待しながらテレビの前にかしこまって観ているんだけど、予想外の日本勢の不振に落胆している。ジャンプの原田選手が予選前に失格したなんて、まるで寸借詐欺にでも遭ったみたいに悲しい。
 それにスノボハーフパイプの成田童夢選手と妹の今井メロ選手にもちょっと期待していた。だって名前を聞いただけでボクシングの亀田三兄弟みたいに関西風で個性的だし、弟さんの名前が成田緑夢(ぐりむ)君と聞いては一層応援にも力が入ろうというもの。なのにメロちゃんは転倒して病院に運ばれたらしく、容態が心配だ。

 メロちゃんはカタカナだけど、本名は漢字と聞いている。どんな字が当てられているのか、出典はどこなのか気になって仕方ないけど、あんな名前の彼女ができたら皆にどうやって紹介したら良いのか悩むだろうな。
「あ、こちら僕の彼女のメロちゃんです」
「ネロ? あぁ、フランダースの犬? それともどこかの皇帝にちなんだのかな?」
「いえ、メ・ロです。目玉のメ、露西亜のロでメロです」
「え? 目露ぉ?」
「いえ、それは読み方で、漢字は……」
 もう面倒くさくて、「ネロでもベロでもなんでも良いです!」ってなってしまいそうな気がする。

 聖子、良子、みちよ、亜子。親戚とか知り合いとか同級生とかの女のこの名前を思い出してみていたら、“ゆかり”というのが圧倒的に多いと気がついた。“ゆかり”さん〜“有可理”さんまで色んな字があるけど、とにかく“ゆかり”さんに所縁(ゆかり)があるのは間違いない。
 っていうか、鈴木ゆかりとかゆかりんとか、お前ら出会い系の迷惑メールよこすんじゃねぇ馬鹿野郎! などと憤慨して、なんとかチョコレートにゆかりの無いバレンタインデーの日記を乗り切る所存に御座います。

 

2006年02月13日(MON)  バッハの耳はどんなイヤー?
 京滋バイパスの事故に震撼させられた。あの道は綺麗な上に空いているし、僕の記憶ではスピード違反取締りのレーダーが無かったと思うがどうだろう。とにかく飛ばせて気持ちの良い道なので、無意味にゆっくり運転をする車があったら腹が立つ時もあるくらいだ。
 驚いたのはまだあって、事故に巻き込まれてインタビューを受けている人が知り合いにそっくりだったということ。あんまり親しくは無いので自信はないし、なんだか若く見えたのできっと別人かも知れない。

 似ているといえばトリノオリンピックの開会式で歌ったルチアーノ・パバロッティさんには驚いた。彼が今何歳か知らないけど変に若く見えた上に歌声に張りが無いように聴こえてたので、良く似た別人だと思ったくらいだ。もっともパバロッティに代わって、プラシド・ドミンゴやホセ・カレーラスが歌っていたって僕には分らないだろうし、プラシド・ドミンゴの代わりにプラシド・フラミンゴ(セサミストリートに出てくる鳥の歌手で、こいつがまた上手いのなんの)が歌っていても分らないと思う。

 モーツァルトイヤーで彼の音楽が街に溢れていると書いたら、「モーツァルトの耳ってどういう意味か」と聞かれた。天才モーツァルトの耳がどんなだったか知らないけど、多分普通の人とそんなに変わりは無かったんじゃないだろうか。
 それはさておき、本当にモーツァルトの曲が街に溢れているのかとよくよく注意して聴いてみるのだけど、実際にはそれほどでも無さそうでがっかりする。

 世間の人がクラシックと聞いて真っ先に思い浮かべる作曲家って誰なんだろうか。コマーシャルのバックに流れている曲で、クラシックといわれる範疇の作曲家で最も登場する回数の多い人は誰なんだろう。
 統計なんかとったことは無いけど、僕が思うに一番多く採用されている作曲家はバッハだと思う。僕がバッハびいきだから耳につくのだと言われたらそうかも知れないけど、まず他を圧倒して登場すると思っている。それを裏付ける根拠も無くて言い張る僕の耳は、きっとバッハイヤーなんだろうと思っている。

 

2006年02月12日(SUN)  生きているだけでは待ちぼうけ
 ♪待ちぼうけ、待ちぼうけ、ある日せっせと野良仕事……。
 日記に「蕎麦打ちを始めます」と書いたら蕎麦切り包丁を頂いたのに味を占めて、今度はバイオリン、バイオリンと連呼して童話にまでバイオリンを登場させてバイオリンが転がり込まないかなぁと期待しているのに何事も起こらない。このまま待ちぼうけを食らい続けて気が付いたら棺おけに片足を突っ込んでいるんじゃないかと思うから、ここらで二匹目を狙うのは止めにしようと思う。

 いや、去年もそんなこと考えて東京の某親方のバイオリン工房に出かけてバイオリンを作って欲しいと頼んだんだけど、「作ってやらん」と言われて凹んだ。とても美しい楽器を製作される方なので残念だったけど、ヤフーオークションで良いものが手に入ったので今もそれを使っている。それでは駄目なのかと問われたら駄目なわけじゃ無いのだけど……。

 どんな楽器でも演奏技術の習得は難しい。中でも無理な姿勢で弾くバイオリンは子どもの頃から習わないと、音感はもとより肉体がついて来ない。しかしだからと言って何もしなければいつまでたっても前には進めないので僕は練習する。
 練習量に比例して上手になれば良いがなかなかそんな都合良くはいかない。停滞する日もあれば今まで出来なかったのが急に出来るようになることもある。努力はカタチで報われるのだ。

 童話を書いているけど、上手くなったのかどうかを自分で客観的に判断するのは難しい。文章は読み手が必要なもので、将棋みたいに段位があって対局の勝ち負けで雌雄を決するのじゃない。
 ワインはボトルを1本空けないとケジメがつかないし、曲も最後まで仕上げなければ気持ちが悪いので頑張るけど、童話はどこまで書いてもゴールが見えてこない。それどころか書き直せば書き直すほどぬかるみに足をとられてもがく破目になる。
 でも少しは進歩知れるんだろうから、バイオリンを毎日練習するように童話も毎日書いていたらもっと上手くなるんだろうなぁ。待ちぼうけしてても駄目みたいだから、そうしようと思う。

 

2006年02月11日(SAT)  貧乏は、おいしい!
 白ねぎ、油揚げ、玉子、鶏肉、しいたけ、粉山椒はあるし……。何か足りない気がするけど、かまぼことかじゃないし……まあええか。
 というわけで土鍋に水をはって“粉末だしの元”をサラサラふりかけ、冷凍にしておいた細切れ鶏肉を放り込んで沸騰したら麺を入れる。
 今回は細打ち麺だからほとんど同時に椎茸なんかも煮ても良いだろう。要はゆで過ぎないことだけで、八丁味噌を溶き込んだら生卵を真ん中に落としてふたをしたなら火を止めて待つこと5分。味噌煮込みうどんの出来上がり。冬に一度はこいつを食べないと気が済まない。

 名古屋名物味噌煮込みうどんが大阪でも普通に手に入るようになったのはうれしいが、やっぱり本場の物には程遠い。味ではなくてうどんのコシが無い。本場のものはコシというよりほとんど芯と言っても差し支えないくらいなもので、初めて食べたら誰でも、「まだ芯が残ってるじゃないか、手を抜かずにゆでろ!」と腹を立てるほど硬い麺なのだ。
 やっぱり味噌煮込みうどんはあれじゃないと駄目だが、大阪人には受けないだろうから今のところは細打ち麺で手を打っておくが、いつか本物がスーパーの店頭に並んでほしいもんだ。

 四国に生まれたのだからうどんは大好きな僕だけど、寒い冬に伊勢うどんを初めて食べた時は涙がこぼれそうになった。ゆで上げられ忘れて釜の底で1時間くらい眠っていたように軟らかい麺は醤油でドス茶色に染められ、トッピングはきざみネギだけ。
 冷えきった体はアツアツの汁を楽しみたいのに、冷たいどんぶりに冷たいダシ醤油がかけられているものだから、まるで茹でサナダムシでも食っている気がした。
(あ〜あ、貧乏人はこれだから悲しい。寒い冬に金が無いだけでこんなに情けないもんを食わされるなんてやってられんよ)
 僕はあの時伊勢うどんを食わせた知人を心底恨んだものだったが、もちろん今は美味しいものを教えてくれたと感謝している。

 味噌煮込みうどんも伊勢うどんはそれぞれ愛知県と三重県の名物なのだけど、お隣の県同士なのに、まるで意地の張り合いでもしているみたいに食感の違うものが好まれるようになったのはどうしてだろう。
 名古屋人に伊勢うどんをあげたらどんな感想が聞かれるか実験したことがあるけど、大人の答えが返って来てがっかりした。なら毎日食べたいと思うのはどちらかと聞いたら、「聞くほうが間違っている」と言われた。
 味噌煮込みうどんと伊勢うどん。どちらも金持ちの食いもんじゃないと思うけど、毎日1回食べても飽きが来ない。あ〜、貧乏はおいしい!

 

2006年02月10日(FRI)  モーツァルトイヤーの悩み
 今年はモーツァルトイヤーということもあって毎日モーツァルトの曲を耳にしない日が無いくらいなので、モーツァルト大好きの僕としても胸が躍る。それはきっと世間の人も、いや牧場の牛さんや鶏舎のニワトリさんからプランターのフリージアちゃんに至るまで浮かれているに違いないのだ。なのでバイオリンを習っている僕としてもモーツァルトのコンチェルトをレッスンしてもらうことにした。

「お師匠ちゃま、次のレッスンはモーツァルトのコンチェルト3番でよろしかったでしょうか?」
 バイオリンの先生は曲に対して好き嫌いが激しいので、顔色を伺いながらレッスンする曲を決めないといけない。しかしモーツァルトは音大の入試の課題曲に採用されるほど基本中の基本だから彼女に弾けない筈は無いだろう。果たして暗譜で上手に弾いて下さったので、一安心して楽譜を買うことにした。

 楽譜屋さんのサービス券が3000円分くらい貯まっていたので少し遠いけど梅田まで足を延ばした。関西では有数の楽譜屋であるササヤさんだけど、この店は心斎橋YAMAHAみたいに日本語で楽譜を探せない。ぐずぐずやっていたら誤ってハイドンのコンチェルトを見つけてしまったが、これも好きな曲なのでとりあえずゲット。あ、でもこんな曲お師匠ちゃまは知らないのと違うか? う〜ん、でも弾きたい。

 半年かかってようやく昔のレベルにバイオリンの技術が戻ってきた。あぁ、歳はとりたくないもんだなと実感するのは、こんな風に運動神経が鈍くなったのと視力が衰えたと思う時。でも眼鏡は必要ないし特に装具も要らないのだから、親に感謝しなければと思うのもこんな時。もうちょっと身長と指が延びてくれたらなんて、このさい願うまい。

 難易度はハイドンのコンチェルトの方が易しそうだし、モーツァルトの方はカデンツァをどれにするかで難しさが違ってきそうだ。リハビリ上がりの身としてはとりあえずハイドンをチョイスしておきたいのだが、問題は初見の苦手なお師匠ちゃまの意見だ。あ、でもこの程度の曲なら大丈夫だ、だよなお師匠ちゃま。

 

2006年02月09日(THU)  市長逮捕に民度が問われる
 もう既に遠い過去のことだから実名を出しても名誉毀損とか何とか言って難癖を付けられることも無いだろうが、告訴されない代わりに人知れず6フィートの地下に葬られるのも男の本懐だとは思えないので、はなはだ歯切れ悪く憤ってみたい。

 その昔のこと、宝塚市内に宝塚歌劇団出身の美人ママさんが営むスナックがあって、知り合いとちょくちょく飲みに行ってたのだけど、ある夜カウンターの隣に座った紳士がママさんから先生と呼ばれているので何の先生をなさっているのか訊ねたら、「ワシか? ワシは産婦人科の医者や、へっへっへ〜……」と答えた。
 その後は文字にするだけで顰蹙を買いそうなので止めるけど、彼の立派な身なりからは想像できない低俗な話題しか聞かれなかった。
「こいつはクズだな」と若造だった僕が思ったくらいだから相当に掬いがたい男だったが、後で聞いたら宝塚市会議員だというじゃないか。彼に一票を投じた宝塚市民があの姿を見たらどう思うだろう。

 自民党や民主党の先生が酔って女性に暴行を働いたのを酒の上でのことと申し開きしているようだが、飲んで馬鹿騒ぎするのも素人のうちに済ませておけと言いたくなる。そんな乱暴狼藉が許された時代がとうの昔に終焉を迎えたのがどうして分らないのだろうか。
 小学生じゃあるまいに、といったら小学生が怒りそうなほど幼稚な連中がどうして代議士をやっているのだろう。彼らが民意を代表しているというのなら、彼らを選出した市民もまた彼らと同じ民度ということになるのだろうか。

 しかしそうは言っても人を見かけや財産の多寡で判断したくなるのも分らないではない。僕だって背が高くてハンサムで金持ちになりたいという叶わぬ願いを持ち続けているのだから、それらを獲得している男を見て崇敬の念を抱いたりもする。なぜそうなのかと言えば、世間の女人がそう考えているからで、それが僕自身の価値観とは相容れなくても抗い得ないのだ。

 パチンコ屋から賄賂を受け取った咎で逮捕された宝塚市長と、法隆寺から仏像を盗んで逮捕された男のどちらも不可解だなと思う理由は、あまりにも手口が稚拙すぎるということ。
 小泉政権になってからというもの、この手の拙劣な犯罪が目立つように思えてならない。いや、これで良いのだと思う。犯罪はいつか露見するものだという風潮が小泉政権以前には無かったのだから、その点ではおおいに結構なことだと思っている。

 

2006年02月08日(WED)  悪夢の種まき
 つづき
「そやけどここんとこ夢見が悪うてな、ついに風俗通いがばれて嫁がこのカードを手裏剣みたいに俺に投げ付けるんや。プラスチックやと思てたら鉄の刃が付いとって体中にグサグサ刺さるんやんか。あ〜、もうアカン! いうところで目が覚めたときの怖いことって無かったなぁ」
 ほとんど夜毎に風俗店を訪れているような剛の知人だけど、最近になって放蕩振りが嫁さんにばれるんじゃないかと心配になってきたらしい。

 夢見の悪さといえば僕もこのところ怖い夢ばかり見ている気がする。場所は大抵ゴルフ場のティグランドで僕が一番最初に打つんだけど、ボールを置こうとしたらそこは一面岩場で、ボールを置くためにティペグが地面に刺さらない。
「おい、後ろの組に追いつかれたぞ、早く打てよ」
 仲間がせかすので仕方なく岩の上にボールを置いて打とうと振りかぶったら頭の後ろに木の枝がせり出していてクラブが当って振れない。
「コラー、前の組何やとるんじゃー、早よう打たんかいワレー!」
 後ろの組は血の気の多いデンジャラスナ方がたのようだ。 
「す、すみません今打ちます」
 結果は空振り! 罵声はますます高まるばかり。頭の中は真っ白になってその場に倒れこんだところで目が覚める。

 3月末にゴルフの予定はあるけどそのせいではないと思う。以前は朝一にティグランドに立って、見ず知らずのギャラリーの視線を感じると膝が震えたものだけど、年相応に図太くなったのかティショットに自信が付いたのか、むしろ僕のショットを見てほしいとさえ思うようになったのだから、原因はバイオリン教室か童話教室だ。でもバイオリンの方は耳鳴りを克服したはずだから、残るは童話教室に違いない。すると後ろの組のデンジャラスナなお方というのは他でもないドンさまということになるのか!

 恐ろしい夢には違いないが、原因が分れば対策もおのずと発見できよう。心配なのはもう一つ新しい悪夢を見るようになったことなのだ。
 場所は特定できないけど相手は女性記者で、ホームページのアドレスを聞かれて答えたらその場でアクセスされたたのだけど、「こ、これですか! 結構なご趣味で……」と言われて見たら、トップページにはあられもない画像が一面に貼り付けられていて、あまつさえ動画まで盛りだくさんのイカガワシイページに改変されているではないか。
 僕の人生終わったな! と思って目が覚めるというものだけど、真に怖いのはこの悪夢の種がどこから芽生えたか分らないところにあるのだ。

 

2006年02月07日(TUE)  こんな悪夢を観ています
 トランプでもするのかと思うくらい沢山のカードを持っている知人がいる。確かに僕だってキャッシュカードやクレジットカードにはじまって、スーパーのポイントカード、薬局のカード、カー用品店のそれなんかを一体何枚持っているか分らない。
 その中で最も多いカードといえば、恐らく病院の診察券だと思う。別に趣味じゃないけど同じ病院の診察券が何枚も見つかるし、土地土地で受診して二度と行くことも無い病院の券とかであふれ返っている。使いもしない昔のカードなんて誰でも山ほど持っていると思うけど、知人のカードというのはほとんど全てが現役なのだ。

「いったい何のカードなん? ちょっと見せてよ」
 束のように輪ゴムでとめたカードを無造作に車に乗せているところをみると、盗られて困るようなものでもないらしい。
 スパイシーカレーの☆☆、うどん屋○○、△△パーキングといった種類のものが中心だが、最近はうどん屋のサービス券までカードになったとは恐れ入った。定食1回に付き1枚のサービス券を20枚ほど貯めて1食分を浮かせていた昔が懐かしい。

「なあ、こんなにカード持ってたらどこのカードか分らんなれへんか?」
 高速道路の料金所で“スルッとKANSAI”を出したり、スーパーでバイオリン教室のカードを出したりして笑われる僕としてはその辺が気がかりで仕方ない。
「……種明かししたろか、それ全部風俗店のメンバーズカードやねん」
「風俗店? うどん屋がやってるの? それに駐車場のもあるやんか」
「阿保やな、嫁に見つかっても構わんようにカモフラージュされてるんや、親切やろぅ」
「じゃ、このスパイシーカレーの本業は何屋さん?」
「そこはタイ人の女の子がおって○○してくれる店や、え〜でぇ!」
 何が驚いたといっても、彼の頭の中では百人一首の上の句を読まれて下の句が瞬時に見えるカルタ競技者のように、出鱈目な カード名と実際の店の名前が全て一致することだった。つまり“カレー☆☆”ときたら、「サワディークラップ(こんにちは)」とタイ人の女の子の微笑む姿が目に浮かぶと言うのだ。本当かいなぁ?
 
 つづく

 

2006年02月06日(MON)  神が心根に宿る不思議
 久しぶりにとても不味いイタリア産赤ワインに当ってしまった。腹立ち紛れに流しにぶちまけようとして、イタリアのブドウ畑で汗を流す中東あたりからの出稼ぎ少女(全くの事実無根)に想いを馳せて止めた。それにしてもあのエジプトフェリー沈没には驚いたが、その後の暴動にはもっと驚かされた。
 暴動が起きても仕方ないようなフェリー会社やエジプト政府の対応には日本でニュースを聞いている僕でも腹が立つし、親族が現場にいたなら投石したくなる気持ちも良く分かる。それは分るけどあの無尽蔵の石ころって一体どこから出てくるんだろう? 

 ワインは梅酒の壷に丸ごと一本分を空けて梅酒の浄化作用に任せることにしたけど、この梅酒自体がどうもおかしい。味がどうのこうのではなくて、飲んだ翌日に顔に吹き出物ができるし、なんだか体がだるいような気がする。以前に咳止めシロップを一気飲みして動けなくなったことがあるけどあの感じに似ている。
 不味いウィスキー、不味いワイン、不味い焼酎をブレンドしている梅酒だから、もしかすると梅のイニシアティブは既にスポイルされているかも知れない。とすると、やはり不味いもの同士の相乗効果が発揮されているんだろうか。

 断食道場に居たとき、「宿便」のことを良く聞いたものだ。通常の生活では排泄されない“うんこ”のことだけど、僕には断食で宿便が消えたような感覚は分らなかった。医者に言わせたら、「腸を切って見ても内視鏡で大腸を覗いても宿便なんてものは確認できんよ。だからそんなもの存在しない」という。しかし医者が腸を見る時って、たいていニフレックとかの下剤を患者に飲ませているんだから、宿便が既に排出されて綺麗になった腸を見ているんじゃないだろうか。だから宿便が本当にあっても不思議ではない。
 
「昼のお星はめにみえぬ。見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ」
 金子みすゞと違って、科学者とか医者とかっていう人種は目に見えないものは信じない人たちだから仕方ないけど、我々のように見えないけど神やUFOや宿便の存在を信じている人は少なからずいる。
 そうは言ってもあんなフェリーの事故を見るとアラーもゼウスも無いもんだと思う。でも助かったときは神様仏様のおかげなんだよなあ。あれも不思議だ。

 

2006年02月05日(SUN)  松下電器より心からお願い は効きますね
 僕が通っていた小学校は中学校に隣接していたのだけど、ある日のこと中学校の運動場に小型のヘリコプターが不時着したことがあった。
 パイロットが用を足したかったのか喉でも渇いたのか、それとも子どもたちの情操教育に一役買ってくれたのか、いずれにしてもトラブルで止む無く降りたのではないようだった。
 その事件は幼かった僕に強烈な印象を残して、大人になったらヘリコプターのパイロットになりたいと思ったはずなのに、どこをどう間違ったのか今はラジコンヘリで満足している。

 やはり小学4、5年の頃だったと思うが、学校が休みの日に運動場で遊んでいたら大型のバイクが乗り込んできた。記憶は確かなものじゃないが、あのバイクはYAMAHAのXS650という車種で、HONDAのCB750やKAWASAKIのW1と並ぶビッグバイクだったと思う。
 当時の若者の羨望のまとだったマシンにまたがるライダーは、自慢げに僕たちを一人ずつ後ろに乗せて運動場を一周してくれた。あの時の爆音と風の爽やかさといったら今でも思い出せるくらいだ。感動した僕は、大人になったらあのバイクを買うんだ、と思い続けて今も思い続けている。

 松下電器より心からのお願い、が届いた。言うまでも無く一酸化炭素中毒で死亡事故を惹起したFF式石油暖房機の回収を周知する葉書状の小包で、ペロリとはがして中を見るお役所からの案内と同じようなやつだ。
 誰だって隠されているものは見たくなる。週刊誌の袋とじなんかにどれ程ときめかされたか知れない。鋏を探すのもまだるっこしく手でビリビリと破って、結果に何度裏切られ続けても見たいのが人情というもの。だから電気屋の広告なんかゴミ箱直行主義の人でも、あのペロリは開けて見たくなるに違いない。

 最初の死亡事故が発生した時に原因を特定できず、半年もたって2度目の事故が起きてから公表して対策をしたにもかかわらず3度目の事故発生した。そこでようやく回収を決断するといった拙劣振りが非難されているが、その後の汚名返上にかけるナショナルの努力と費用には感服する。なんといっても1台あたり5万円で引き取ってくれるのだからすごい! 

 僕も早速押入れの中を探したけど、幸か不幸か該当機が無かったのでがっかりしてカラーで印刷されている写真をながめたのだけど、とても20年前の製品には見えない。今でも通用しそうな垢抜けた良いデザインだと思う。
「木目もグレーもあります」とあって、これでもし値段が入っていたら立派なカタログに見えるじゃないか。
 あ〜、僕もいつの日にかナショナルのFF式石油暖房機を買いたいものだ。

 

2006年02月04日(SAT)  蕎麦打ちもカタチから
 メールが一件も来ない日というのは淋しいもんだが、そんな日に“洋服のA社”さんから携帯にメールを頂くと、嬉しいながら落胆も倍加するのでちゃんと読んだりはしない。あそこでスーツなんかずいぶん買ったけど、こりゃ良い買い物をしたなんて思ったこためしが無いので、もう二度と買うものかと心に決めているからだ。
 それでも二年に一度3000円の割引券を律儀にも送って下さるので、イヤイヤながらも店に行ってはカードのポイントを足し算してもらって、特に買いたくも無い物を買って後悔することになる。

 世間はもう既に春物の商戦が始まっているのか! と思っていたが、どうやら「冬物最終バーゲン」の案内のようだ。昨日鬼が退散したばかりだというのに、今から来冬のコートを買いに行くのも寝た鬼が起きて笑いそうで気が進まない。しかしそうだな、今欲しい服があるとしたら蕎麦打ちのときに着る作務衣くらいなものか。だけどまさか洋服のA社さんに行って、「作務衣を欲しいのだが」なんて言えるだろうか。もし夏場なら甚兵衛作務衣を売っていても……どうなんだろう?

 作務衣というのはそもそもお僧の作業着なのに、近頃じゃ芸術家を名乗る御仁が結婚式にでも着て出席するというので、菩提寺の御住職が、「結婚式に作業着を羽織るのはいかがなものか」と苦言を呈されておられたりする。しかし先日のプチOFF会で当の御住職の着ておられた作務衣はかなりな上物のようだった。ということは絹の高級御作務衣が売られている昨今であれば、フォーマル風に着こなせる人物なら作務衣でどこに出たって許されるのかも知れない。
 とはいっても僕には高級御作務衣はまだ着こなせそうも無いので、泉北そばうち普及の会の制服(作務衣)が欲しい!

 

2006年02月03日(FRI)  蕎麦打ちはボランティアの精神で
 コーヒーを豆の状態から手動で粉砕して淹れるようになってから、家にいる時には1日に1杯か2杯しか飲まなくなった。中毒みたいに5、6杯も飲んでいた頃を思うと僕のコーヒー好きは案外底が浅かったのかもしれない。そうすると酒をワインなら1本、日本酒なら3合、それにプラスビールを2gくらい飲んでいる毎日の習慣だって、「飲みたければ密造から始めよう」と足かせをはめられたら、アル中も思ったより容易に克服できるかと思う。

 それでじゃないけど、「腹が減ったら自力で蕎麦を打って食おう」を合言葉にしているので、餓死したくなければ蕎麦を打つ。これで蕎麦打ちが上手くならないわけが無い。そのおかげで二八なら人前で蕎麦を打って振舞えるようにはなったが、十割蕎麦となるとまだまだ満足なものを打てないでいる。
 少なくとも20cmの長さの蕎麦を食べたいと思うのに、長くても10cmどまりで切れてしまう。これでは人様にお出しできるわけも無い。もともと繋がりにくい十割蕎麦といってもどこかにエラーがあるに違いないのだ。

 先日のプチオフ会で蕎麦を打って絶賛されたけど、あれで本当に良かったのだろうか。蕎麦の味としては悪くなかったと思うけど、食べた人は僕に対して賞賛を贈ったというより、目の前で打たれた蕎麦に対する敬意を払ってくれただけじゃないかと思えてきた。
 別に蕎麦屋を開店する目論見は無いが、くだらんいたずらやらかして叱られると屁理屈で答えた子どもの頃を思い出すと褒められた記憶が無いので、蕎麦を打って喜んでいただけると褒められたと勘違いして更に蕎麦打ちに熱が入る。
 しかし1回でも、「まず〜ぅ!」なんて言われたらがくっとモチベーションが下がりそうで、つまりその程度の意気込みが露呈しそうなので、しばらくはボランティアで蕎麦を打つとするか。

 

2006年02月02日(THU)  天才もまた障害のうち
 キリンの“ハートランド”というビールが爽やかで好きなんだけど、キリンビールが廃液を海に垂れ流したのでしばらく自力で不買運動を細々と続けていた。しかしそれも咽元を過ぎた頃なので、今はこそこそと買って飲み始めている。
 ライブドアには何もお世話になっていないはずだから慌てることも無いが、東横インには安いからたまに泊まることがあるので、しばらくはあのホテルを横目に見ながら高いホテルに泊まりたい。抗議の意味もあるけど、あの社長の記者会見を聞くと耐震偽装なんか平気でやりかねない印象を受けるからだ。

 それはさておき、ああいった記者会見に臨む経営者の危機感の欠如といったらどうよ。雪印の食中毒事件の最中に、「私、昨夜は寝てないんですから」と発言して、「病院で苦しんでいる人がいるんですよ!」と詰め寄られた社長とか、「身障者用の部屋を設けたって泊まる人が…。60km制限のところを65kmで走っても良いかなぁ…」なんて、ある意味では無邪気で正直かも知れないけど、日記で失言やら放言やら差別発言だらけの僕でもちょっと考えるっつ〜の! 

 イスラム教の預言者ムハンマドを風刺した絵を掲載したデンマークの新聞がイスラム教徒から激しい抗議を受けているらしい。外圧に屈しないで言論の自由は是非守って欲しいと思うけど、新聞社も節度ってモノがあろうに。
「タイヤの跡がアッラー(=神=ω こんな感じ)と読める」といわれて販売済みのタイヤを回収せざるを得なかった日本のタイヤメーカーの例を見ても分るように、抗議する側もち〜と度が過ぎると思うけど、それで善良なイスラム教徒が傷つくというのなら止めといたら良いと思う。
 ラムズフェルド国防長官の風刺漫画も問題になっているようだが、彼は善良な一般人でもないし傷ついてもいないのだから、あんなのは大いにやって欲しい。
 いつの時代でも権威を風刺するのは面白いものだからやりたくなる気持ちは分る。それに腹を立てるのも分るけど、抗議するならイエスキリストを風刺して対抗しろと言いたくなる。

 東横インの社長が障害者団体からの抗議を受けて会見する姿のしおらしいことといったらどうか。でもあれが障害者団体の正義の圧力に、幼稚ではあるけど言論の自由が屈したような印象を受けるのは報道の仕方に問題があるんじゃないだろうか。
「誰でも年老いたら障害者と同じ不自由をかこつのだから、そのために部屋を設けておくべきだ」
 抗議した側はそう言っているのであって、障害者を差別したと怒っているんじゃないと思うのだが、本当のところはどうなんだろう。
 いずれにしても、「あなたのような金儲けの天才だって障害の一つなんですよ」みたいな発言で社長に抗議してくれたら風刺が効いていそうに思うが、どんなもんだろう。

 

2006年02月01日(WED)  罪を犯す喜びとは
 やったことが無いと言えば嘘になり、やったことが無きにしも非ず、と言えば二重否定の強調構文となって、「はい、しかといたしましたが、もう二度といたしません」と懺悔しないわけにはいかない僕でも、国立大学が堂々とソフトの不正コピーを使っていたのには驚く。

 ワードやエクセルって純正のオフィスに抱き合わせで入っているけど結構な値がするから新しいのが買えない。仕方なく6年前のものを使っているけど、本当は無料の“ワードモドキ”(ワードとほぼ同じ機能を持った無料ソフト)があるのも知っている。でもあれを使わないのは、「ワードで縦書き20字×20行」という公募の応募規定があるからだ。
 とは言ってもどの道何を使って書いたってわかりゃしないどころか手書きだって構わないんだから、問題があるとしたら僕自身の妙な正義感によるものに違いない。

 毎日毎日詐欺や違法商品だの殺人だの胸糞の悪くなるニュースを聞かない日は無いが、ああいった事の下手人がどんな心理で犯罪に手を染めるか、当局は知っているのだろうか。知っているなら有効な手が打てると思うのに、犯罪は日ごとに新手法が開発されて取り締まりは泥縄状態が現状のようだ。

 百聞は一見に如かずという言葉がある。百見は一験に如かずという言葉も派生した。人は痛い目に会わなければ悪いことをしたという思いに至らないのなら、陪審員制度が発足した暁には疑わしきは罰するの精神を尊びたいと思う。
 窮屈な世の中になって進歩が止まるという意見は無視したい。なぜなら犯罪に喜びを見出す人が少なからずいるからだ。と言うより、犯罪ほどスリリングで楽しいものはない、と考える人が増え、この先も増え続けるだろうからだ。

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2006年02月2日()