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2003年9月23日 (火)僕はおなかが空いた

 ホームページのでーたーをノートパソコンに移し変えて、フォルダー構造を一新したらとんでもない時間がかかった。ページの数が増えるにしたがって、参照するファイルの指定が複雑になってくるのでエラーも増える。頭がボーっとしてきてまたさらにエラーを繰り返して時間がたって、食事の時間も忘れてまさに爛柯のごとくパソコンの前で動けなくなって、ふと気がつくとカップラーメン一個食っただけなのに気がついた。

 今日のところはこれぐらで許してやろう、と言いたいところだったが、実際に携帯電話に接続してみるとまた問題発生。モデムと携帯と両方の回線をバンドルしようとして時間がかかったり、つながっても非常に遅い。

 なるほど、以前に知人が「あなたはダイヤルアップユーザーのことを考えずにホームページを作っている。現時点ではブロードバンドユーザよりまだ多いはずだから、考えたほうがいい」そういっていたのを思い出した。トップページは軽くなるように作ったつもりだったがそれでも嫌になるほど時間がかかる。

 こんなことで現場から中継が出来るんかいな。先が思いやられるよ。

 
2003年9月23日 (火)は〜!

はー!疲れましたあ。やっとパソコンが少々強固なものになったみたいです。ノートパソコンのトラブルは、もともと持ってないdllを探していたみたい。トラブルではなかったのに自らトラブルにしてしまったみたいです。

エラーを調べたら、200件くらいありました。激しくインストール、アンインストールを繰り返し、レジストリーがごみだらけだった上に、例のスパイウェアのやつがバグッて、ウィンドウズのアップデートに失敗してたみたい。もう今日は熱が出てどうなることかと思ったけど、何とかリニューアルできました。ちょっとホットしました。

 
2003年9月21日 (日)らんかみち

 ホームページGVのサンプルがようやく出来ました。これを作るのに一番苦労したのは、タイトル(バナー)の部分です。書をもらってから取り込み、修正や透明化とかそんなので何回もやり直さなければならず、自分の能力の拙さにあきれ返っております。

 爛柯道(らんかどう、ではなく、らんかみち)と読んだほうがいいかなと思ってます。道を極めるという意味ではなく、「遍路みち」にも掛け、そこに至る道のり、という意味を込めたいからです。意味は中国の故事成語から成立したものです。

 その昔、中国のあるところに一人のきこりがいました。彼がいつものように斧をかついで山へ分け入りますと、洞窟のようなところで二人の童子が碁を打っているのを見つけました。彼は碁が大好きだったので「どれどれ」と覗き込みましたら、これがたいそう面白い。すこし見ておりますとお腹がすいてきました。童子は「これでも食べとけ」と、“なつめ”の実をくれました。この実はえもいわれぬおいしい汁が出まして、いつまでも涸れることが無かったといいます。

 しばらく飽きもせず見ていましたが、童子が「お前はもう帰った方がいいだろう、斧の柄(え)が爛(くさる)っているから」といわれてふと持ってきた斧を持ち上げると、はたして折れてしまったではありませんか。驚いて村に帰りましたが村の景色はすっかり変わってしまっていて、見知った人は誰もいません。よくよく聞いてみましたら、彼が山へ入ってからもう百年が過ぎていたのでした。

 どうでしょう、浦島太郎の話にそっくりですね。この話から爛柯は囲碁そのものを意味するようにもなりましたし、また何かに夢中になって物事を忘れてしまうという意味にもなりました。転じて、何かを一生懸命するという場合に使われるようです。集中力の無い私が座右の銘、あるいは戒めとしてこの言葉にあこがれるのもご理解いただけようかと思います。無為のうちに過ごしてきた今までの時間を取り戻すことは出来ませんが、残りの人生は夢中で生きてみたいと思っています。
 
 
2003年9月21日 (日)またもトラブル

 またパソコンがトラブってます。デスクトップの方は完璧になったけど、ノートの方でWindows のdllを失ってしまって泣いてます。こんなときになって、はー!アホヤ。

 でも駄目な事ばかりでもない。今まで理解できなかったことが今日ひとつ理解できるようになった。回復コンソールの使い方が分かったけど、それじゃあdllは戻ってこない。うん、Windowsの上書きは大変なのでアップグレードで対処しようとしたら最後の最後で失敗した。明日もう一回トライ。

ここからすでに「行」が始まっていたとは思いもよらなかったよ。

 
2003年9月19日 (金)スパイ対策

友人によると、今年の初めごろパソコンを買って、Yahooに接続して料金の心配や、海外に接続される心配が無くなったので嬉しくて夜ごとアダルトサイトに行ってはサンプル画像を集めまわっていたのだそうだ。
するといつの間にやら、たのみもしないのにパソコンの画面いっぱいにアダルト画像が出てくるようになったんだそうだ。

Yahooにつながって三日目くらいの出来事だったから思わず笑ってしまったが、これは他人事ではない。僕にも笑えない経験がある。

人呼んでブラウザークラッシャーというが、あれを駆除するのは至難の業だ。ウイルス対策ソフトやファイアーウォールではだめ、専用ソフトが必要だ。

友人はどうしたかというと、インターネットエクスプローラーの設定を変えて出なくしたらしいが、もちろん駆除できたわけではない。

あいつの“えげつなさ”といったら無いが、個人情報を盗んでいくというより広告がその主な目的なので、気分が悪いけど、見方を変えればそれほど悪質ではないかもしれない。なぜって自分の存在を隠したりはしてないからだ。パソコンの動作にも支障が少なそうだし。

ところがもっといやらしい、いや極悪なソフトにこの数日悩まされていた。知らない間にインストールされてしまう“スパイウェア”もしくは“アドウェア”と呼ばれる個人情報を抜いていくソフトだ(といっても違法とは定義できない)そいつがずっとバックグラウンドで動いて悪さをする。

分かってはいて、毎回駆除しているのだけど、ファイルをダウンロードするとしょっちゅうひっついてくる。この悪質ソフト連中は倫理上の問題もあるが、バグだらけらしくIEなんかを途中でとまらせたりするのでかなわん。強力なソフトが無料でダウンロードできるので今まで使っていたやつから乗り換えてみたらこれがいい。これなら毎日動かしてもストレスが無い。ちょっと一安心。

 
2003年9月19日 (金)ビューティフルマインド

[ビューティフルマインド]という映画を観た。内容は「シャイン」とよく似ているかもしれない。シャインは厳格な父親との葛藤とハードなピアノの練習の末に心を病んでしまったピアニストが復活する話だったけど、ビューティフルマインドは天才数学者が幻覚を見始めるという話。統合失調症という病名だけど何のことか僕には分からない。いつ公開された映画か知らないが、まだ見ていない人のためにこれ以上は話せない。淡々と話は進むが、心の病だけにとても怖い。

 幻覚を見るという人を以前知っていた。診断は躁鬱病ということだった。どんな幻覚か詳しく話してくれたが、そのときにはすでに治療を始めていて、薬が効いているのだと言っていた。にもかかわらず「今も幻覚は見えるのだが、家族にはもう見えなくなったと言っている」と極めて冷静に話していた。

 もう一人知っているが彼は幻覚ではなく、被害妄想が激しかった。診断は鬱病ということだった。「物が無くなった、個人情報を流した」そんなことを何度も電話で訴えられた。結局彼は実家に引き取られて本格的に治療を始めたが、2年間くらいは深夜のいたずら電話に僕は悩ませられた。とても頭のいい人だったので残念だ。  

あんまり頭良くても同じ回路ばっかり使っていると回路が焼き切れるんだろうか。いや本人のせいではきっと無いと思う。先日NHKテレビで、俳優の竹脇無我さん(60)が鬱病体験を告白していたけど、あれも本人のせいではないみたいだったから、誰でも心の病にかかる可能性は持っているわけだ。ひょっとしたら僕も何かの幻想で四国を巡ろうなんて考えだしたのかもしれない。回っているうちに目が覚めるんだろうか、今は分からない。

 
2003年9月17日 (水) は〜どきどき!

今日一日で何百回いや何千回マウスのクリックをしたことだろうか

朝からホームページ作成ソフトにかかりっきりになって夜の10時後頃になってようやくホームページグレードVのめどが立った

次期ホームページは遍路むきの和風で、トップページは固定のイメージで行くつもりだ、もう限界、ひとさし指が震えてきた

遍路ハンドブックをいただいたので読んでいたが、大変よくできた本だ
これによると今の時期は巡拝者も大変多く、納経の待ち時間が1時間もかかったりするとか

一人で歩くへんろを狙ってすれ違う車がUターンして乗車接待をする振りをしてお金をゆすったり、人里はなれたところへ連れて行かれることがあるらしい

また、「ただで歩ける四国遍路」と勘違いして接待のおねだりをする輩が増え、世間の風が冷たくなっているのだとか

ますます心配になってきたよ、大丈夫かなあ |||||/( ̄ロ ̄;)\||||||| まじ〜〜?

 
2003年9月16日 (火)お遍路セット

 先週の送別会でいただいたお遍路セットやその他を会社まで引き取りに行った帰りに、アウトドア用品店に入った。

 「最近のアウトドア、登山用品はとても進歩していて使いやすいが、あらかじめ使用方法を習得しといたほうがいいですよ」とアドバイスしてくれる方がいたので、最新の用品と靴を見に行った。驚いたことにザックのコーナーにはたくさん種類があって、手にとっていじり回してみても「どうやって、何のために、どう使うんだろう」と疑問をいだくものがある。店員さんに聞いて「ああなるほど」と何回も納得させられた。

ザックとズボンを買って帰ったが残念ながら靴にいいのがなかった。靴こそ早めに馴染ませとかなくてはいけなかったのに、しくじったか。明日ですべてのものをそろえるつもりだ。結構大変だ。

 
2003年9月15日 (月)阪神タイガース優勝おめでとう 

夕方、友の携帯にかけると周りがなにやら騒がしい。どうやら阪神タイガース優勝の瞬間を道頓堀で迎えようという魂胆と見えて、ヤクルトが負けるのを今か今かと待ち構える群衆の一人になっているという。「いい年をして目立ちたがりもほどほどにしとけば、それよりけがせんときや」と忠告はしておいたが優勝で盛り上がる大阪の町を中継するテレビで見て、友の姿が映りはしないか目を凝らしている僕も似たようなもんだ。タイガース優勝を18年間待ち焦がれていた友のことだからまあ少々羽目をはずしてもいいだろう。

 阪神優勝のときを楽しみに待っていたのは僕も同じなのだが、理由は彼とは少し違う。阪神が快進撃を続けて他を圧倒的にリードした7月頃に会社の若い者が「優勝したら女装して御堂筋を歩きますから費用は出してください」などと口を滑らせていたのを覚えているからだ。ハンサムな彼のことだから女装はきっと似合うに違いないが、問題は実行に移すタイプかどうかだ。優勝と岸和田だんじりの勢いに乗じてぜひ実現してください。写真を撮ったら、そのときは僕のホームページに投稿をお待ちしております。なにとぞよろしくお願い申し上げます。

 
2003年9月14日 (日)事故はいや〜!

 滋賀県の信楽方面に行くには、僕のうちからだと西名阪道を通るのがおおむね便利だと思う。だから今日も朝7時半に家を出て阪和道から西名阪道、そして名阪国道へ入った。そこまではいつも大して混むわけではない。問題は名阪国道に入ってからだ。この道はかつて有料道路であったということだが、今は無料。しかし信号がないので、ややもすると高速道路と勘違いしてしまうが、実は危険極まりない一般道なのだ。

 天理市から先、三重県方面がこの国道の始まりだが、三重県にたどり着くまでには(僕には名前がわからないが)高い連峰を越えなければいけない。この急坂を越えるときは努めて冷静に運転しようと心がけてはいるが、なかなかそうもいかない。

 人の駆け足くらいのスピードであえぎながら登っていく木材を満載したトレーラーとか、起動戦士とでも思えるような異様な形の大型機械を積載したトレーラーとかが渋滞の原因だが、それらを追い越そうとする、少しスピードの速い(それでも重そうな)トラックがさらに渋滞に拍車をかける。彼らはしかし追い越すと左側を走ってくれるからまだいい。最もいらいらさせられるのは遅い(かといってボロではない)乗用車がずっと右車線を走り続けてくれることだ。今朝みたいに時間の余裕があればいいが、急ぎのときは相当つらい。だからこの道の年中同じところで事故が発生する原因は、構造上の問題に加えてドライバー心理の問題が大きいのではないかと思っている。

今日も行きも帰りも事故に遭遇した。帰りは渋滞しただけで目撃はできなかったが、僕が知っている限り3件あってそのうちのひとつは車が炎上した。写真を撮ったので(といっても運転しながらなので良く撮れてない)明日アップロードする予定。

 
2003年9月13日 (土)さようなら

 雨模様の空の下、送別会場へ向かうために、家から歩いて駅に向かったら着いた頃には汗びっしょりになった。本日の主役は僕なのだからと、スーツを着たのがまずかった。このところ毎日がTシャツで過ごせるものだから久しぶりに着ると窮屈で仕方が無い。

 会社の最寄り駅に着くとすでに小雨が降り始めていた。今日は色々プレゼントも頂けるだろうからと何も持たずに会場へ来たので当然のように傘を忘れてきてしまった。途中で買った雑誌を頭に載せて会場である居酒屋の暖簾をくぐったら客は独りもいなかった。時計を見ると6時15分。開会までにはまだ15分あるがもう幹事さんが来ていてもおかしくないのにと不安になって仲居さんに尋ねた。「今日6時半からですよね」と僕「大丈夫です今日の6時半に予約が入っていますよご心配なく」と彼女。女の子も暇と見えてしばらく世間話をしながら待った。

 6時半を少し回ったところで幹事さんが現れた。彼とは入社して以来ずいぶんと飲みまわったものだ。その頃の僕といえば梅田界隈なんかほとんど不案内で、とりわけ夜の遊びなどしたことが無かったものだから同い年ながら、彼を遊びの師と仰いで夜な夜な北(大阪の繁華街を大きく二つに分けると梅田付近の北、と難波あたりの南になる)に出かけた。あの頃の楽しい経験が今まで会社に勤めてこれた理由のひとつにきっとあると思う。だが今考えてみればよくもあれだけ無為のうちに時を過ごせたものだと思わずにいられない。若気の至りといえばそれまでだがいかにももったいない気がする。そしてまた昨日もそれをやってしまった。

 居酒屋を後にして2次会のスナック。そして怪しげなスナックの客引きにふらふらと着いて行き気がついたら午前2時。大変な散財と時間の浪費を年甲斐も無くよく繰り返せたものだ。今からサウナに泊まるのももったいないので(さっきまで散々金を使っておきながらこんなところをケチる)漫画喫茶で始発電車を待ったが目が覚めたら8時を回っていた。結局追加料金をとられてしまって、何をやっていることやら。しかしまあこんなことをやるのも恐らく二度とは無かろう。最後の友たちとの夜はこうして終わりを迎えた。皆さん永い間どうもありがとうございました。遍路道中のたれ死ぬことがあっても決して皆さんから受けたご恩は忘れません。さようならお元気で。

 
2003年9月11日 (木)発願は四天王寺さん

 関西方面に住む人がお遍路に立つ前には、四天王寺さんか高野山に出かけて御参りするのが慣わしなのだとかで、一緒に巡礼する友と、飲み屋のマスターとで高野山に詣でようと目論んだが、昨日の朝の天は我々に味方してくれなかったので、高野山は諦めて四天王寺さんにお参りに行った。

 お遍路道中の安全を祈願して弘法大師の像に手を合わせ、ついでに親鸞聖人と聖徳太子にもお願いして「ああこれで一安心」そう思うやいなや西の空からお日様が顔を覗かせ、たちまちのうちに黒雲は吹き払われて青空に祝福されたのでした。「よっしゃー!どうやら願いは通じたぞ」と一同激しく思い込んで、この勢いに乗じて信貴山に詣でようということになったのだった。

 永く関西の地を仕事や遊びで、車や電車を駆使してめぐってきたにもかかわらず、僕は信貴山が何の山か知らなかった。昨日初めてそれが信仰の山だというのを知って今は自分の不明を恥じているしだいなのだ。

 ふもとに車をとめ、山頂のお寺まで小一時間かけて登った。寅の神様の使いとする寺あり、ムカデや蛇を神様の使いとする寺ありで、さすがに八百万の神様を信仰をする日本人の面目躍如といったところだろうか。ここにももちろんお大師さんの像があるのでお遍路祈願をしてきた。登るだけで疲れてしまって実のところどういった由来でお寺が集合しているのか結局分からなかった。同行したマスターは年に何度もここにお参りに来ているらしい。よく教わっとこう。

 夕方から退職祝いなどと称して、知人が100円ビールをおごってくれた。まだまだ俗世のしがらみが抜けきらない僕だが、そろそろ気合を入れて、本腰をいれてお遍路準備にかかるとするか。といっても今週はまだまだ飲む機会があるんだよなあ。

 
2003年9月9日 (火)貧乏は人を育む?

 濃いお茶とか紅茶が苦手なので、日ごろ喫茶店に入っても注文するのはホットコーヒーと決まっているのだが、とりあえずメニューは見ることにしている。何か珍しいものはないかと一通り読んでは見るが、結局はホットコーヒーかエスプレッソを注文してしまう。「そんなことなら初めからホットってゆうとけ」と友が言うが、彼もまた、毎回レモンティーを注文している。

僕「おんなじことやっとるやん」

友「いや俺のはな、これはリズムと信念なわけや。あんたみたいに優柔不断でやっとるんやないで」

僕「そういや歩き始めるときは必ず左足からと決めてる人がおるそうやけど、そういうあれ?」

友「そうやない。小学生のころ貧乏でな、ある日、金持ちの同級生の所へ遊びに行ったらレモンティーを出してくれてな、世の中にこんなおいしいもんがあるんかて感動したんやなあ。それからやと思うわ」

僕「ふーん!僕は初めてインスタントやない本物のコーヒー飲んだとき頭の中がしびれるような気がしたもんやけど、そっからしばらくハマッタね」

友「俺はね、今でも貧乏性が抜けんで、大も小も自分の家のトイレは使わないと決めとる。水も紙ももったいないからね」

僕「それでか!家に行ったときわざわざ庭に出て小便しとったんは。外で用を足すんが気持ちええんやとばっかり思うとった」

友「せやけど紅茶だけは贅沢するねん」

貧乏性をひけらかすようなことを言う彼だが今や邸宅を二軒持つそこそこの御仁なのだ。

実は彼の言う紅茶を出してくれた友達という人を僕は偶然にも知っていた。バブルの前に、2〜3度会ったことがある。温厚で気さくな感じの紳士という印象だった。紅茶の話を聞いて大阪市内に彼を訪ねてみたが、周りが近代的なビルに建て変わっているのにそこだけ昭和の30年台を思わせる、ひっそくした感があった。家業を継いだ彼は僕のことを覚えてはいなかったが、友の紅茶の話をしたら少しはにかんだような笑顔を見せ、それっきり黙りこんでしまった。何ともいたたまれなくなって早々に退散した。

泉北に帰って友にその話をしたら「そうかあ!きっと地上げにでも遭って人間が信じられへんようにでもなったんかなあ、人は変わるもんやなあ。会いに行くのやめとこ」

 赤貧に喘いで養子に出された友はその後、刻苦勉励し、やがてひとかどの人物になったが貧困の恐怖を今も払拭できないのだと述懐した。「たいした苦労の経験もない僕に遍路しながら托鉢などできるんだろうか」といったら、「俺は平気やで!」やて。たのむから一緒に行っても他所の庭先で小便はせんといてや。

 
2003年9月7日 (日)巣立ち

 残暑の厳しい金曜日の午後、定年を迎え退社する工場の事務員さんの送別会に出るために駅へ歩いた。毎朝出勤していたころの早朝の趣とは当たり前だがずいぶんと違う。ゆったり歩きながら駅前の商店街に着くと、なにやら提灯がたくさん飾られて、何かの催しでもあるのだろうか。ふと、その天井を見上げた。そこには今年になって作られたツバメの巣がいくつかあるが、もう雛の姿はなかった。確かお盆の前までは雛たちの鳴き声が聞こえていたはずなのにさすがに9月にもなると巣立ったに違いないのだが、今まで気がつかなかったのは自分の気持ちに余裕がなかったせいだろう。

 元の同僚と待ち合わせて1時間近くかかって会場に到着するとすでにわれわれ以外は全員そろっていた。もうすでに退職されている懐かしい先輩の顔も見える。これほど大勢の人に会うのも僕としてはしばらくぶりで少しうれしかったし、僕へのプレゼントもあったりして楽しく過ごせた。

 この会社に入って歓迎会をされて以来、何度送別会をに出席したか知れないが、とうとう来週の金曜日には僕自身の送別会がある。もうすでに退職した身ではあるものの、このまま送別会を無期延期してほしい気もする。そうすれば皆と別れなくても済むような気がするからだ。去るものは日々に疎し。自分から去っておきながら忘れ去られるのがやるせない。

 
2003年9月6日 (土)同じ轍を踏んだ

 酒も飲まずにパソコンの前に座り続けて、ふと気がつくと深夜になっていてびっくりしたりする。うまくソフトが操作できればいいが、そうでなければ何度もトライしているうちにこんなことになってしまう。起きている時間がだんだんと後ろにずれて、起きるのが10頃だったりする。よくよく考えてみれば今の僕はただのヒッキー(引きこもり)と変わりがないじゃないか。これじゃまずいと思ってトレーニングに出たが途中でメールが入って飲み屋に向かってしまった。

 数年前に酒屋さんの一画を改造して社長の奥さんが始めた立ち飲みだったが今では酒販売のスペースより大きくなってしまったほど、人気が出てしまった。7時ごろ店に到着すると、もうすでに社長は仕事を終え、客の一人になって飲んだくれている。適当なところに腰掛けて生ビールを注文してからテーブルの上を見ると目の前にあるのは“めだし”かつてママさんに「めだしって何のこと?」と素直な気持ちで聞いたことがあるが「めだしのことやん、これや」とめざしを持って来たので「ああ“めざし”のことか、そういや和歌山の友達もおんなじこと言うとったなあ」と返したらすぐに書き直してしばらく“めざし”とあったが、久しぶりに来てみたら元に戻ってしまっているではないか。仕方ないから「ママさん、めだしちょうだい」と注文しするのだった。

 連れと店を出て次の飲み屋へ向かう。この店はマスターが一人でやっているいかにも場末の立ち飲みみたいなところだ。何しろタバコを吸いながらものを作ってくれるようなところだから、注文するときは「タバコを吸い終わってから作ってくれ」といわなければならない。ここの客は人の時間を浪費するのが大好きな連中ばかりなのでちょっと油断をすると深夜を通り越して朝まで飲んでしまうことになりかねない。またやってしまった。日付が変わってラーメン屋に行ってしまった。トレーニングどころじゃない。反省。

 
2003年9月5日 (金)ジュラシックパークV

 ジュラシックパークVを観た。いつ公開された映画か知らないけど、マトリックスリローデッドに勝るとも劣らないCGは、僕のように映画を見慣れてない者には全く驚異的な映像が初めから終わりまでつづき、ターミネータの骸骨の動きがまだぎこちなかった頃からすると隔世の感がある。

 ストーリーをどうのこうのと言うより、絶体絶命のシーンがいったい何度出て来るのだろう、そのつど偶然と幸運と誰かを助けたいという強い意志とによって危機を乗り越えていくのは、まあなんと爽やかなことでしょう。ついでにTもUも観なおしたよ。

 
2003年9月3日 (水)お役所も変わったのか?

 ホームページにリンクしている喫茶ハッピーエンドで友達と待ち合せてモーニングを食べた。ここのママさんは大変器用な方で、自身がピアノを弾いて、バンドを率い、老人ホームなどで演奏をしているらしい。今朝は貸しホールとなっている自宅の一室でダンス教室が開かれていた。生徒は皆さん一線を退かれた方ばかりだ。と言うより、泉北ニュータウンが開発されてから30年ほどになるから、当時このあたりに家を建てた若夫婦も今はもう60歳を過ぎた方が多いというのもうなずける。だから喫茶のお客さんの多くはお年寄りなのだ。

 昼前に店を出て国民年金の手続きをするために市役所支所に出向いた。お役所仕事で待たされることを覚悟していたが大して混んでもなかった。職員もちてきぱきと言うほどでもないが、ちゃんと仕事しているし人当たりも悪くない。当たり前と言えば当たり前で、いったい僕はお役所仕事に対してどんな偏見の目で見ていたのかを今日思い知った。

 退職して国民年金に加入する人は1年ほどの支払い免除の制度があるらしく、免除の申請をするかと聞かれたので、そうすると答えたら、どうも書類が足りないらしい。家に帰ってから必要書類をそろえて再度おもむいた。手続きを済ませてよく考えてみたら、年金をもらい始めると、免除期間の間に納めなかった分、もらえる金額が1/3になるのだそうで、別に得をするわけでもないらしい。今ちょっと楽を出来るだけのことみたいだ。そりゃそうだ。明日は健康保険の手続きのため社会保険庁へ出向く。結構面倒な毎日を過ごしている僕なのだ。

 
2003年9月1日 (月)今日からフリーター

 「北京バイオリン」を見た。天才バイオリニストと田舎で称えられる13歳の一人息子を教育するために北京に出て、父親が全てを犠牲にしながらひたすら息子を育てる。やがて国際コンクールの選考会を目前にしながら、「音楽の分からない父は息子の巣立ちの邪魔だ」と考えて姿を消す。

 ストレートに、真っすぐに作られた、後味のいい映画だったと思う。それにしても少年役は俳優がバイオリニストを演じているのではなく、バイオリニストがそのまま役者になったと言っても言い過ぎではない。本当に全ての劇中の曲を演奏していても不思議ではないように思ったくらい上手かった。もうひとりライバルの少女が出てくるが、彼女もまた本当にバイオリンが弾けそうだ。素朴な田舎者の父親役がいい味出していたなあ。もう一回観よう。

 一流大学の法学部を目指して受験勉強に励む娘さんを持つ知人が、「お父さんは受験勉強の邪魔になるから。今日は帰らなくてもいいよ」と奥さんに言われて、先日の金曜日は夜通し呑んでいたが、彼も北京のお父さんといっしょの気持ちなんだろうなきっと。

 昨夜一緒に飲んだ別の知人が一人でアパートに引越したと言うので遊びに行ったが、「別れたん?」と聞いたらそうでも無さそうだったから、やはり受験生の娘さんのためかもしれない。アメリカなら9月は入学シーズン。僕も今日から新学期?みたいなもんか。

 
2003年8月30日 (土)初心を忘れた

送別ゴルフが決定した。滋賀県にあるザ・カントリーというところらしい。ここ数日パソコンの前で固まっていたので体が重くてしょうがない。トレーニングのつもりだったがゴルフの練習で終わってしまった。

 ホームページのほうはバナーをどんなものにするかで悩んでいる。お大師様どうかお知恵を。ってこれは他力本願か?

 
2003年8月29日 (金)トレーニング開始

 「歩いてお遍路するんです」と言ったら大方の人に「そのおなかでは無理やろ」と言われるのだが、それもごもっともだろう。身長165cm、体重70kgの姿は他人から指摘されるまでもなく、相当におなかが目立ってきた。入社した当時50kg程度だったのだから15年間で20kgも脂肪を身にまとったことになる。1年で1キロのペースだが、ここ数年の増加率は景気に反比例して右肩上がりを描き、相当なものだった。

 酒に寛容な会社だったこともあって、不況にもかかわらずよく飲んだので、アルコール性肝障害の疑いありと診断されたが同僚などは「アルチューハイマーやろ」などとからかう。その他もろもろの成人病予備軍が控えていて、ここらでひとつ負の連鎖を断ち切る必要があると判断し、ついにお遍路を決断した。長年の目標の一つだったがこのままでは絶対に野垂れ死にするか、3日くらいで音を上げるに違いない。明日から本格的にトレーニングに入るつもりだ。無論酒はちよっとだけ控える。つもり。

 
2003年8月29日 (金)へんろ道中

 山陽道を福山西インターで別れ、“しまなみ海道”に入ると程なく、正に島の上を走り始めることになるが、それが春先の3月ごろで、もし何も知らないで当地を訪れた人なら島全体がさわやかで、それでいてむせ返りそうになるほど馥郁とした香りに包まれているのを発見して、わが身の幸運を祝うことだろう。やがて香りの元がレモン、ポンカン、ネーブル、といったシトラスと呼ばれる柑橘類の花であることを、道中に売られている果物や看板からたやすく想像出来ることになる。

 僕の生まれた大島もこの海道の一部になるが、住んでいたころは一度たりともこの香りを楽しんだ記憶はない。みかん以外の柑橘類の栽培が少ないのもあるが、一年中住んでいるなら関心もないし、匂いも感じなくなってしまうからだろう。当たり前にあるのはありがたくもなんともないということか。

 島にはかつて、といっても昨年までのこと、島を二分する町にそれぞれ造り酒屋が1件ずつあった。僕の地元のブランド“藤ノ井”が一昨年廃業。隣町の蔵の“笹の井”が昨年末で廃業。世に聞こえた銘酒には及ばなかったものの純米酒や生原酒などはとても美味しいものだったので実に口惜しいかぎりだ。

 中国の酒、高粱酒(こうりゃんちゅう)や紹興酒といったアルコール度数の高い酒がビールなどの低アルコール酒に押されて中国でも生産量は減少の一途をたどっているのだと聞いたことがあるが、日本酒はもう30年以上も前から廃業する蔵元が増え続けているのだそうだ。酒税法に問題があるのだと酒屋のおやっさんがいっていたのを思い出す。今後増えることのないだろう伝統の造り酒屋を四国の巡礼の途中に訪れて見たいと思っている。

 
2003年8月27日 (水)今はまだつらい!

 伊勢で痛い目に会わされたのでその後も三重県を何度も訪ねながら、「絶対伊勢うどんは食うまい」と心に決めていたので、二度目に伊勢うどんを食べるまでに5〜6年はかかったろうか。

 ある日の夕方高速のパーキングに立ち寄ると驚いたことに伊勢うどんを食べている人が多い。かつて苦汁ならぬ甘汁を飲まされてからもう数年たっていたから当時のわだかまりはもう流れていた。ごく自然に伊勢うどんを注文し、冷静にその味を評価してみると、どうしてあのとき不味いと感じたのかが不思議に思えた。あるひとつのひらめきが浮かび2〜3食求めて家で食べてみた。

 ひらめきとは、何と一緒にこのうどんを食べるかということだが、僕が選んだのは芋焼酎のお湯割りだった。
ぬるいうどんなら熱いお湯割りでちょうど釣り合うし、ビールに飽きたら焼酎系がいい、最後を閉めるのならやはり炭水化物が良かろう。そんな単純な発想からだったが正解だった。

 「たたけ、されば開かれん。求めよ、されば与えられん」と聖書にあるが、この芋焼酎と伊勢うどんを下さったお二人は日ごろから僕を気にかけて下さっていたのだ。蕎麦を打ってくれた人やそのほかの方も同じなのだ。

 開かれ、与えられるのは神からではなく、隣に、いつも自然に居る人たちからなのだ。「汝のとなりびとを愛せよ」を結局実践できずに、そんな人たちから僕は去る。朝起きて、「辞めるのが夢であったらよかったのに」と思う。苦難の道を選んだことを後悔するのではなく、よき隣人と別れるのを今はまだ悲しまないではいられない。

 
2003年8月26日 (火)夫婦岩 

ぼくが初めて伊勢うどんを食べたのは、三重県担当の同僚と伊勢を訪問したときのことだから、もう10年以上前のことだったろうか。

伊勢に到着たのはお昼を過ぎていた。「伊勢うどんを食べたことがあるか」と訊かれ、無いと答えると「美味いと不味いと両方極端な意見に分かれる食いもんだが食べてみるか」といわれたので了解した。うそ寒い日だったので熱いうどんなら大歓迎だった。

着いた店はひなびた飯屋だった。おばあちゃん一人が切り盛りしているらしい。10人程度の座席があったが、遅い昼ということもあってか客は我々二人だけだった。

他でもない伊勢うどんを注文して熱々のうどんに期待していた僕の前に差し出されたのは、普通のどんぶりに太く白い麺、その上にねぎと削りかつおが乗っているだけのもので、真っ黒な汁がどんぶりの三分の一くらい入っている。「これはきっとこの上から熱いお湯を好きなだけ加えて食べるのだろう、まさかおばあちゃんだし汁で薄めるのを忘れているのということじゃないだろう」不思議そうな顔をしていたのだろう。同僚がすかさず「このままかき混ぜて食べるんですわ」と信じられんようなことをいう。「大丈夫やから食べてみろ」というので恐る恐る真っ黒いしょうゆをかき混ぜ、白いふにゃふにゃの麺を茶色に染めて口に運んだ。

思っていたより醤油からくはなかった。いや、それどころか甘い。旨みと甘みを勘違いしているのではないかと思える。無造作に麺を摘み上げるとプツリと切れてしまう。食感がやわらか過ぎる。極めつけはどんぶりも麺も汁もぬるいことだ。熱々のうどんで、ほっこりとしたかった僕は正直この同僚を恨んだ。悲しい気持ちで店を出て「美味かったか」と聞く彼には適当な返事しか出来なかった。

目的の地に行く道中には有名な“夫婦岩”があったので寄り道してもらった。大小の岩に太いしめ縄を渡しただけで、をれを夫婦と見立てるのには少し無理があるのではないかと思った。後で分かったのだが古代人たちはもっと深い意味をこの岩に込めたらしい。しかしあのときの僕は伊勢うどんから受けたトラウマと、太平洋側とわ思えないような重く垂れ込めた冬空に味気ない気持でこの本来はとても美しい岩を眺めていた。

雷で続行不能のため つづく

 
2003年8月24日 (日) プチ送別会
 金曜日には送別会があった。といっても僕のではなく、他の部の若者T君のだ。社屋も部署も違うので、ほとんど我々とは交流の無かった彼は、まじめで人当たりが良い人気者だったので送別会はとても盛況だった。ちょうどその日、我々はプチ送別会と称して蕎麦屋で飲み会を設けたが、ぼくの送別会とは名ばかりでその実態はいつもの飲み仲間の延長線上の花金飲み会みたいなものだ。それでも後輩から退職のお祝いに伊勢うどんをいただいた。わざわざ三重県の伊勢にて仕入れてきたものなのだ。

 伊勢うどんときいても知らない方も多いと思う。名古屋の味噌煮込みうどんが全国を席捲しそうな勢いであるのに比べて、この伊勢うどんという食べ物はみやげ物としてはあまり人気があるとは言いがたい。同じ中部地方でも、地元の伊勢うどん専門店(といってもただの食堂である場合が多い)を除けば三重県でもこれを出してくれるところは少ない。いわば知る人ぞ知る伝統食品なのだ。

 ではなぜみやげ物としても人気が無いのかと問われたら、理由は簡単だ。うどんと聞いた人は皆、讃岐うどんを思い浮かべ、出てきた伊勢うどんを見て先ずその素っ気無さ(普通はネギと花鰹がトッピングされているのみ)に度肝を抜かれる。食べてみてさらにうどんの食感の頼り無さにショックを受けるだろう。スキー場や何かで食べる熱い蕎麦の中に、一緒に茹でたと思われるうどんの切れ端が混じっていることがままあるが、あのふやけきった白い切れ端を思い浮かべてくれればいいだろうか。それが汁の中に浮かんでいるのではない。太くて長いうどんが茶碗の底に溜まった醤油の上に無造作に投げ入れられているといった風だから、うどんスープの素をお湯で希釈するのを忘れたのではないかと誰もが思ってしまうだろう。徳島あたりでは生醤油うどんが結構人気があるがあんな感じと思っていいだろうか。ただ味は全く別のもので、甘いうどん汁を食した経験の無い人ならまずこのあたりで「馬鹿にするな」と、怒るか、「何の咎で自分はでこのような仕打ちを受けなければいけないのか」と、情け無い思いにとらわれるかのどちらかに違いないのだ。こんな体だから、みやげ物にしたら食わずに捨てられてしまいかねないのでは、と心配で、おいしいと思っている人でも買うのがためらわれるからだ。

                               つづく

 
2003年8月21日 (木)タロイモ焼酎 

退職のお祝いとして梅の香りの良い、まるで梅酒を飲んでいるかのようなさわやかな梅ジュースと、鹿児島産さつまいも使用の芋焼酎をいただいた。早速ストレートで芋の独特の芳香を確かめてからロックで飲んだ。25度で飲みやすいが、これだって飲みすぎれば泡盛の40度のものと同じで足をとられてしまうから、いくら好きといっても2合程度で我慢した。

 僕がいも焼酎を好きなのには訳がある。小学生の頃に読んだ漫画で初めて芋焼酎なるもを知って感動した記憶があるからだ。横山光輝さんの作だったかもしれない。内容はラバウル島あたりが舞台で、優秀なゼロ戦乗りの伍長がいたが、事故で片腕を失う。利き腕だったので日々の生活にも支障をきたし、無論戦闘機など乗れるはずも無い。自棄になり酒に溺れるようになる。その酒がタロイモ焼酎なのだ。伍長はしかし自分の生き様を戦闘機に乗って死ぬことと見つける。やがて片腕で戦闘機を操縦して敵と戦って死んでいく。そんなストーリーだったか?実はほとんどいい加減の記憶しかない。

 いつも心の片隅にあの漫画があるので、あるときいつもの飲み屋で南方に従軍したというお爺さんに「タロイモ焼酎てどんなものか」と尋ねたら「あれはうまいもんじゃない」と即座に話を打ち切られてしまった。
 お爺さんの中では、タロイモ焼酎=戦争=嫌なもの=まずい。そんな図式があるらしかった。

 母は子供だった僕に大人になっても酒を飲むなと教えていたように思う。とりわけ焼酎には厳しかった。日本酒はまだましらしかった。母の中では、ビール<日本酒<焼酎と悪い順があり、焼酎を飲む人=アル中=酒乱=中風。そんな図式が出来上がっていたようだ。

 そんな母の教えの甲斐も無く。例の漫画を読んでしまった僕の中では、芋焼酎=デカダンス=伍長=カッコいい。そんな図式が出来上がってしまったのだ。タイトルも作者もストーリーさえも分からないあの漫画を、芋焼酎を飲みながらもう一度読んでみたいものだ。

 
2003年8月20日 (水)もういくつ寝ると

 デジカメでラジコンボートを撮影してみたが、これがとても難しい。今の廉価デジカメではシャッターチャンスと実際に撮影される映像との時間的ずれが大きくて動的被写体が苦手なのだ。

 フェレットを撮影したとき初めて気がついたが、お遍路リポートには問題がないと思われる。とはいえ通信手段を携帯電話に頼ることになるだろうから、それならいっそのことデジカメに限りなく近いソニーエリクソン製の505iにしようかと思っている。お遍路に出るまであと20日ほど。時間がほしい。

 
2003年8月19日 (火)他生の邂逅 

なんとか予定通り今月一杯で退職出来そうなので、お客様に引継ぎと挨拶をして回ってみたが、どなたも俄かには信じてくれない。キャラがこんなんだから仕方ないといえば仕方ないが本当なんです。もちろん四国巡礼についても同じく本当に目論んでいるんです。

 長年にわたりご愛顧くださったので、一度だけの挨拶にて「はいさようなら」というわけにもいきますまい。今後当ホームページにて皆様に恩返し代わりに、巡礼リポートをしていくつもりにしております。

 今生の邂逅は無いのかも知れませんが「袖触れ合うも他生の縁」と申しますので他生の日にはいつかお会いできると信じて皆様のご多幸をお祈り申し上げております。さようなら。

 
2003年8月17日 (日)蕎麦の味と共に

 僕が今の会社に入社したころの歓迎会ときたら今のそれとは比較にならないくらいに酒を飲んだものだ。まだバブルの残り火が熱かった、というよりも、ようやく僕たちもバブルの恩恵に浴するチャンスが巡って来た頃の15年前のことだから、それこそ馬鹿馬鹿しいくらいに酒を飲んだ。

 「僕、酒は大好きです」と公言していたものだから、「こいつを何とか凹ませてやろう」と、嫌がらせではなく、イベントか何かを心待ちにする子供のような心境で歓迎会を企画した諸先輩方の陰謀に易々とはまってしまった僕は、正に「飛んで火にいる夏の虫」そのものだった。

 居酒屋に始まった歓迎会ですでに何をどれだけ飲んだのか分からなくなっていた僕は数件目のスナックでトイレに入り、便器と友達になっていたらしい。正体不明の僕を担いでくれたのがもう一人の先輩と、例の先輩なのだ。僕はホテルに担ぎこまれる途中彼の背で気がついたのだが、あまりにも快適だったので寝たふりをしていた。

 当時90kgほどもあったろう屈強な先輩にとって、酔っていたにもかかわらず半分ほどの体重しかなかった当時のやせこけた僕を担ぐことぐらい造作もなかっただろうが、まだあのときのお礼は気恥ずかしくて言ってなかった。

 今ここにお礼を言わせてほしい。15年間にわたり共に飲んだ酒の量は分からないが、共に過ごした日々は蕎麦の味と一緒に深く心に刻むことが出来たと思えます。ありがとうございました。

 
2003年8月16日 (土)蕎麦のもてなし

 3日ほど飲んだくれているうち日記を書くモチベーションが滅亡していたのに気がついてあわてている。

 この二日間は蕎麦打ち会と銘うって先輩が蕎麦を打って皆に振舞ってくれたので蕎麦で飲んだくれていた。3年ほどの修業の後ようやくモノになったらしく、それでも成功率は70〜80パーセントというからよほど蕎麦うちは難しいものらしい。

 この日もバックアップとして出雲から生蕎麦を取り寄せておいたので安心して打つことが出来たらしいが、一連の動作によどみはなく慣れた手つきで打たれた蕎麦は今まで食したことがないほどおいしいものだった。

 この先輩には入社以来よく世話になった。ともにグラスを傾けた回数では最も多いはずだ。毀誉褒貶の多い、つまり良きにつけ悪しきにつけ極端な人格なのだが、人間という生き物を好きな人なので憎めない、愛すべき人物なのだ。「蕎麦を打つのはもてなしの心。煩悩を払拭できる」と言いながら出来上がった蕎麦に、参加者全員が彼のもてなしの心を堪能したのだった。

つづく

 

 

 
2003年8月12日 (火)半身浴 

温泉つきのゴルフ場があるというので出かけた事がある。コースは良かったのだが霧が出てボールを見失ってしまうので全員スコアカードを付けたくないような出来栄えだったので、後は温泉とその後の食事だけが楽しみとなった。

 ゴルフ場から送迎バスに乗って一般の人も利用する温泉に到着した。想像していたより立派な建物で、泉質はなんだったか忘れたがよく温まることが出来た。とは言うものの温泉に行きたいと主張した本人は、ほんの10分程度浸かっただけという、温泉の尊厳をおとしめるような入浴をしていたのを思い出す。温泉など一年のうちで数回しかいけないのだからしっかり元を取ればいいものをと思うが日ごろの習性で、熱い風呂にさっと入って、サーサー早くビールを、とやってしまうのだった。

 リフレッシュ休暇ということでお盆を避けて田舎に帰った。最近の流行である半身浴などやってみたいと思っていたのだが、大した効果も期待をしていなかった。なぜって、首まで浸からなくて肩こりがとれるとは思えないからだ。ぬる目のお湯に20〜30分程度浸かってみた。肩や首はまだ温まらない。こんなことでいいのだろうかと、半信半疑で風呂からあがるとその瞬間から肩、首がジワリと温もってくる。しばし肩こりも忘れることが出来た。半身浴侮りがたしだ。少し続けてみるか。

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